表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/29

第3話 三つに切られた都市

第3話 三つに切られた都市


式典から三日後、天城ホールディングス本社の最上階で、事業譲渡に関する臨時取締役会が開かれた。窓の外には、海沿いに並ぶ白い高層住宅と、首都高速道路の向こうに広がる灰色の団地が見えていた。大きな楕円形の机には水の瓶と薄いサンドイッチが用意されていたが、誰も手を伸ばさず、乾いたパンの表面が少しずつ反り返っていた。


征一郎は机の中央に座り、深い緑色のネクタイへ金色のタイピンを留めていた。会長を退くと発表したあとも、自分の席だけは変わらないと思っていたため、いつものように両隣の椅子を空けさせていた。しかし征一郎の右側には麗華が、左側には美冬が座り、二人の前には新しい役職名を刻んだ真鍮のプレートが置かれていた。


「その札は何だ。まだ人事は決まっていないはずだ」


征一郎が尋ねると、白いパンツスーツを着た麗華は、机の上の書類をそろえながら顔を上げた。麗華のプレートには「共同最高経営責任者」と刻まれていた。美冬の前にも同じものが置かれており、藤色のブラウスに紺色のスカートを合わせた美冬は、紙コップの白湯を一口飲んでから答えた。


「お父様が後継者を一人に絞るまで、経営を止めるわけにはいきません。取締役会で協議し、私たち二人が共同で経営を担うことになりました」


「私の許可を取らずに決めたのか」


「お父様は三日前、会長を退くと公の場で宣言なさいました。会社法上、代表取締役の選定は取締役会の権限です」


麗華の声は落ち着いていたが、右手の親指が人差し指の爪をこすっていた。征一郎はその癖に気づかず、机の端に置かれたベルを鳴らそうとした。だが、以前は必ず置かれていた銀色のベルは、すでに片づけられていた。


「黒瀬、ベルはどうした。茶も出ていないではないか」


「本日から会議中の給仕を廃止しました。経費削減の一環でございます。お飲み物は、後方の台から各自でお取りいただく形になりました」


黒瀬は黒いスーツの上着をきちんと留め、壁際に立っていた。征一郎は振り返り、部屋の後ろに置かれたコーヒーサーバーを見た。自分でカップを取りに行ったことなど一度もなかったため、結局、水にも手を伸ばさなかった。


取締役会が始まると、巨大スクリーンに天城グループの組織図が映し出された。中央にあった天城ホールディングスから無数の線が伸び、不動産、金融、物流、医療、介護、教育、情報管理の各会社へつながっていた。征一郎が五十年かけて増やした企業群は、画面の上で二つの色に分けられていた。


麗華が手に入れるのは、都市開発、不動産、金融、物流の四部門だった。土地と建物を所有し、住民の給料を管理し、商品を運ぶため、天城スマートシティの骨格と血管に当たる部門である。画面の西側が麗華を示す青色へ変わると、麗華は資料の端を指で押さえ、数字を確かめた。


美冬が手に入れるのは、病院、介護施設、学校、住民情報を管理する個人データ部門だった。住民がいつ病院へ行き、何を買い、どの学校へ通い、どれほど借金を抱えているかという記録は、すべて美冬の管理下へ入る。画面の東側が赤色へ変わると、美冬は真珠のピアスへ触れ、姉より企業数が少ないことを確かめるように目を細めた。


「物流会社の健康管理システムは、私の医療部門に含まれるはずです」


「配送員の勤務データなのだから、物流部門の資産よ」


「健康情報を不動産と一緒に管理するつもり? お姉様に任せたら、病気になった住民を部屋から追い出しかねないわ」


「あなたの介護施設では、入居者が倒れても三時間見つけてもらえないそうね。まず自分の施設の廊下を歩いてみたらどう?」


二人の声が硬くなると、取締役たちは資料へ視線を落とした。征一郎は娘たちを黙らせようと口を開いたが、その前に黒瀬が一枚の修正案を配った。住民データの所有権を二人で分けず、親会社の直轄部門として残す案だった。


「生活信用指数は、この都市のあらゆる事業に影響します。どちらか一方が独占すれば、もう一方の経営が成立しません。当面は共同管理とし、最終的な後継者が決まった時点で移管するのが適切かと存じます」


