第4話 灰街から来た秘書
第4話 灰街から来た秘書
黒瀬直人が十二歳の冬、灰街の団地では二日続けて暖房が止まった。窓枠には薄い結露がたまり、六畳の台所では、母の美佐子が青いカーディガンの上から古いコートを着て夕食を作っていた。鍋の中には大根の葉と油揚げを入れた味噌汁があり、その横では一枚のアジの開きが、煙を上げながら魚焼き網に張りついていた。
「直人、ストーブを何度もつけないで。灯油は金曜日まで買えないの」
「つけてないよ。赤いボタンを押したけど、動かなかっただけ」
「それを、つけたって言うの。早く靴下をはきなさい」
美佐子はそう言いながら、自分がはいていた厚手の靴下を脱いで直人へ渡した。かかとの部分には穴が開き、灰色の糸で何度も縫った跡が残っていた。直人は受け取らず、冷えた床の上で両足の指を丸めた。
テーブルには中学校から届いた修学旅行費の振込用紙と、天城生活信用管理センターからの通知が置かれていた。美佐子が派遣先の契約を切られ、家賃を二度遅れて支払ったため、二人の生活信用指数は大きく下がっていた。通知の赤い文字には、住宅更新と教育支援の再審査が必要だと書かれていた。
「僕、修学旅行には行かなくていい。京都なんて、大人になってから一人で行く」
「学校へは、参加すると返事をしなさい。お金のことは、お母さんが考えるから」
「どうやって払うの。今月、魚も一枚しかないのに」
美佐子は焼けたアジを皿へ載せ、箸で半分に分けた。頭に近い身の多いほうを直人へ渡し、自分の皿には焦げた尾の部分を置いた。味噌汁は二人分にするため湯を足してあり、味が薄くなっていた。
直人は修学旅行へ行かなかった。出発日の朝は制服を着て団地を出たが、学校へ向かわず、駅前の図書館で閉館まで過ごした。夜に帰ると、美佐子は何も聞かず、スーパーで半額になった小さなプリンを二人で食べようと言った。
それから十年後、直人は国内最高峰の国立大学へ合格した。灰街の団地から合格者が出たのは初めてで、町内会の掲示板には、母が頼んでもいないのに「黒瀬君、おめでとう」と書かれた紙が貼られた。美佐子は清掃の仕事へ行く前にその紙を見て、赤い手袋で何度も目元をこすった。
ところが、天城財団の奨学金審査で直人は落とされた。成績も面接評価も最高だったが、母子世帯の滞納履歴と低い生活信用指数が問題とされた。窓口の職員は、白いシャツの襟を指で直しながら、審査はAIが公平に行っているため例外は認められないと説明した。
「僕の成績は見ましたか。入学試験は学部で二番でした」
「成績だけで判断する制度ではありません。卒業後に安定して返済できるか、生活全体を評価しています」
「母が家賃を二回遅れたことと、僕が勉強することに、何の関係があるんですか」
「ご不満があれば、アプリから再審査を申請してください。ただし、現在の指数では結果が変わる可能性は低いと思います」
直人は大学へ通うため、昼は授業を受け、夜は食品倉庫で働いた。帰宅は午前二時を過ぎ、冷蔵庫には美佐子がラップをかけた焼きうどんが残されていた。油が白く固まった麺を電子レンジで温めながら、直人は天城財団の奨学生が海外研修へ参加したという記事を読んだ。
大学卒業後も、低い生活信用指数は直人について回った。就職先は見つかったものの、白街の賃貸住宅は審査で落とされ、社員寮への入居も認められなかった。面接で生い立ちを評価した企業が、採用後には灰街の住所を危険情報として扱った。
美佐子はその頃から、仕事中に何度も胸を押さえるようになった。診察を受けようとしたが、天城メディカルの予約システムでは、信用指数の高い住民が優先された。ようやく受診できたときには病気が進み、美佐子は五十三歳で入院した。
「直人、台所の上の棚に、缶があるの。捨てないでね」
病室で美佐子は、洗いすぎて色の薄くなった桃色のパジャマを着ていた。食事のトレーには、ほとんど手をつけていないかぼちゃの煮物と、お茶の入ったプラスチックのコップが残っていた。直人は母の手を握り、缶の中には何が入っているのかと尋ねた。
