第8話 消された監査役
第8話 消された監査役
午前六時を過ぎても、宗一は征和ホールディングス本社の監査役室に残っていた。紺色のスーツは背中に皺が寄り、白いワイシャツの襟には前夜の汗が乾いて薄い線を作っていた。机の端には、コンビニで買った鮭のおにぎりと、蓋を開けないまま冷えた豚汁が置かれていた。空調の止まった部屋には紙と古い絨毯の匂いがこもっていたが、宗一は何度も眼鏡を押し上げ、黒瀬の名が記された送金記録を読み返していた。
最初に見つけたのは、航が会社の資金を私的に流用したとされる振込記録だった。送金を指示した端末は航の執務室にあるものと記録されていたが、同じ時刻、航は役員会へ出席していた。監視カメラの映像と会議の議事録を照合すると、端末へ触れることなど不可能だった。さらに通信記録をたどると、黒瀬の補佐役が遠隔操作で航の認証情報を使った痕跡が残っていた。
「航は、やっていなかったのか」宗一は椅子の背にもたれ、乾いた唇を親指でなぞった。取締役会で航を責めたとき、自分は帳簿に残った数字だけを信じ、甥の説明を最後まで聞かなかった。航が「叔父さんまで僕を疑うのか」と言ったときも、監査役は身内をかばってはいけないと自分へ言い聞かせた。
「数字が嘘をついたのではない。数字を使って、誰かが嘘を作ったんだ」
宗一は次の資料を開いた。そこには麗華の秘書へ送られた匿名のメールと、美冬の携帯電話へ届いた音声記録が保存されていた。麗華には「美冬が会長の判断能力を疑い、成年後見人を付けようとしている」と伝え、美冬には「麗華が相続から妹を外すよう会長へ迫っている」と吹き込んでいた。どちらの情報も一部だけは事実だったが、前後の言葉が切り取られ、相手が財産を独占しようとしているように作り替えられていた。
「麗華お姉様は、私を会社から追い出すつもりよ」
「美冬は父さんが弱るのを待っているの」
「二人とも、同じ男の言葉を信じて争っていたのか」
宗一は音声を止め、額へ手を当てた。窓の外では配送業者のトラックが裏口へ入り、作業員が弁当の入った箱を運んでいた。以前ならこの時間になると、清掃員の女性が「また徹夜ですか」と声をかけ、余った飴を机へ置いてくれた。先月、その女性が契約を切られた際、宗一は忙しさを理由に事情さえ尋ねなかった。その契約解除を承認した書類にも、黒瀬の印があった。
資料の最後には、黒瀬が側近と交わした会話の記録が残っていた。麗華と美冬を争わせ、航を横領犯に仕立て、征一郎の判断力が低下したところで会社の議決権を奪う計画が具体的に語られていた。宗一は鞄から小指ほどの記録媒体を取り出し、集めた証拠をすべて複製した。転送の表示が終わるまでの数分が、時計の針まで重くなったように長く感じられた。
「会長へお伝えしなければ」秘書の野村へ電話をかけると、四度目の呼び出し音でようやくつながった。受話口からは車の走る音と、野村の浅い息が聞こえた。
「宗一様、今どちらにいらっしゃいますか」
「監査役室だ。兄さんと話したい。黒瀬が航を陥れた証拠を見つけた」
「すぐにそこを出てください。征一郎会長が、昨夜から行方不明です」
宗一は立ち上がり、椅子を床へ倒した。昨日の夕方、征一郎は自宅の書斎で塩鮭と大根おろしの夕食を取り、九時前には寝室へ入ったという。ところが朝になると寝台は空で、普段使っている杖と血圧の薬まで残されていた。玄関の防犯映像は夜十一時から十二時まで途切れ、住み込みの家政婦は黒瀬の指示で休暇を与えられていた。
「警察には連絡したのか」
