第9話 王様の食べる百円パン
第9話 王様の食べる百円パン
征一郎が目を開けると、灰色の空から細い雨が落ちていた。背中には固いアスファルトの感触があり、紺色の背広は泥と雨水を吸って重くなっていた。片方の革靴は脱げ、白い靴下には黒い油の染みが広がっていた。体を起こそうとしても膝に力が入らず、征一郎は閉店した薬局のシャッターへ肩を預けた。
昨夜、警察に保護されたあと、澪に付き添われて病院で診察を受けたところまでは覚えていた。その後、安全のために用意された一時滞在先へ移り、梅のおにぎりを半分だけ食べて客間の寝台へ入った。内側から鍵をかけたはずなのに、目を覚ました場所は灰街の路上だった。財布も携帯電話も常用している薬もなく、どうやってここまで来たのかという記憶も残っていなかった。
「誰かいないのか。車を呼んでくれ」征一郎は通行人へ声をかけたが、喉が乾き、途中で咳き込んだ。作業服の男は一度だけ振り返り、買い物袋を提げた女性は子どもの手を引いて道の反対側へ移った。
「私は天城征一郎だ。天城グループの会長だぞ」もう一度名乗ったが、足を止める者はいなかった。征一郎は背広の内ポケットを何度も探り、空になった布地を指でつまんだ。
灰街には、古道具屋、消費者金融、シャッターを下ろした電器店が並んでいた。二階の窓から張り出した物干し竿には、子どもの靴下と色あせた肌着が雨に濡れながら揺れていた。ゴミ置き場からは酸っぱくなった総菜と生ごみの匂いが漂い、風が吹くたび、空の弁当容器が路上を転がった。征一郎は灰街という名前だけは知っていたが、自分の足で歩いたことは一度もなかった。
「会長ではありませんか」
透明な傘を差した男が、征一郎の前で立ち止まった。煤けた緑色の作業着を着て、足元には何度も底を直した黒い長靴を履いていた。右手には葱と豆腐の入った買い物袋を持ち、左手の傘を征一郎の頭上へ傾けた。征一郎は眼鏡についた雨粒を袖で拭き、その顔を見上げた。
「私を知っているのか」
「真鍋です。七年前まで、天城グループ本社の広報部長をしていました」
「真鍋……」
「品質偽装を公表すべきだと役員会で発言し、翌月に解雇された真鍋ですよ」
「細かな人事まで、私が覚えているはずがない」
「私は一度、会長室へ呼ばれました。あなたは私の顔を見ず、机の書類に判を押しながら『会社に不要な人間は去れ』と言いました」
真鍋は買い物袋から水のペットボトルを取り出し、蓋を開けて征一郎へ差し出した。征一郎は一度ためらったが、唇の内側が張りついていたため、両手で受け取って水を飲んだ。冷たい水が喉を通ると、空になった腹が大きな音を立てた。真鍋は何も言わず、征一郎の左腕を自分の肩へ回した。
「どこへ連れていく」
「すぐ近くの食堂です。今のあなたには、車より食べ物が必要でしょう」
「私は天城家へ戻らなければならん」
「戻れば、また娘さんか黒瀬の管理下に置かれるのではありませんか」
「黒瀬の名前を、なぜ知っている」
「元広報部長を甘く見ないでください。会社の情報は、辞めた人間のところにも流れてきます」
征一郎は口を閉じ、真鍋へ体重を預けた。濡れた靴下で地面を踏むたび、小石が足の裏へ食い込んだ。途中の八百屋では、傷のある大根が二本百円で売られ、前掛けをつけた店主が黄色くなった葉を包丁で切り落としていた。真鍋が葉もつけてほしいと頼むと、征一郎は眉を寄せた。
「そんなものを食べるのか」
「細かく刻み、油で炒めます。捨てるところではありません」
「私の家では見たことがない」
「台所へ入ったこともないのでしょう」
「料理は使用人の仕事だ」
「その使用人の名前を、一人でも言えますか」
「料理長は料理長だ。名前で呼ぶ必要はない」
食堂は、閉店したクリーニング店を改装した小さな建物だった。色あせた看板には「よりみち食堂」と手書きされ、入口には骨の曲がった傘が何本も立てかけてあった。中へ入ると、煮干しの味噌汁と焼いたアジの開きの匂いがした。壁際では古い扇風機が首を振り、窓辺には洗った布巾が五枚、紐から垂れ下がっていた。
「真鍋さん、遅かったね。味噌汁が煮詰まっちゃうよ」白い割烹着を着た理恵が厨房から顔を出した。真鍋に支えられた征一郎を見ると、持っていた菜箸を止め、奥の長椅子を指さした。
「その人、ずいぶん顔色が悪いね」
「腹が減って動けないだけです。水は飲ませました」
「では、まず座ってもらいなさい。話は何か食べてからだよ」
食堂には十人ほどの客がいた。灰色のポロシャツを着た男は新聞を読み、茶色いカーディガンの女性は破れた買い物袋を透明なテープで直していた。窓際の若者は片足を引きずりながら、冷めた味噌汁を一口ずつ飲んでいた。皆、征一郎の顔を知っている様子だったが、近づいてくる者はいなかった。
「なぜ私を見る」