「たいしたものじゃないの。あなたの小学校の名札とか、抜けた乳歯とか。あと、お父さんからもらった手紙」
「父親は死んだと言っていただろう」
「ごめんね。死んだことにしたほうが、あなたが待たずに済むと思ったの」
美佐子は、それ以上詳しく話さなかった。三日後の明け方、直人が病院へ向かう前に息を引き取った。病室の椅子には直人が前夜に脱いだ黒いダウンジャケットが残り、ポケットには母へ食べさせようと買ったイチゴの飴が入っていた。
葬儀を終えた直人は、団地の台所の上にある棚から、錆びた菓子缶を見つけた。中には名札や乳歯とともに、古い写真と手紙が入っていた。写真には若い美佐子と、現在の天城ホールディングス監査役・榊原宗一が並んでいた。
手紙には、生まれてくる子どもの生活は必ず支えると書かれていた。しかし、約束された送金は直人が三歳になった年に途絶え、その後の手紙はすべて美佐子から宗一へ送ったものだった。封筒の多くは未開封のまま返送され、最後の一通には、直人が大学へ合格したと知らせる短い文章が書かれていた。
直人は母の死から一か月後、榊原家を訪ねた。白街の戸建て住宅には手入れされた庭があり、玄関の横では黄色いパンジーが風に揺れていた。家政婦は直人の灰色のコートと擦れた革靴を見て、裏口へ回るよう告げた。
宗一は書斎で直人と向き合った。紺色のセーターにベージュのズボンをはき、昼食に食べた蕎麦の汁を袖口へ一滴こぼしていた。机の上には、妻と長男の航と一緒に撮った家族写真が飾られていた。
「美佐子さんが亡くなったことは聞いた。入院していると知っていれば、見舞いくらいはできた」
「母は何度も連絡しました。返された手紙が、二十四通あります」
「昔のことだ。私にも家庭があり、立場があった。君を認知すれば、美佐子さんまで世間の目にさらされた」
「母のために捨てたとおっしゃるんですか」
宗一は机の引き出しから小切手帳を出した。直人は金額を書こうとする手を押さえ、天城ホールディングスへ自分を入れるよう求めた。宗一は首を横に振り、金なら十分に払うと繰り返した。
「私は金を受け取りに来たのではありません。あなたの息子として生まれたことで失ったものを、返してもらいに来ました」
「会社へ入って、何をするつもりだ」
「働きます。あなたの自慢の息子より、役に立つところをお見せします」
宗一は長い間、家族写真を見つめていた。やがて征一郎の特別秘書を募集していることを話し、自分が推薦すると約束した。直人は榊原の姓を名乗ることを求めず、父子関係を公表することも求めなかった。
黒瀬直人は入社から五年で、征一郎が最も信頼する秘書になった。征一郎が覚えていない約束を先回りして処理し、気に入らない記事を朝刊から抜き、砂糖を二つ入れた紅茶を適温で用意した。深夜まで働いても疲れた顔を見せず、灰街で育ったことについて自分から話すこともなかった。
そして現在、黒瀬は天城ホールディングス本社の秘書室で、榊原航の名前が記された送金記録を作っていた。机には征一郎が飲み残した紅茶と、昼に買った卵サンドが置かれていた。卵サンドの一切れは乾いていたが、黒瀬は画面から目を離さず、海外口座へ流れた三億円の名義を書き換えた。
送金に使われたのは、生活信用指数を運用する子会社の特別口座だった。黒瀬は管理権限を利用して接続記録を航の端末へ結びつけ、航が架空の調査会社へ金を送ったように見せかけた。領収書、メール、会議記録までそろえると、印刷した書類を茶色の封筒へ入れた。
宗一はその夜、自宅の食卓で封筒を受け取った。妻は友人との旅行で留守にしており、テーブルには家政婦が作った肉じゃがとアジの開きが一人分だけ並んでいた。宗一は味噌汁を一口飲んだところで、黒瀬から渡された送金記録を開いた。
「航が三億円を横領しただと」