「黒瀬専務が止めています。会長は療養のため自分の意思で出かけたと言っています」
「薬も持たずにか。兄さんは朝夕の薬を一度も忘れたことがない」
「私もそう申し上げました。ですが、黒瀬専務は今朝、緊急取締役会を招集しました。議題は宗一様の解任です」
監査役室の扉が開き、警備員二人と総務部長が入ってきた。総務部長は鼠色のスーツを着ていたが、朝食に飲んだコーヒーをこぼしたのか、黄色いネクタイの先に茶色い染みがついていた。長く一緒に働いてきた男は宗一と目を合わせず、封筒を両手で差し出した。その背後では警備員が室内を見回し、机の引き出しや書棚の位置を確認していた。
「監査役、会社支給の端末から手を離してください」
「何のまねだ、岡部。私は不正の証拠を調べている」
「宗一様が経営権を奪う目的で、社内の機密情報を不正に収集していたとの通報がありました。取締役会の決議により、本日付で職務を停止します」
「兄さんが不在の間に決めたのか。黒瀬に命じられたんだな」
「私は、決定をお伝えしているだけです」
宗一は封筒を受け取らず、机の上の書類へ手を伸ばした。しかし警備員が先に端末を閉じ、電源ケーブルを抜いた。画面から光が消える直前、社内通信欄に「監査役による企業乗っ取り未遂について」という告知が表示された。宗一が会長の失踪に乗じて機密情報を盗み、所有株式を不正に集約しようとした、と書かれていた。
「これは捏造だ。私にはそんな権限も計画もない」
「詳しいことは代理人を通してください」岡部は床に倒れた椅子を起こし、宗一が食べなかったおにぎりを見つめた。
「持ち物を確認させていただきます」
「私物まで調べるつもりか」
「記録媒体を持ち出されては困りますので」
宗一は右手をズボンのポケットへ入れた。小さな記録媒体は掌の汗で湿り、角が皮膚へ食い込んだ。これを奪われれば、航の汚名を晴らす証拠も、麗華と美冬が操られていた記録も消される。宗一は背広の内ポケットから自分の携帯電話を取り出し、机の上へ置いた。
「好きなだけ調べろ。私は何も盗んでいない」宗一は両腕を広げ、警備員の検査を受けた。記録媒体は、いつも持ち歩いている胃薬の小瓶へ移し、錠剤の下へ押し込んであった。警備員は瓶を振っただけで、蓋までは開けなかった。
「もう行ってよろしいです」
「兄さんが戻ったら伝えろ。黒瀬を信じるな、と」
「会長の所在について、私どもは何も存じません」
宗一が裏口から会社を出ると、八月の熱気が顔へ押し寄せた。昨夜降った雨が舗装の隙間に残り、排気ガスと濡れた土の匂いが混じっていた。迎えの車を呼ぼうとしたが、会社から貸与されていた携帯電話は没収され、自分の電話にも運転手からの応答はなかった。道端の自動販売機で水を買おうとして財布を開くと、硬貨が一枚床へ落ち、側溝へ転がっていった。
「宗一さん、こちらをご覧ください」
「会長を追放しようとしたというのは本当ですか」
「不倫相手との間に息子がいるという報道について、一言お願いします」
建物の角から記者と撮影者が現れ、宗一を取り囲んだ。まだ取締役会が終わって一時間もたっていないのに、解任の情報は報道各社へ流されていた。記者が見せた携帯電話の画面には、若い頃の宗一と一人の女性が旅館から出てくる写真が掲載されていた。隣には現在の黒瀬の写真が並び、「会長一族を狙う隠し子の復讐」という見出しがついていた。
「その女性は誰ですか。黒瀬専務の母親で間違いありませんね」
「黒瀬さんは、あなたの実の息子なのですか」
「自分の息子を後継者にするため、会長を失踪させたのではありませんか」