「天城グループにいた人が多いからです」真鍋は一人ずつ手で示した。
「あの人は天城運輸で二十六年働いた早川さん。隣は天城百貨店の縫製部門にいた野崎さん。窓際にいるのは、天城建設の現場で足を負傷した清水君です」
「私は、誰とも会ったことがない」
「向こうはあなたに会っています。入社式や創立記念式典で、壇上に立つあなたを見ていました」
「何千人もいる社員の顔を、すべて覚えられるはずがない」
「すべてではなく、ここにいる三人のうち一人も覚えていないのでしょう」
真鍋は厨房脇の段ボール箱から、透明な袋に入ったパンを取り出した。中には小さなコッペパンが二個入り、赤い値札には「賞味期限明日、百円」と書かれていた。片方は箱の下で押されたらしく、中央が平たく潰れていた。真鍋は袋を開け、一個を征一郎の前へ置いた。
「食べてください。昨夜から、ほとんど何も食べていないのでしょう」
「百円のパンを、私に食べろというのか」
「百円でも、パンはパンです」
「賞味期限が近いではないか」
「明日までです。今日食べるなら問題ありません」
「焼きたてのものはないのか」
「ある店にはあるでしょう。でも、私が買えるのはこれです」
征一郎はパンを手に取った。表面は少し乾き、焼きたての香りもしなかった。自宅では毎朝、温めたクロワッサンと果物が並び、気に入らなければ一口も食べずに下げさせていた。その料理を作っていた者の名前を思い出そうとしたが、「料理長」と呼んでいたことしか浮かばなかった。
「マーガリンならありますよ」理恵が小さな容器を机へ置いた。
「一人一個までです。みんなの分ですからね」
「僕は使わなくていいよ。会長に渡してください」清水が窓際から声をかけた。
「いらん。半分ずつにしろ」
「会長が遠慮するなんて、明日は雪かな」
「違う。私だけ二個使えば、真鍋がまた話を長くする」
食堂に小さな笑いが起こった。征一郎はパンをちぎり、マーガリンを塗って口へ入れた。わずかな塩気と小麦の甘さが舌に残り、腹がもう一度鳴った。二口目を食べるときには、最初より大きくちぎっていた。
「悪くはない」
「腹が減っていれば、百円でもおいしいでしょう」真鍋も自分のパンを食べた。
「だが、毎日これを食べる必要はない。働けばよい」
「ここに来る人の多くは働いています。私も夕方から工場の夜勤です」
「広報部長だった男が工場勤務か」
「あなたに解雇されたあと、同じ業界では雇ってもらえませんでした。天城へ逆らった人間だと、取引先まで知っていましたから」
理恵が大根の葉と豆腐の入った味噌汁を運んできた。煮詰まった汁は少し塩辛かったが、熱が冷えた指先まで伝わった。早川は配送部門が子会社へ移された際、いったん退職させられ、非正規社員として再雇用された。仕事の内容は変わらないまま給与だけが三割下がり、腰を痛めて休んだ月に契約を切られていた。
「そのような報告は、私のところへ上がっていない」
「上げようとした人間を、あなたが解雇したからです」
「私は会社全体を見て判断していた。現場の小さな問題まで知ることはできない」
「早川さんの二十六年も、清水君の足も、小さな問題ですか」
「経営には損失を抑える決断が必要だ」
「その損失の中へ人間まで入れ、数字と一緒に切り捨てたのは誰です」
清水は何も言わず、左右で形の違う運動靴の紐を結び直していた。野崎は食べ終えたアジの骨を紙へ包み、家で煮て猫に食べさせるのだと隣の女性へ話していた。紙には醤油の染みが広がり、野崎は汁が漏れないよう、何度も端を折っていた。征一郎は三人の顔を順番に見たが、やはり誰一人として記憶になかった。
「私が社長だった頃、天城百貨店は過去最高益を出した」
「ええ。その年に私たちの縫製部門はなくなりました」野崎が顔を上げた。
「利益を出さなければ、会社は残らない」
「会社は残りました。でも、そこで働いた私たちは、会社の外へ出されました」
「全員を救うことなどできない」
「全員を救えなかったことと、誰の顔も見なかったことは、同じですか」
野崎はそれだけ言うと、買い物袋の修理へ戻った。征一郎は味噌汁の椀を両手で包み、表面に浮かぶ大根の葉を見つめた。会議で読んでいた資料には、人件費七パーセント削減、非採算部門四百人整理、契約社員千二百人という数字しか並んでいなかった。そこに早川、野崎、清水という名前があったことを、考えたこともなかった。
「七年前、私が品質偽装を公表すべきだと言ったとき、会長はこう答えました」真鍋は食べ終えたパンの袋を小さく畳んだ。
「『嵐は高い場所から先に見える。頂上にいる私が晴れていると言うのだから、会社は晴れている』と」
「その言葉は覚えている」
「灰街には、ずっと前から嵐が吹いていました。給料を減らされた人、退職へ追い込まれた人、事故をなかったことにされた人が、ここへ流れてきた」
