第6話 優しい次女の施設
第6話 優しい次女の施設
麗華から専用邸宅の維持費を見直すという通知が届いた翌朝、征一郎は食卓に封筒をたたきつけた。朝食には七草を入れた粥、焼いたサワラ、里芋の煮物が並んでいたが、湯気の立つ粥には手をつけなかった。濃紺のガウンの袖が味噌汁の椀に触れ、薄い染みが広がっても、征一郎は気づかず通知を読み返していた。
通知には、邸宅の警備員を十二人から四人へ減らし、料理人と庭師を通勤制へ変更すると書かれていた。さらに三か月後には、邸宅そのものを役員研修施設へ転用する可能性があると記されていた。征一郎は赤いペンで「却下」と大きく書き、給仕長の村岡へ渡した。
「麗華に持っていけ。今日中に、この通知を撤回させろ」
「私から麗華様の秘書室へ連絡いたしましたが、名誉会長の生活環境については、美冬様と協議するとの回答でした」
「なぜ美冬が出てくる。ここは私の家だ」
「邸宅の名義は、資産管理会社へ移されております。現在、その会社を麗華様が管理なさっています」
征一郎は椅子から立ち上がり、手にした箸を食卓へ置いた。箸は椀の縁に当たって床へ落ち、粥の米粒がガウンの裾へ飛んだ。村岡が布巾を取りに行こうとしたとき、玄関から来客を知らせる呼び鈴が聞こえた。
現れたのは、薄桃色のスーツを着た美冬だった。髪を柔らかく巻き、胸元には小粒の真珠を連ねたネックレスをつけていた。手には焼きたての食パンとイチゴジャムの入った籠を持ち、後ろには二人の秘書が立っていた。
「お父様、朝食は召し上がりましたか。近くの店で、焼きたてのパンを買ってきたの」
「パンなどいらん。麗華が私をこの家から追い出そうとしている」
「聞いています。お姉様は会社の数字しか見ませんから、お父様の暮らしまで経費として計算してしまうのね」
美冬は父の隣へ座り、冷めかけた粥の蓋を閉めた。持参した食パンを一枚取り出すと、征一郎が幼い頃から耳の部分を残すことを覚えていると言い、柔らかな中央だけを小さくちぎった。イチゴジャムを薄く塗ったパンから甘い匂いが漂い、征一郎は渋々一切れを口へ入れた。
「私の施設へいらしてください。海が見える特別室をご用意します。料理人も看護師も二十四時間おりますし、運転手も秘書も必要なときに使えます」
「老人ホームへ入れと言うのか」
「老人ホームではありません。健康なうちから人生を楽しむための会員制レジデンスです。財界の方も大勢いらっしゃいますし、お父様専用の執務室も作らせます」
「私は病人ではないぞ」
「分かっています。だからこそ、お姉様から守るために私のそばへ来ていただきたいのです」
美冬は征一郎の手を両手で包み、指の冷たさを確かめた。征一郎は手を引かなかった。前夜、電話をかけても誰も出なかったことを思い出し、少なくとも美冬だけは自分から会いに来たのだと考えた。
三日後、征一郎は美冬が経営する高級シニア施設「天城ロイヤルレジデンス」へ移った。白い石造りの正面玄関には赤い絨毯が敷かれ、テレビ局の中継車と新聞社の車が並んでいた。征一郎は濃い灰色のスーツにえんじ色のネクタイを合わせ、金色の社章を胸へつけて車を降りた。
美冬は白いワンピースと淡い水色のコートを着て、玄関前で父を迎えた。報道陣が一斉にシャッターを切ると、美冬は征一郎の右手を握り、体を支えるように腕を添えた。征一郎は一人で歩けると言おうとしたが、カメラが向けられているため、娘の手を振り払わなかった。
「美冬専務、お父様のご体調はいかがでしょうか」
記者が声をかけると、美冬は足を止めた。征一郎の手を握ったまま、テレビカメラへまっすぐ顔を向けた。施設の玄関からはユリの生花の匂いが漂い、入居者たちが窓越しに二人を見ていた。