「違う。私は黒瀬と手を組んでなどいない」
宗一は答えたあとで、自分の声が掠れていることに気づいた。三十年前、出張先で知り合った女性と関係を持ち、その後に子どもが生まれたと手紙で知らされた。金だけを送り、会いに行かなかった相手が黒瀬だったことを、宗一は半年前に本人から聞かされていた。それでも妻にも兄にも打ち明けず、黒瀬から「父親らしいことを一つくらいしてください」と頼まれるたび、社内で便宜を図ってきた。
「隠し子であることは事実ですね」
「奥様はご存じだったのですか」
「黒瀬専務を会社へ入れたのも、あなたの指示ですか」
「道を空けてくれ。今は話せない」
宗一が自宅へ戻ると、門の前にも報道陣が集まっていた。塀越しには、妻が朝に干した白いシーツと宗一の肌着が見えた。門扉のそばには宅配された牛乳瓶が二本置かれ、真夏の日差しを受けてぬるくなっていた。玄関のカーテンがわずかに動いたが、妻は扉を開けなかった。
「佐知子、私だ。中へ入れてくれ」宗一が呼びかけると、扉の向こうで鍵をもう一つかける音がした。
「あなたの顔を、今は見たくありません」妻の声は木の扉越しでもはっきり聞こえた。
「昔のことだ。説明させてくれ」
「昔のことなら、私は知らなくてもよかったのですか。あなたは黒瀬さんのことを知りながら、毎朝私の作った味噌汁を飲み、何も言わずに会社へ行っていたのでしょう」
「佐知子、兄さんが消えた。黒瀬を止めなければならない」
「また会社の話ですか。あなたはいつも、自分に都合が悪くなると会社を盾にするのですね」
扉の向こうから足音が遠ざかり、宗一は門前に取り残された。記者たちは妻の言葉まで拾おうとしてマイクを差し出し、撮影機の白い光が何度も目へ刺さった。宗一は胃薬の瓶を握り、記録媒体が入っていることを確かめた。ここで捕まれば証拠を奪われると考え、塀沿いの細い道から裏手へ回った。
「宗一さん、逃げるのですか」
「黒瀬専務へ何を指示したのですか」
「会長の居場所を知っているのではありませんか」
「ついてくるな。私は兄さんを捜さなければならない」
裏手には、古い稲荷社へ続く石段があった。雨上がりの石には苔が張りつき、両側の植え込みから蝉の声が耳を押すように響いていた。宗一は革靴の底が滑るのを感じながら、手すりへ手を伸ばした。しかし記者に腕をつかまれそうになり、体をひねった瞬間、右足が苔の上を滑った。
「危ない!」
宗一の体は石段へ横向きに倒れ、肩、腰、後頭部の順に硬い石へぶつかった。眼鏡が外れて空中を飛び、右目の上へ撮影機材の脚が落ちた。白い光が視界いっぱいに広がったあと、景色は水へ墨を落としたように崩れていった。それでも宗一は胃薬の瓶だけは胸へ抱え、両腕で覆った。
「救急車を呼べ」
「頭を動かさないでください」
「聞こえますか。名前を言えますか」
「瓶を……取るな」
誰かが肩へ触れるたび、宗一は腕へ力を込めた。左目には空の明るさがわずかに残っていたが、人の顔も石段の形も見分けられなかった。湿った苔の匂いと、自分の口の中に広がる鉄の味だけが強くなった。遠くで救急車の音が近づく中、宗一は割れなかった小瓶を指で確かめた。
病院で目を覚ますと、宗一の視界は厚い霧に覆われていた。右目には包帯が巻かれ、左目で見えるのは窓から入る光と、人が動いたときの黒い影だけだった。消毒薬の匂いが鼻に残り、枕元の台には手をつけていない粥と、小さく切られた煮魚が置かれていた。匙を持とうとして器へ指をぶつけた宗一は、濡れた手を病衣の裾で拭いた。
