第2話 末娘は拍手をしない
第2話 末娘は拍手をしない
天城征一郎の問いが会場へ響いたあと、二千人の招待客は息を詰めたように静まり返った。壇上では、長女の麗華が白いパンツスーツの裾を整え、次女の美冬が藤色のドレスの胸元へ手を添えていた。末娘の澪は二人から少し離れて立ち、コーヒーの染みが残ったシャツの袖口を、紺色のジャケットの中へ隠そうとしていた。
司会者の前に置かれた進行表には、後継者選びについて一行も書かれていなかった。舞台袖の広報部員たちは、タブレット端末を抱えたまま小声で相談し、報道陣は新しい記録媒体をカメラへ差し込んでいた。テーブルに並べられた牛肉の赤ワイン煮はすっかり冷め、固まり始めた脂が皿の縁に白く残っていた。
「まずは麗華。長女のおまえから聞かせてもらおう」
征一郎が促すと、麗華は父の前へ一歩進んだ。突然の指名であるにもかかわらず、背筋はまっすぐ伸び、唇にはカメラを意識した微笑が浮かんでいた。彼女は会場を一度見渡してから、黒瀬が差し出したマイクを受け取った。
「お父様、私が初めてこの会社へ来た日のことを覚えていらっしゃいますか。私はまだ七歳で、赤い靴を履き、受付の大理石で滑って転びました。お父様は泣いている私を抱き上げ、天城の人間は何度転んでも立ち上がるのだと教えてくださいました」
会場の前方から、小さな笑い声が起こった。征一郎はその思い出を覚えていない様子だったが、満足そうに顎を上げた。麗華は父の反応を確かめると、左手を胸へ当てた。
「私は、お父様が何もない海の上に築いたこの会社を、命に代えても守ります。社員十万人の暮らしも、株主の信頼も、天城の名も、決して傷つけさせません。お父様が歩けなくなれば私が足となり、話せなくなれば私が言葉となり、そのご意志を世界へ伝えます」
麗華が言い終えると、会場に大きな拍手が起こった。スクリーンの端には、広報部が使用する反応分析システムの画面が一瞬だけ映り、好意的反応八十七パーセントという数字が表示された。担当者が慌てて画面を消したが、それを見た澪は、麗華の演説が本当に即興だったのかと姉の横顔を見た。
麗華はマイクを返しながら、右手の親指で人差し指の爪を二度こすった。それは、子どもの頃に暗唱を終えたときにも見せていた癖だった。父の前で間違えずに話せた夜、麗華は夕食のハンバーグにも手をつけず、部屋へ戻って次の日の予定を練習していた。
「よく言った。やはりおまえは、長女としての責任を分かっている」
征一郎が麗華の肩をたたくと、麗華は頭を下げた。白い布越しに父の手の重みを受け止めながら、口元をわずかに引き締めた。席へ戻る代わりに、父の右側へ半歩移動して立った。
「次は美冬だ。おまえの気持ちを聞かせてもらおう」
美冬は両手でマイクを受け取った。藤色のドレスから白百合に似た香水が立ち、舞台照明に照らされた真珠のネックレスが淡く光った。彼女は話し始める前に一度息を吸い、父ではなく、正面中央に置かれたテレビカメラを見た。
「お父様が造られたのは、会社だけではありません。病院へ行けない人が診察を受け、学校へ通えない子どもが学び、足の弱い高齢者にも温かい食事が届く街を造られました。私は幼い頃から、お父様が夜遅く帰宅し、冷めた夕食を一人で召し上がる姿を見てきました」
美冬の声が震え、目の縁に涙が浮かんだ。会場の女性客がハンカチを取り出し、記者席から何度もシャッター音が聞こえた。征一郎も眉を寄せ、自分の苦労を初めて理解してもらったように、美冬へ顔を向けた。
「お父様の理念を、十年や二十年で終わらせるつもりはありません。次の百年へ受け継ぎ、天城の街に住むすべての人を守ります。娘としてお父様を支え、経営者としてお父様の夢を完成させることが、私の人生です」
美冬が父の手を取ると、拍手は麗華のときより長く続いた。スクリーンには今度こそ表示されなかったが、舞台袖の広報部員が持つ端末には、好意的反応九十一パーセントと表示されていた。美冬は涙を白いハンカチで押さえながら、姉とは反対の、父の左側へ立った。
麗華は美冬のハンカチに、化粧がほとんどついていないことへ気づいた。美冬は朝から泣く場面を想定し、防水性の化粧品を使っていたのだ。姉妹は父の背後で視線を合わせたが、すぐに来賓へ向けた笑顔へ戻った。
澪は二人の演説を聞きながら、昨日、事務所へ届いた資料を思い出していた。天城メディカルが経営する介護施設では、夜勤職員が一つの階に一人しか配置されず、八十七歳の入居者が廊下で倒れても三時間発見されなかった。報告書には「予測不能な事故」と書かれ、その下には美冬の電子決裁印が押されていた。
物流子会社では、配送員が月百三十時間を超える時間外労働の末、トラックの中で亡くなっていた。遺族へ渡された勤務記録からは、休憩時間と深夜の配送履歴が削除されていた。その会社の再編を承認した取締役会では、麗華が議長を務めていた。
「最後は澪だ」