「父は長年、休むことなく会社と社会のために働いてまいりました。これからは娘である私が、父の健康と暮らしを支える番です。家族として、最後まで父のそばにいることを、皆様の前でお約束いたします」
美冬が目元を潤ませると、記者たちのシャッター音がさらに激しくなった。征一郎も胸を張り、自分は娘から見捨てられていないと示すように、美冬の手を握り返した。施設職員と入居者たちは玄関ホールで拍手を送り、天城家の父娘愛をたたえた。
特別室は建物の最上階にあり、窓から東京湾を見渡せた。寝室、浴室、応接間、執務室がそろい、家具には征一郎が以前使っていたものと似た色の木材が使われていた。テーブルには季節の果物、カステラ、温かい緑茶が用意され、ベッド脇には白い蘭が飾られていた。
「悪くない。ただし、机はもっと大きなものに替えろ。会議をするには狭すぎる」
「すぐに手配します。お父様のお好きな堅いカステラも取り寄せました」
「底にザラメがついているものだろうな」
「ええ。昔、私たちが口の中を痛くしても食べていた、あのお店のものです」
美冬はカステラを一切れ皿へ載せ、父へ渡した。征一郎は底のザラメを指で確認してから口へ運び、ようやく表情を緩めた。撮影を終えた報道陣が帰るまで、美冬は父の隣に座り、幼い頃の思い出を笑顔で語った。
最後のカメラが部屋から出ると、美冬は白いハンカチで目元を押さえ、立ち上がった。職員がすぐに父娘の間へ入り、征一郎の上着を預かると言って手を伸ばした。上着の内ポケットには、携帯電話と会社のIDカードが入っていた。
「触るな。自分で掛ける」
「お父様、施設内では健康管理のため、私物を一度確認させていただきます」
「携帯電話まで確認するのか」
「医療機器へ影響するものがないか調べるだけです。すぐにお返しします」
美冬が目で合図すると、職員は上着を持って隣室へ下がった。十分待っても、上着だけが戻され、携帯電話とIDカードは返されなかった。征一郎が問いただすと、美冬は緑茶へ湯を足しながら、施設の規則だと説明した。
「お父様は昨夜も、役員へ二十七回お電話をかけています。十分に眠れていないでしょう。しばらく外部との連絡を控えたほうが、体にいいと思います」
「誰に何回電話をしようが、私の自由だ。携帯を返せ」
「必要なご連絡は秘書が代わりに行います。お電話を受けたい方がいれば、私が確認しておつなぎします」
「私は囚人ではないぞ」
征一郎はテーブルを手のひらでたたいた。緑茶が揺れ、カステラの皿へ数滴こぼれた。美冬はぬれた皿を職員へ渡し、父の手の甲を濡れた布巾で拭いた。
「興奮なさると血圧が上がります。今日はもうお休みください」
「私に指図をするな。黒瀬へ電話をしろ。明日の役員会について話す」
「黒瀬さんからは、名誉会長に役員会の予定を伝える必要はないと伺っています」
「そんなはずはない。あいつは私の秘書だ」
「黒瀬さんは現在、共同最高経営責任者室付きの特別秘書です。お父様の専属ではありません」
征一郎は立ち上がり、部屋の電話を取った。受話器からは内線音だけが聞こえ、外部へかけようとすると暗証番号を求められた。美冬はその番号を教えず、連絡したい相手を職員へ伝えるよう繰り返した。
翌朝、征一郎は午前五時に目を覚ました。自宅では起床前に新聞五紙が寝室の外へ並べられていたが、部屋には施設の広報誌しか届いていなかった。薄い青色のパジャマの上からガウンを羽織り、廊下へ出ようとすると、扉の電子錠が赤く点滅した。
「開けろ。誰かいるのか」
征一郎が扉をたたくと、白い制服を着た夜勤職員が外から開けた。若い男性職員は眠そうな目をこすりながら、午前七時までは安全管理のため各部屋から出られないと説明した。征一郎は自分が散歩をするのに、なぜ許可が必要なのかと問い詰めた。
「転倒防止の規則でございます。七時になりましたら、職員がご一緒します」