麗華と美冬は、同時に黒瀬を見た。どちらにも利益が残る提案だったため、二人は不満を飲み込み、承認の欄へ署名した。征一郎は、娘たちの争いをまとめた黒瀬へ満足そうにうなずいた。


「やはり、おまえはよく分かっている。私が選んだ秘書だけのことはある」


「恐れ入ります。私は会長のご意思を形にしているだけでございます」


黒瀬は頭を下げたが、机の下では右手の親指で、スマートフォンの録音停止ボタンを押していた。画面には、麗華と美冬の対立を記録した二つの音声ファイルが並んでいた。それぞれのファイルには、日付と姉妹の名前が付けられていた。


事業分割の議決が終わると、征一郎は自分の待遇について書かれた契約書を開いた。名誉会長の称号、湾岸の専用邸宅、運転手二人、秘書十人、警備員二十四人、専用車三台、海外出張用の航空機が、生涯にわたり保証されていた。年間の活動費として十億円を使える条項もあり、征一郎はようやく機嫌を直した。


「これなら問題ない。会社の経営はおまえたちに経験させるが、外から見れば、私はこれまでどおり天城の顔だ。海外の首脳も、銀行の頭取も、おまえたちではなく私に会いに来る」


「もちろんです、お父様。天城グループをここまで育てた方に、ふさわしい待遇をご用意いたします」


美冬が笑顔で答えると、征一郎は太い万年筆を取った。黒い軸には、三十年前に三人の娘から贈られた「世界一のお父さん」という文字が金色で刻まれていた。実際に選んだのは当時の秘書だったが、征一郎は娘たちが小遣いを出し合った品だと信じ、重要な契約のときだけ使っていた。


黒瀬は署名欄を示しながら、契約書の最後に追加された条項を指で隠した。そこには、名誉会長の心身の状態、経営への影響、会社の財務状況を考慮し、共同最高経営責任者の判断で待遇を変更または停止できると書かれていた。文字は本文より一回り小さく、別紙の業務規程を参照する形になっていた。


「会長、こちらと、次のページにもお願いいたします」


「こんなものは弁護士に確認させればよい。榊原はどうした」


「榊原監査役は、地方子会社の問題で席を外しております。いつもと同じ標準契約ですので、ご心配には及びません」


征一郎は老眼鏡を胸ポケットから出しかけたが、麗華と美冬が見ていることに気づき、そのまま戻した。細かい文字を読めなくなったと思われたくなかったのだ。ページをめくるときに一度だけ指が滑ったものの、すべての署名欄へ大きく名前を書いた。


会議が終わると、役員たちは征一郎ではなく麗華と美冬へ順番に挨拶した。征一郎は椅子に座ったまま、冷たくなったサンドイッチを一つ手に取った。キュウリは乾き、パンにはマヨネーズの水分が染みていたが、空腹を悟られたくなかったため、誰もいなくなるまで口にしなかった。


同じ頃、澪は灰街の端にある法律事務所へ戻っていた。古い雑居ビルの三階にある事務所では、窓際に干した布巾が雨の湿気を吸い、給湯室から昨夜のカレーの匂いが残っていた。澪の机には訴訟資料、空になったコーヒーの紙コップ、封を開けていない電気料金の請求書が積まれていた。


共同代表の片桐佑介は、灰色のカーディガンの袖を肘までまくり、ホワイトボードへ原告の名前を書いていた。昼食に買った焼きそばパンを半分残したまま資料を読んでいたため、眼鏡の端には青のりが一枚ついていた。澪は指で自分の頬を示し、青のりがついていると教えた。


「そこではなく、もう少し右。そう、目の下です」


「朝から誰も教えてくれなかった。これで依頼人と三人も話したんだけどな」


「親しみやすい弁護士だと思ってもらえたんじゃない?」


「君は勘当された翌日から、ずいぶん余裕があるね」


片桐が眼鏡を外して拭くと、澪は笑う代わりに机の郵便物を端へ寄せた。自宅へ帰っても眠れず、朝の四時まで訴状の下書きを直していたため、目の下には薄い影ができていた。紺色のジャケットは昨日と同じものだったが、コーヒーの染みがあった白いシャツだけは水色のものへ替えていた。


