第7話 創業者、強制退去
第7話 創業者、強制退去
天城ロイヤルレジデンスへ移って四日目の朝、征一郎は午前五時前に目を覚ました。室内には消毒液と昨夜のカボチャの煮物の匂いが残り、窓には細い雨粒が流れていた。薄青色のパジャマの上から紺色のガウンを羽織ると、枕の下や机の引き出しを探したが、携帯電話も財布も会社のIDカードも見つからなかった。
午前五時半、白い制服を着た若い職員が薬と白湯を運んできた。盆には皮をむいたリンゴが三切れ載り、職員は電子端末へ征一郎の起床時刻を入力した。征一郎は薬包へ一度目を向け、職員へ背を向けた。
「薬は置いていけ。あとで飲む」
「服用を確認する決まりです。こちらでお待ちします」
「顔を洗うから、廊下へ出ろ」
「洗面所は室内にございます」
征一郎はガウンの袖で盆を押しのけた。リンゴと紙コップが床へ落ち、白湯が職員のズボンへかかった。職員が浴室へ布巾を取りに行った隙に、征一郎は廊下へ出た。
食事を運ぶため、扉の電子錠は一時的に解除されていた。征一郎は非常階段へ入り、冷たい手すりをつかんで階段を下りた。十階まで来たところで息が上がり、室内履きの中では、擦れた右足のかかとが熱を持っていた。
上から職員の声が聞こえたため、征一郎は十階の扉を開けた。そこにはシーツやタオルを運ぶ職員用通路があり、洗濯機の熱と柔軟剤の甘い匂いがこもっていた。征一郎は白いシーツを積んだ台車の陰へ身を隠し、追ってきた職員が階段を下りていくのを待った。
廊下の奥では、花柄のエプロンを着た清掃員が、梅干しのおにぎりを食べていた。征一郎のパジャマ姿を見ると目を丸くしたが、彼が地下の出口を尋ねると、休憩室から透明なビニール傘を持ってきた。征一郎は礼を言わずに受け取ったものの、傘の持ち手を強く握った。
「外は雨ですよ。お財布は持っていますか」
「家へ帰れば、金はいくらでもある」
「では、せめて靴を替えたほうがいいですよ」
「余計な世話は必要ない。出口だけ教えろ」
地下の通用口では、食品業者が朝食用の牛乳とパンを運び込んでいた。警備員が納品書を確認している間に、征一郎は荷物の陰を通って施設の外へ出た。雨がガウンの裾をぬらし、裸足に履いた室内履きへ冷たい水が染み込んだ。
大通りでタクシーを止めると、運転手はルームミラーで征一郎の姿を何度も確認した。車内には、朝食に食べたらしいカレーパンの匂いが残っていた。征一郎は後部座席へ深く座り、白街にある天城本邸へ行くよう命じた。
「天城本邸というのは、ロイヤル・アマギ・クラブですか」
「ホテルではない。私の家だ」
「あそこなら、三か月前から会員制ホテルですよ」
「そんなはずはない。私に断りなく、誰が家を売れる」
本邸へ到着すると、門には「ロイヤル・アマギ・クラブ」と書かれた金色の看板が掲げられていた。征一郎が植えさせた黒松は切られ、庭の一部にはガラス張りの受付棟が建っていた。雨にぬれた外国の旗が、門の両側で重たそうに垂れていた。
運転手から料金を請求され、征一郎は左手首の認証用チップを端末へかざした。しかし赤い光がつき、「利用停止中です」という音声が流れた。三度試しても結果は変わらず、征一郎は端末を手のひらでたたいた。
「中へ入れば金庫がある。そこで払う」
「現金もカードもないんですか」
「私を誰だと思っている。天城征一郎だぞ」
運転手は配車センターへ連絡し、料金を回収せずに征一郎を降ろした。征一郎は門の顔認証端末へ近づいたが、画面には「会員情報が確認できません」と表示された。何度顔を近づけても、門は開かなかった。
黒いレインコートを着た警備員が二人出てきた。征一郎が自分はこの家の所有者だと告げても、警備員は、現在の所有者は海外の資産管理会社だと説明した。会員証か予約番号がなければ、敷地へ入れることはできないという。
「妻の写真が二階にある。娘たちが幼稚園で描いた絵も、机の引き出しに入っている。あれは売り物ではない」
「管理会社へお問い合わせください」
「ここは私の家だ。私が帰るのに、誰の許可が必要なんだ」
征一郎が門を押すと、警備員が腕をつかんで止めた。ビニール傘が手から落ち、雨が銀色の髪とガウンをぬらした。征一郎は警備員の手を振り払い、門の隙間へ傘を差し込んだ。
騒ぎを聞き、宿泊客や職員がロビーの窓へ集まった。庇の下では、配達を終えた若い男性がスマートフォンで撮影を始めていた。征一郎はそれに気づかず、門へ両手でしがみついた。
「私はこの街を造った。おまえたちが立っている土地も、私が海から造ったんだ。麗華を呼べ。美冬でもいい。私が命じていると伝えろ」