「私は知らなかった」
「あなたが知らなかっただけです。会長室の窓から見える空が晴れていたから、下にいる人間も濡れていないと思っていた」
征一郎は反論しようとしたが、言葉が出なかった。窓の外では雨脚が強まり、軒下から落ちる水が道路へ細い川を作っていた。早川は店内へ吹き込んだ雨を古い雑巾で拭き、野崎は濡れた傘を入口の端へ寄せた。誰かに命じられたわけでもないのに、二人は次に来る者が滑らないよう手を動かしていた。
「真鍋、お前は私を憎んでいるのか」
「あなたのしたことを忘れてはいません」
「ならば、なぜ水とパンを渡した」
「路上で動けない人を放っておけば、私まで人の顔を見ない人間になるからです」
「私を許したということか」
「助けることと、許すことは別です。百円パン一個で、七年前の解雇が消えるわけではありません」
征一郎は、残ったパンを袋へ戻した。赤い百円の値札は、雨に濡れた指で触れたため端が少し剥がれていた。以前なら食べ残しを下げさせ、新しいものを持ってこさせただろう。しかし今は、次にいつ食事ができるのかも分からなかった。
「それは夕方に食べてください」理恵が湯飲みへ番茶を注いだ。
「今夜は奥の長椅子を使えばいいよ。毛布は薄いけど、路上よりはましだから」
「私はここへ泊まるとは言っていない」
「では、どこへ行くんです。財布も電話も靴もないのに」
「会社へ戻る」
「今のあなたを、会社は会長として通すのですか」真鍋が尋ねた。
「私が作った会社だ」
「それを確かめたいなら、明日の朝にしてください。今は立ち上がる力もないでしょう」
征一郎は椅子の肘掛けをつかみ、立とうとした。しかし膝が震え、すぐに腰を下ろした。理恵は何も言わず、奥から古い毛布を持ってきて長椅子の端へ置いた。毛布には洗剤と日なたの匂いが残り、角には色の違う布で大きな継ぎが当てられていた。征一郎はその継ぎ目を指でなぞった。
「真鍋、あの三人の名前をもう一度言え」
「灰色の服が早川さん。茶色いカーディガンが野崎さん。窓際にいるのが清水君です」
「早川、野崎、清水」
「覚えてどうするんです」
「分からん。だが、知らなかったと言い続けるのは、もう通らないのだろう」
「明日の朝も言えたら、少しだけ信じます」
夕方になると、真鍋は夜勤へ出かけるため、作業着の上へ黒い雨合羽を着た。理恵は昼の残りの味噌汁へ大根と葱を足し、鍋の底が焦げないよう木べらでゆっくり混ぜた。早川は食堂の切れかけた電球を取り替え、野崎は修理した買い物袋へアジの骨を入れて帰った。清水は征一郎の片足へ、自分が以前履いていた古い運動靴を置いた。
「少し大きいけど、裸足よりいいでしょう」
「君の靴ではないのか」
「足を悪くしてから履けなくなったものです。捨てずに置いてありました」
「返せるかは分からんぞ」
「返さなくてもいいです。でも、履いた人の名前くらいは覚えていてください」
「清水だ」
「それなら十分です」
夜、征一郎は食堂の長椅子へ横になった。紺色の背広を脱いで枕代わりに畳み、白いワイシャツのまま継ぎの当たった毛布を胸までかけた。厨房には洗い終えた椀が伏せて並び、鍋の底には明日の朝に回す味噌汁が少し残っていた。雨音に混じり、壁の時計が進む音と、古い冷蔵庫の低い唸りが聞こえた。
「理恵、灯りを消さないのか」
「入口だけはつけておきます。遅い時間に食べ物を求めてくる人がいるから」
「代金を払えない者にも出すのか」
「食べた人には、床を掃いたり皿を洗ったりしてもらいます。できない日は、次にできる日に手伝ってもらいます」
「戻ってこない者もいるだろう」
「いますよ。それでも、食べ物を渡さなければ、その人の明日は来ないかもしれません」
征一郎は毛布の中で、内ポケットから百円パンの袋を取り出した。残っていた半分をすぐには食べず、潰さないよう背広の上へ置いた。百円という金額は、以前の征一郎にとって帳簿へ記す必要もないほど小さな数字だった。今夜は、そのパンが明日の朝まで自分の腹をつなぐ唯一の食べ物だった。
「早川、野崎、清水、真鍋、理恵」征一郎は暗い天井を見ながら、指を一本ずつ折った。
「何を数えているんです」流しで布巾を絞っていた理恵が尋ねた。
「今日、私が初めて見た人間の名前だ」
「初めてではない人もいるでしょう」
「向こうは私を見ていた。私が初めて見たんだ」
理恵は返事をせず、濡れた布巾を窓辺の紐へ掛けた。征一郎は目を閉じたが、会長室の大きな窓ではなく、灰色のポロシャツ、茶色いカーディガン、形の違う運動靴が浮かんだ。灰街には、今日になって嵐が来たのではなかった。征一郎が高い場所から見下ろし、晴れていると言い張っていた間も、人々は雨に打たれながら、百円のパンを分けて生きていた。