「眼球と視神経に強い損傷があります」医師はゆっくりした声で説明した。右目の視力が戻る可能性は低く、左目にも後遺症が残る見込みだという。手術後の経過を見なければ断定できないが、以前と同じように文字を読み、車を運転する生活へ戻るのは難しかった。
「眼鏡を替えれば、また見えるようになるのではないですか」
「眼鏡で補える部分の損傷ではありません」
「私は監査役です。帳簿を読まなければ仕事にならない」
「今は、目と頭を休ませることを考えてください」
医師が病室を出ると、看護師が私物の入った透明な袋を枕元へ置いた。割れた眼鏡、血のついたネクタイ、財布、そして胃薬の小瓶が入っていた。宗一は震える手で袋を探り、瓶の蓋を回した。錠剤を一つずつシーツへ落とすと、最後に硬く四角いものが掌へ触れた。
「それはお薬ではありませんよね」看護師が尋ねた。
「私の目より大切なものだ」
「そういう言い方は、ご家族が聞いたら怒りますよ」
「もう、家族と呼んでもらえるかも分からない」
「でしたら、これを守ったあとで、言わなければならないことがたくさんありますね」
宗一は答えず、記録媒体を握った。自分は不倫を隠し、黒瀬が息子だと知ってからも責任を取らず、会社での要求だけを聞いてきた。父親として向き合う代わりに役職を与えた結果、黒瀬は征一郎の家族へ入り込み、航を陥れ、麗華と美冬を争わせた。黒瀬がしたことは黒瀬自身の罪だが、その入口を開けたのは自分だった。
「電話を貸してください。航へ連絡したい」
「安静が必要です。短い時間だけですよ」
「声だけでいい。見えなくても、伝えなければならない」
「番号を教えてください。私がおかけします」
看護師が読み上げた番号を確認し、宗一は受話器を耳へ当てた。呼び出し音が続いたあと、航の低い声が聞こえた。宗一は何度も唇を動かしたが、最初の言葉が喉につかえて出てこなかった。病室の外では夕食の食器を下げる台車が通り、茶碗の触れ合う音が規則正しく遠ざかっていった。
「叔父さんですか」
「航、私だ」
「ニュースを見ました。今、どこにいるんです」
「病院だ。目を負傷した。だが、証拠は残っている」
「何の証拠ですか」
「お前を横領犯にしたのは黒瀬だ。麗華と美冬を争わせたのも、あいつだった」
受話器の向こうで、航が息を止めた。宗一は掌の記録媒体を強く握り、角が皮膚へ食い込む痛みを確かめた。もう帳簿の文字は読めなくても、そこに何が記録されているかは覚えていた。黒瀬に奪われる前に、航へ渡さなければならなかった。
「航、すまなかった。私はお前の話を聞かず、黒瀬の作った数字を信じた」
「謝るのは、あとにしてください。会長はどこです」
「分からない。だが、黒瀬が隠している可能性がある。この記録を使って兄さんを捜してくれ」
「叔父さん、その証拠を誰にも渡さないでください。今から僕が迎えに行きます」
「私のところへ来れば、お前まで乗っ取り犯にされるぞ」
「もう一度、家族を見捨てるつもりはありません」
通話が終わると、宗一は見えない天井へ顔を向けた。窓の外で日が沈み、わずかに感じていた光まで薄くなっていった。手探りで冷めた粥の器を引き寄せると、匙は何度も縁へ当たり、そのたびに少量の粥が病衣へこぼれた。それでも宗一は匙を置かず、一口ずつ口へ運んだ。
監査役の肩書も、会社の部屋も、家へ帰る道も失った。自分の顔を映していたはずの窓には、もう光と影しか見えなかった。しかし右手の中には、黒瀬が消し切れなかった記録が残っていた。宗一は小さな記録媒体を病衣の内側へしまい、航が来るまで誰にも触れさせまいと、胸元を両手で押さえ続けた。