事務所の会議用テーブルには、水原奈々をはじめ、物流会社で働いていた人々や介護施設の元職員が集まっていた。奈々は兄が使っていた紺色の配送用ジャンパーを膝に載せ、ほつれた袖口を親指でなぞっていた。その隣では、介護職員だった五十代の女性が、アルミホイルに包んだ梅干しのおにぎりを皆へ配っていた。


「先生も食べてください。朝から何も食べていない顔をしています」


「そんな顔、分かりますか」


「介護職を二十年やっていましたから。食べていない人と、トイレを我慢している人は分かります」


澪は渡されたおにぎりを両手で受け取った。米は少し硬くなっていたが、梅干しの酸っぱい匂いをかぐと、空になっていた胃が動いた。奈々も兄のジャンパーから手を離し、紙コップに入ったほうじ茶を澪の前へ置いた。


片桐がホワイトボードを指し、訴訟へ参加する原告が現時点で四十七人になったと説明した。過労死した配送員の遺族、介護施設で事故に遭った入居者の家族、生活信用指数を理由に住宅契約を拒否された住民が含まれていた。まだ名前を出すことを恐れている人も多く、証言を撤回した者もいた。


「昨日、会社から電話がありました。訴訟から抜ければ、兄の未払い残業代を払うと言われました」


奈々が話すと、澪はかじりかけのおにぎりを包みへ戻した。奈々の兄が亡くなってから一年以上、会社は残業そのものを認めていなかった。それを今になって支払うということは、口止めのために事実を認めたのと同じだった。


「録音はできましたか」


「はい。でも、途中で手が震えて、スマートフォンを落としました。落ちた音も入っています」


「大丈夫です。それも消さないでください。電話があった時刻と、相手が名乗った部署を書いておきましょう」


澪は奈々のスマートフォンから音声を保存し、証拠一覧へ追加した。画面には、式典で澪が父へ反論する映像に関するニュース通知が何件も届いていた。「恩知らずの三女」「遺産目当ての反乱」「天城家の内紛」という見出しが並び、澪の服装や学生時代の写真まで取り上げられていた。


奈々は通知を閉じ、澪の顔を見た。会議室の隅では古い冷蔵庫が大きな音を立て、窓の外を走る配送トラックの警告音が聞こえていた。梅干しのおにぎりを持ったまま、澪は父が万年筆で自分の名前を相続人名簿から消す姿を想像した。


「先生、本当に続けるんですか。お父さんの会社を訴えたら、もう戻れなくなります」


「昨日、戻る場所はなくなりました。でも、この訴訟は昨日始めたものではありません」


「家族なのに、平気なんですか」


澪はすぐには答えず、冷めたほうじ茶を一口飲んだ。父が一度だけ作ってくれた不格好なリンゴ、姉たちと食べた大きな誕生日ケーキ、誰も座らなくなった実家の食卓が順番に浮かんだ。澪は紙コップを両手で包み、奈々の膝にある配送用ジャンパーを見た。


「平気ではありません。だからといって、亡くなった人を生き返らせることも、働いた記録を消すこともできません」


片桐が新しい訴状の表紙を机へ置いた。被告欄には、天城ホールディングス、天城ロジスティクス、天城メディカルの名前が並んでいた。澪は自分と同じ姓を持つ会社名を一つずつ確認し、代理人欄へ署名した。


その日の夕方、天城スマートシティの住民用アプリに、運営体制変更のお知らせが届いた。街の地図は青と赤に塗り分けられ、住宅と物流は麗華、病院と学校は美冬の管理区域として表示された。灰街だけはどちらの色にも染まらず、「再編検討地域」という灰色の表示が重ねられていた。


澪がその画面を見ていると、事務所の電話が鳴った。片桐が受話器を取ったものの、相手の名前を聞いた途端、表情を変えて澪へ渡した。電話の向こうから聞こえたのは、天城ホールディングス監査役・榊原宗一の低い声だった。


「澪さん、君のお父さんが今日、契約書へ署名した。だが、あれは征一郎が読んでいた内容と違う」


澪は椅子から立ち上がり、散らばっていた資料を肘で押さえた。窓の外では、青と赤の照明をつけた高層ビルの間に、灰色の団地が沈んで見えた。榊原は周囲を確かめるように声を落とし、もう一言続けた。


「誰かが、名誉会長である君のお父さんを、いつでも会社から追い出せるように書き換えている」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