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第5話 名誉会長の席

第5話 名誉会長の席


天城征一郎が名誉会長になって初めての月曜日、湾岸の専用邸宅では、午前六時から四人の料理人が朝食を用意していた。食卓には焼き鮭、だし巻き卵、菜の花のごまあえ、豆腐とワカメの味噌汁が並び、炊きたてのご飯から白い湯気が上がっていた。征一郎は濃紺のガウンを着たまま新聞を広げ、自分が会長を退いた記事を赤いペンで囲んでいた。


「見出しが小さい。私が引退したのに、どうして外国企業の買収記事より下なんだ」


「本日は麗華様の新体制発足に関する記事が一面にございます。征一郎様のお写真も掲載されております」


給仕長の村岡が新聞の右上を指した。そこには、麗華と美冬の間に立つ征一郎の写真が小さく載っていたが、記事の中心は「姉妹共同経営による新しい天城」だった。征一郎は赤いペンを置き、焼き鮭の皮だけを箸で外した。


「新しい天城とは何だ。天城は五十年前から天城だ。麗華に新聞社へ訂正させろ」


「かしこまりました。広報部へお伝えいたします」


「伝えるだけでは駄目だ。今日中に訂正文を出させろ。それから、この鮭は焼きすぎだ。先週の料理人に戻せ」


村岡は頭を下げたが、先週までいた料理人はすでに契約を切られていた。麗華の指示によって、邸宅で働く専属スタッフは百人から二十人へ削減されていたのである。料理人は四人から一人、庭師は六人から一人となり、夜勤の警備員も半分以下になっていた。


征一郎が朝食を終えて玄関へ向かうと、いつも外套を差し出していた女性職員の姿がなかった。靴箱の前には、前日の雨でぬれた靴が三足並び、誰も磨いていなかった。征一郎は自分で黒い革靴を履こうとしたが、かがむと息が苦しくなり、片足を入れたまま村岡を呼んだ。


「なぜ誰もいない。私に靴を履かせる者まで辞めさせたのか」


「本日から、身の回りのお世話は私が担当いたします。ただいま参りますので、そのままお待ちください」


村岡は台所で食器を片づけていたため、白い手袋を片方だけつけて走ってきた。征一郎の靴べらを取り、膝をついて革靴を履かせると、急いで外套を取ってきた。以前なら三人の職員が行っていた仕事を一人でこなしており、額には汗が浮いていた。


「運転手はどうした。車を玄関へ回すよう、十五分前に言ったはずだ」


「松永は先週で契約を終了いたしました。本日は新しい運転手が参ります」


「松永を辞めさせたのか。あいつは二十五年、私の車を運転してきたんだぞ」


「麗華様のご判断です。運転手二人を含め、専属スタッフは二十人となりました」


征一郎は外套のボタンを留める手を止めた。専属スタッフ百人という数は、警備、料理、清掃、運転、秘書業務を含めれば決して多くないと考えていた。だが、二十人に減らすという話を、自分は聞いていなかった。


玄関の外には、いつもの黒塗りの大型車ではなく、会社の共用車が止まっていた。若い運転手は征一郎の顔を見ると深く頭を下げたが、後部座席には前の利用者が落とした菓子パンの袋が残っていた。甘いクリームの匂いがこもっており、征一郎は乗り込む前に眉をしかめた。


「私の車はどうした」


「専用車三台のうち二台は、本日から役員用として運用されます。防弾仕様の一台は整備中でございます」


「誰が決めた」


「車両管理部からの指示です」


「車両管理部に車を貸してやっているのは私だ。すぐに戻させろ」


運転手は返事をせず、ルームミラーから村岡へ助けを求める視線を向けた。村岡は征一郎の隣に座り、麗華へ確認すると答えた。征一郎はドアを強く閉め、窓の外へ顔を向けた。


本社へ到着すると、征一郎は役員専用入口から中へ入ろうとした。ところが、顔認証端末が赤く光り、「権限が確認できません」という音声を流した。征一郎はもう一度顔を近づけたが、同じ音声が繰り返された。


「故障している。警備員、開けろ」


「申し訳ございません。名誉会長の入館権限は、正面受付での確認が必要になりました」


「私がこの建物を建てたんだぞ。受付へ並べというのか」


「規則でございますので、ご理解ください」


警備員は姿勢を崩さず、扉を開けなかった。ガラスの向こうでは社員たちが通り過ぎていたが、征一郎と目が合うと歩く速度を上げた。征一郎は杖の先で床を二度たたき、正面玄関へ回った。