「信じたくありませんでした。ですが、送金元の端末、認証記録、受取先とのメールが一致しています」
「あいつは金に困っていない。地方子会社の仕事にも不満はないと言っていた」
「麗華副社長から評価されず、東京へ戻れないことに不満を持っていたようです。海外へ会社を作り、独立する準備をしていたのかもしれません」
宗一の箸からジャガイモが落ち、肉じゃがの汁がテーブルクロスへ広がった。黒瀬は立ち上がって布巾を取ろうとしたが、宗一は手を上げて止めた。アジの開きから立っていた湯気は消え、魚の皮に脂が白く固まり始めていた。
宗一はその場で航へ電話をかけ、自宅へ来るよう命じた。航は一時間後、雨にぬれた作業着姿で現れた。地方の物流倉庫から急いで来たため、靴には泥がつき、食堂へ入る前に玄関で何度も足を拭いた。
「父さん、これは偽物だ。俺はこの会社を知らないし、海外口座なんて持っていない」
「おまえの端末から送金されている。認証には指紋まで使われているんだぞ」
「先月、本社の更新作業で端末を預けた。管理したのは情報部門だ。調べれば分かる」
航は書類を一枚ずつ確認し、メールの文体が自分のものではないと訴えた。しかし宗一は、息子が言い訳を重ねているようにしか思えなかった。黒瀬は食堂の隅で黙って立ち、航が自分へ疑いを向けるまで待っていた。
「この資料を持ってきたのは黒瀬だろう。どうして秘書が、監査部より先に横領を見つけるんだ」
「直人は会社を守ろうとしただけだ。話をそらすな」
「父さんは、どうしてそいつの言葉だけ信じるんだ」
「そいつではない。黒瀬君は、おまえより会社のことを考えている」
航の口が止まった。宗一も自分の言葉が強すぎたと気づいたが、謝れば父親として負けるような気がして、腕を組んだまま顔をそらした。航は作業着の胸ポケットから社員証を出し、食卓へ置いた。
「分かった。俺を横領犯だと言うなら、警察へ届ければいい。俺は自分で調べて、誰が記録を作ったのか証明する」
「待ちなさい、航。今ここで罪を認めれば、公にはせずに済ませる」
「やっていないことを認めるつもりはない。父さんは、最初から俺の説明を聞く気がないんだな」
航は家族写真へ一度だけ目を向け、玄関へ戻った。母が選んだ茶色のスリッパをきれいにそろえてから、雨の中へ出ていった。門が閉まる音がしても、宗一は椅子から立ち上がらなかった。
翌朝、航は地方子会社の責任者を解任され、天城グループの全施設への立ち入りを禁止された。横領の事実は正式に公表されなかったが、社員用の情報網には「重大な規則違反」とだけ通知された。航の社宅も一か月以内に退去するよう命じられた。
宗一は書斎で解任通知へ署名した。机の上には昨夜の家族写真が伏せて置かれ、冷めたコーヒーの表面には薄い膜が張っていた。黒瀬は新しい万年筆を差し出し、震える宗一の手元を見守った。
「これで、会社の損失は防げます。正しいご判断です」
「航は、あんなことをする子ではなかった。どこで間違えたのだろうな」
「人は、父親に見せている顔と、外で見せる顔が違うものです」
宗一が署名を終えると、黒瀬は通知書を封筒へ入れた。床へ落ちた一枚の写真には、幼い航が宗一の肩車をされ、両手を広げて笑っていた。黒瀬は写真を拾い、机の引き出しの奥へ入れた。
宗一は窓辺へ移動し、白街の整った道路を見下ろした。道路の向こうでは、黄色い帽子をかぶった子どもたちが二列になって学校へ歩いていた。黒瀬は父の背中を見ながら、曲がっていたネクタイの結び目をゆっくりと直した。
「宗一さん。もう、航さんがあなたの前へ戻ることはないでしょう」
「今は私を父と呼ばないでくれ。誰かに聞かれたら困る」
「承知しました。秘密は守ります」
黒瀬は机に置かれた解任通知を抱え、書斎の扉へ向かった。扉を開ける前に足を止めると、振り返らず、穏やかな声で付け加えた。
「これで、あなたの息子は私だけですね」