「落ち着いてください。ご家族の連絡先は分かりますか」
「私を年寄り扱いするな。私は天城グループの会長だ」
「天城征一郎氏は、すでに会長を退任されています」
警備員は、侵入しようとする高齢男性がいると警察へ通報した。十分後にパトカーが到着し、警察官が征一郎へ名前と現在の住所を尋ねた。征一郎は同じ質問を繰り返され、濡れた門を手のひらでたたいた。
「名前は天城征一郎、住所はここだ」
「こちらは会員制ホテルです。いま生活している場所を教えてください」
「娘が私の家を勝手に売ったんだ」
「身分証明書はお持ちですか」
「携帯電話も財布も、美冬に取り上げられた」
警察官がホテル側へ確認すると、門は壊れておらず、警備員にもけがはなかった。しかし征一郎は全身がぬれ、裸足に室内履きを履き、身分証明書も現金も持っていなかった。警察官はその場で帰すことはできないと判断し、征一郎を保護して警察署へ連れていった。
征一郎が警察官の腕を振り払う場面は、スマートフォンで撮影されていた。「元会長、自分のホテルで大暴れ」という題で投稿され、一時間もたたないうちに数十万回再生された。「娘に捨てられた王様」「自業自得」という言葉が並び、門へしがみつく姿に笑い声を加えた動画まで作られた。
警察署で事情を聞かれた征一郎は、温かいタオルと乾いた毛布を渡された。机にはコンビニの鮭弁当と緑茶が置かれたが、征一郎は割り箸の袋さえ開かなかった。警察官が家族への連絡を求めると、征一郎はしばらく黙ったあと、濡れたガウンの袖を握った。
「三女へ連絡してくれ。天城澪という弁護士だ」
「電話番号は分かりますか」
「携帯電話を取り上げられたから分からない。灰街で法律事務所をしている。調べれば出てくる」
警察官が澪の法律事務所を調べ、電話をかけた。澪は奈々たちと訴訟の打ち合わせをしており、机には食べかけの卵サンドと、冷めたコーヒーが置かれていた。父親を保護していると聞くと、澪はしばらく言葉を失い、それから迎えに行くと答えた。
一時間後、澪は紺色のジャケットに水色のシャツを着て、警察署へ現れた。征一郎は長椅子に毛布をかけて座っていたが、娘の顔を見ると立ち上がり、鮭弁当を横へ押した。澪は父へ駆け寄らず、警察官から保護された経緯を最後まで聞いた。
「美冬の施設には戻らん。おまえが私を家へ連れていけ」
「私の部屋に、お父さんを受け入れる準備はありません」
「父親を警察署へ置いて帰るのか」
「帰りません。でも、言われたとおりにするために来たのでもありません」
澪は、本人を診察せずに作られた施設の診断書だけで、父の状態を決めることはできないと警察へ説明した。身元引受書へ署名し、天城グループと関係のない病院で診察を受けさせると約束した。征一郎は自分は病人ではないと反発したが、澪は父のぬれたパジャマと、赤く腫れたかかとを見た。
「いま必要なのは会社ではなく、着替えと診察です」
「私に命令するのか」
「選ぶのはお父さんです。私と病院へ行くか、美冬さんの施設へ戻るか、どちらかです」
征一郎は毛布を払い、澪の後ろを歩いた。車の中でも二人はほとんど話さず、澪は暖房を少し強くした。後部座席には訴訟資料と、奈々からもらった梅干しのおにぎりが残っていた。
病院では低体温や外傷の有無を調べ、足の傷を消毒した。緊急入院が必要な状態ではなかったため、澪は灰街の外れにある短期滞在用の部屋を借りた。部屋には小さなベッド、電気ポット、古い冷蔵庫があり、窓の外にはコインランドリーの洗濯物が回っていた。
澪はコンビニで買ったおでんと二つのおにぎりをテーブルへ置いた。大根と昆布の匂いが狭い部屋へ広がったが、征一郎は紙の器へ手をつけなかった。自分が使っていた寝室より狭い部屋を見回し、眉を寄せた。
「明日、今後の住まいについて相談します。携帯電話と財布も、美冬さんへ返還を求めます」
「おまえは私を助けたいのか、管理したいのか」
「命を守りたいと思っています。でも、会社を取り戻す手伝いはしません」
「ならば、何をしに来た」
「お父さんに呼ばれたから来ました」
澪は予備の鍵を征一郎へ渡し、翌朝に迎えに来ると告げた。征一郎は娘の背中を見送ったあと、おでんの蓋を開けた。大根はぬるくなっていたが、一口食べると、冷えていた指先が少しずつ温まった。
翌朝、澪が訪ねると、部屋は空になっていた。ベッドは使われた形跡がなく、テーブルには半分残ったおにぎりと、予備の鍵が置かれていた。征一郎は夜明け前に部屋を出て、灰街の奥へ一人で歩き始めていた。