受付には、来客用の名札を待つ人々が列を作っていた。征一郎が先頭へ進むと、後ろにいた男性が小さく舌打ちをした。受付の女性は震える手で名誉会長用の入館証を発行し、首から下げるよう求めた。


「私は客ではない。こんな紙を首から下げられるか」


「麗華共同最高経営責任者から、すべての方に規則を守っていただくよう指示が出ております」


「おまえの名前は何だ」


受付の女性は名札を手で隠しかけた。かつて征一郎へ名前を聞かれた社員が、その日のうちに地方へ異動させられたことを知っていたからである。征一郎は名札に書かれた「相原」という姓を読み上げたが、隣にいた警備員も口を挟まなかった。


征一郎がようやく最上階へ上がると、以前の会長室には鍵がかかっていた。扉に掲げられていた金色の「会長室」という文字は外され、代わりに「共同最高経営責任者室」と書かれていた。秘書へ開けるよう命じたが、征一郎の荷物はすでに別の部屋へ移されていた。


案内された名誉会長室は、廊下の突き当たりにある以前の応接準備室だった。窓は小さく、机の横には使われていない折り畳み椅子が積まれていた。征一郎が長年集めた美術品は一点もなく、棚には湯飲みと賞味期限の近い羊羹が二本置かれているだけだった。


「私の机はどうした。父から譲られた樫の机だ」


「倉庫に保管しております。この部屋には大きすぎるため、こちらの机をご用意しました」


若い秘書が指したのは、一般社員が使う灰色の事務机だった。引き出しを開けると、前に使っていた職員が忘れた輪ゴムと、乾いた目薬が残っていた。征一郎は椅子へ座らず、杖で机の脚を軽く蹴った。


「麗華を呼べ。今すぐだ」


「麗華様は午前中、取締役会にご出席です」


「私も出る。会議室へ案内しろ」


「名誉会長は出席者に含まれておりません」


征一郎は秘書の肩を押しのけ、会議室へ向かった。廊下ですれ違う社員たちは、以前なら壁際へ寄って頭を下げたが、今は小さく会釈するだけで通り過ぎた。エレベーターの前では、若い社員二人が昼食のラーメンについて話しており、征一郎が近づいても会話をやめなかった。


取締役会では、麗華が物流拠点の再編計画を説明していた。白いジャケットの下には黒いブラウスを着て、髪を後ろで一つにまとめていた。机には冷めたブラックコーヒーと、まだ開けていない栄養補助食品が置かれていた。


「何を勝手に始めている。私は出席すると連絡したはずだ」


征一郎が扉を開けると、説明が止まった。役員たちは一斉に顔を上げたが、誰も席を立たなかった。以前なら征一郎が部屋へ入っただけで、全員が立って迎えていた。


「お父様、今日はお呼びしておりません」


「私が造った会社の会議に、私を呼ばないとはどういうことだ」


「お父様は名誉会長です。経営に関する決定権はありません」


「肩書が変わっただけだ。私には株がある。おまえたちをここへ座らせたのも私だ」


麗華は会議を中断すると告げ、征一郎を空いている末席へ案内させた。中央に座ろうとした征一郎は係員を払いのけたが、自分の席にはすでに麗華の資料と端末が広げられていた。仕方なく末席へ座ると、目の前には冷えた麦茶と、誰かが置き忘れたミント味の飴が一つあった。


会議が再開され、麗華は地方の物流拠点を三か所閉鎖し、新しい自動配送センターへ統合する計画を説明した。征一郎は資料をめくり、閉鎖される拠点の一つが創業当初から使っていた倉庫だと気づいた。そこには四百人近い従業員が働いていた。


「待て。その倉庫は閉めるな。あそこには古くからの社員がいる」


「設備が老朽化し、維持費がかかりすぎます。従業員には配置転換を提示します」


「機械のために人間を捨てるのか。私の会社では、社員は家族だ」


一人の役員が顔を上げたが、すぐに資料へ視線を戻した。その役員は十年前、経営不振の子会社で三千人を解雇する計画へ反対し、征一郎から「家族を養うために家族を減らすこともある」と言われたことを覚えていた。征一郎自身は、その言葉を忘れていた。