「私は毎朝、一人で三十分歩いている。おまえが生まれる前からの習慣だ」
「記録では、先月二度ふらつきが確認されています。申し訳ございませんが、お部屋でお待ちください」
扉が閉まると、征一郎は鍵の部分を何度も押した。以前なら警備員が扉を開けるために待っていたのに、今は警備員が自分を中へ閉じ込めていた。窓の外では朝刊を積んだ配送車が施設の前を通り、湿った道路にタイヤの音を残していった。
七時半になると、朝食が運ばれてきた。柔らかく煮た大根、骨をすべて除いた白身魚、塩分を控えた味噌汁、五分粥が小さな器へ分けられていた。征一郎は箸で魚を押し、病人の食事だと言って盆を返した。
「焼き鮭と卵を持ってこい。それから、コーヒーには砂糖を二つだ」
「栄養管理部から、塩分と糖分を控えるよう指示が出ております」
「誰が命令した」
「美冬専務でございます」
征一郎は五分粥の蓋を閉め、何も食べなかった。昼にはクリームの少ないシュークリームが届いたが、それにも手をつけず、机の引き出しをすべて開けて携帯電話を捜した。衣装棚には畳まれたシャツが整然と並んでいたものの、私物を入れた鞄は見つからなかった。
午後、かつての給仕長である村岡が面会に訪れた。村岡は征一郎の好物である塩昆布と、読み終えた新聞を紙袋に入れて持ってきていた。だが受付で美冬の許可が確認できないと言われ、施設へ入ることができなかった。
征一郎は窓から正面玄関を見下ろし、紙袋を持った村岡が警備員と話していることに気づいた。窓を開けようとしたが、安全のため十センチしか動かなかった。ガラスをたたいても地上までは音が届かず、村岡は何度も建物を振り返ったあと、紙袋を持ったまま帰っていった。
夕方、美冬が施設へ来ると、征一郎は荷物をまとめて待っていた。革の鞄にはシャツ二枚、財布、読みかけの経済誌が入っていた。携帯電話とIDカードは返されていなかったが、運転手を呼べば帰れると考えていた。
「私はここを出る。車を用意しろ」
「どちらへお帰りになるのですか。邸宅は改装工事に入ると、お姉様から連絡がありました」
「ホテルでも別邸でも構わん。ここには一晩たりともいない」
「お父様は、自由に外出できる状態ではありません」
美冬は秘書から一通の封筒を受け取り、中の診断書をテーブルへ置いた。そこには、征一郎には判断力の低下、感情の制御困難、時間や場所の認識の乱れがあり、保護された環境での経過観察が必要だと書かれていた。診断医の名前には見覚えがあったが、征一郎はその医師と一度も会っていなかった。
「これは偽物だ。私は診察を受けていない」
「天城メディカルには、お父様の二十年分の健康データがあります。毎日の歩数、睡眠時間、血圧、購買履歴、電話の回数、会議での発言まで記録されています」
「本人を見ずに、病人と決めるのか」
「医師一人の印象より、二十年分のデータのほうが正確だと、お父様はいつもおっしゃっていました」
征一郎は診断書をつかみ、二つに破ろうとした。しかし厚い用紙は中央で折れただけで、指先が小さく震えた。美冬は父の手から診断書を取り、しわを伸ばしてテーブルへ戻した。
「そのシステムを導入するとき、反対した医師たちを追い出したのはお父様です。本人の同意がなくても、家族と会社が必要だと判断すれば健康データを使えるようにしたのも、お父様でしょう?」
「私は社員と住民を守るために作った」
「ええ。ですから、今度はその仕組みがお父様を守ります」
美冬は微笑み、征一郎が手を伸ばしても届かない位置へ診断書を移した。窓の外では夕日が海へ沈み、ガラスに映った父娘の姿が暗くなり始めていた。手つかずの夕食からは、冷めたカボチャの煮物の甘い匂いが漂っていた。
「お父様が作ったシステムです。信用なさらないのですか?」