「お父様、発言は挙手をして、議長の許可を得てからお願いします」


「娘が父親に発言の許可を与えるのか」


「ここは家庭の食卓ではありません。取締役会です」


征一郎は立ち上がり、両手で机をたたいた。水の入ったグラスが倒れ、書類とミント味の飴が床へ落ちた。大きな音が会議室へ響いたが、麗華は椅子に座ったまま父を見上げた。


「閉鎖計画は中止だ。私の命令だ」


誰も返事をしなかった。征一郎は役員たちの名前を一人ずつ呼び、賛成か反対か答えろと迫った。だが、ある者は端末を見つめ、ある者は倒れた水を布巾で拭き、征一郎と目を合わせようとしなかった。


「山岡、おまえは創業二十年のときからいるだろう。私が間違っていると思うのか」


「私は、議長の提案に従います」


「藤堂、おまえの父親を役員にしたのは私だ。何とか言え」


「現在の市場環境では、再編は必要かと存じます」


征一郎は自分の声が壁に当たり、そのまま床へ落ちるように感じた。以前は咳払い一つで会議が止まり、眉を動かしただけで提案が撤回された。今はどれほど大きな声を出しても、役員たちは麗華の顔しか見ていなかった。


麗華は机の端に置いた小型カメラの録画ランプを確認した。父が入室してからの様子は、すべて映像と音声で記録されていた。倒れたグラス、机をたたく音、社員の名前を言い間違えた場面も残されていた。


「お父様はお疲れです。今日はお帰りください」


「疲れてなどいない。おまえこそ、この席から降りろ」


「警備を呼びます」


「呼んでみろ。私の警備員が、私を追い出すはずがない」


麗華が端末を操作すると、二人の警備員が会議室へ入ってきた。朝、役員専用入口で征一郎を止めたのと同じ制服を着ていた。二人は征一郎へ頭を下げたあと、退室するよう求めた。


「おまえたちの給料を払っているのは誰だ」


「天城ホールディングスでございます」


「その会社を造ったのは私だ」


「存じております。しかし、現在の責任者は麗華共同最高経営責任者です」


征一郎は警備員の顔を見たが、二人とも視線をそらさなかった。肩へ触れられる前に、自分で歩くと言って会議室を出た。扉が閉まると、麗華は何事もなかったように物流再編の説明を再開した。


その夜、麗華は父の映像を取締役全員へ送った。件名には「名誉会長の健康状態および経営上の危険性について」と書かれていた。動画には征一郎が机をたたく場面、役員の名前を間違えた場面、命令に従えと繰り返す場面が編集されずに収められていた。


麗華は自宅の食卓で、冷めた鶏肉のクリーム煮を食べながら、取締役から届く返信を確認した。夫とは何年も別居しており、長いテーブルには一人分の食器しか置かれていなかった。白ワインを一口飲むと、父の言動を専門医へ確認させ、必要であれば経営施設への出入りを制限するという提案を送った。


征一郎は専用邸宅へ戻り、食卓に用意された夕食へ手をつけなかった。朝に焼きすぎだと叱った鮭の代わりに、料理人は柔らかい鯛の煮付けを用意していた。だが、征一郎は箸を持ったまま、空いている椅子へ何度も目を向けた。


「村岡、明日の取締役会は何時からだ」


「明日は取締役会の予定はございません」


「隠すな。麗華に電話をつなげ」


「先ほどからおかけしておりますが、秘書室から折り返しがございません」


「ならば黒瀬だ。あいつなら私の電話に出る」


村岡は黒瀬へ電話をかけたが、留守番電話につながった。征一郎は自分の携帯電話を取り、登録されている役員へ順番に電話をかけた。呼び出し音は鳴ったものの、誰も出なかった。


最後に、長年付き合いのある銀行頭取へ電話をかけた。以前なら夜中でもすぐにつながった相手だったが、秘書から会食中だと断られた。征一郎は携帯電話を食卓へ置き、鯛の煮汁が染みた白いご飯を箸で何度も押した。


「会長、お食事が冷めてしまいます」


「私は会長ではないそうだ」


村岡は返す言葉を見つけられず、ぬるくなった味噌汁を新しいものへ替えようとした。征一郎は椀を手で押さえ、そのままでいいと告げた。邸宅の広い廊下からは人の足音が消え、二十人に減った職員たちは、呼び鈴が鳴るまで奥の部屋で待機していた。


征一郎は携帯電話の画面をもう一度見た。発信履歴には麗華、美冬、黒瀬、役員たちの名前が並んでいたが、折り返しは一件もなかった。窓の外には自分が造った天城スマートシティの明かりが広がっていたものの、その一つとして、征一郎の命令で点灯するものは残っていなかった。



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