征一郎に呼ばれ、澪は顔を上げた。黒瀬が差し出したマイクには、麗華と美冬の口紅がわずかに残り、金属の部分が二人の手の熱で湿っていた。澪はハンカチを持っていなかったため、ジャケットの裾で手のひらを拭いてからマイクを受け取った。
「澪先生、右側のカメラをご覧ください」
小声で指示した広報部員に、澪は首を横へ振った。会場の後方には、澪の依頼人である水原奈々が一般招待客として立っていた。黒いワンピースの胸元には、配送員の制服を着て笑っている兄の小さな写真をつけていた。
「さあ、聞かせてくれ。おまえも姉たちに負けない言葉を持っているだろう」
征一郎は上機嫌で両腕を広げた。澪は父の右に立つ麗華と、左に立つ美冬を見た。二人とも話を終えた人の顔ではなく、採点結果を待つ受験生のような顔をしていた。
「お父さん。私が七歳のとき、誕生日に赤い自転車を買ってくれたことを覚えている?」
征一郎は予想していなかった質問に眉を上げた。会場には柔らかな空気が戻り、美冬も、澪がようやく家族の思い出を語るのだと思って息をついた。麗華だけが、妹の声に甘さがないことへ気づいていた。
「もちろん覚えている。おまえは毎日、庭を走り回っていた」
「自転車は青だった。私は赤が欲しかったけれど、お父さんが青のほうが賢く見えると言って決めたの。庭で乗ったのも一度だけで、あとは運転手さんと公園へ行った」
征一郎の頬が動いた。澪は父を責めるために昔の話をしたのではなく、父が自分に都合よく記憶を作り替えていることを確かめたかった。征一郎は自分が娘を愛した記憶さえ、与えた物の値段で覚えているのだと分かった。
「何が言いたい。私は忙しかった。それでも、おまえたちに不自由をさせたことはない」
「ええ。大きな家も、きれいな服も、家庭教師も与えてくれた。だから、お父さんにしてもらったことへ感謝している。それと、会社がしてきたことを正しいと言うかどうかは、別の話よ」
会場の空気が変わった。澪は鞄から資料を取り出せなかったため、覚えている数字を一つずつ口にした。物流子会社の時間外労働、介護施設の夜勤人数、生活信用指数が低い世帯の住宅契約拒否件数を、誰が聞いても分かる言葉で説明した。
「昨年、天城ロジスティクスの配送員が、トラックの運転席で亡くなりました。四十二歳で、中学生の娘さんがいました。会社は個人の健康管理の問題だと発表しましたが、亡くなる前の一か月間に休めた日は二日だけです」
招待客の一部が顔を伏せ、役員席では男たちが互いの様子をうかがった。奈々は胸元の写真へ手を添え、唇をきつく結んでいた。征一郎は澪からマイクを奪おうとしたが、黒瀬が報道カメラの存在を耳打ちすると、その手を止めた。
「介護施設では人員削減が続き、職員が食事を取る時間もありません。生活信用指数が低いというだけで、病院の予約を後回しにされた人もいます。子どもには何の責任もないのに、親の収入によって入学できる学校が決められています」
「やめなさい、澪。今日はそのような話をする場所ではないわ」
美冬が父に代わって止めようとしたが、澪はマイクを下ろさなかった。麗華も一歩前へ出たものの、記者たちが一斉にカメラを向けたため、妹へ触れることができなかった。会場に残っていたコーヒーの香りへ、冷えた肉料理の脂の匂いが混じっていた。
「お父さんは、自分を愛しているなら会社を褒めろと言った。でも、愛している相手が間違った道へ進んでいるとき、黙って拍手することが愛だとは思わない」
澪は父の顔をまっすぐ見た。幼い頃、熱を出した澪の枕元に、征一郎が一度だけ朝まで座っていたことを覚えていた。翌朝、征一郎がむいたリンゴは皮が厚く、形も不ぞろいだったが、澪はあのときのリンゴの甘さまで忘れてはいなかった。
「お父さんを愛しているから、正しいと言えないことを正しいとは言いません」
会場から拍手は起こらなかった。征一郎の顔から笑みが消え、額の血管が浮き上がった。彼は黒瀬から書類を奪うと、革張りの表紙を壇上の台へたたきつけた。
「愛しているだと。二千人の客の前で父親へ泥を塗り、会社を犯罪者の集まりのように言うことが、おまえの愛なのか」
「泥を塗ったのは私ではないわ。隠していたことが表へ出ただけよ」
「黙れ。おまえは天城の名で大学へ行き、天城の金で弁護士になった。それなのに、父親へ刃を向けるのか」
「学費は返したわ。会社を辞めたときに、利息もつけて返したでしょう」
征一郎は壇上の端に立つ警備責任者へ手を上げた。黒い制服を着た警備員が四人、左右の階段から上がってきた。麗華は父を止めず、美冬はハンカチを握ったまま、澪から目をそらした。
「この場で宣言する。天城澪には一株も渡さない。私の財産も、この会社も、天城家の名も継がせない。今日限り、おまえは私の娘ではない」
会場のあちこちで息をのむ音がした。澪はマイクを黒瀬へ返し、床へ置いていた布の鞄を拾った。警備員の一人が腕をつかもうとしたため、自分で歩くと告げて階段へ向かった。
「澪、今なら謝れるわ」
麗華が背後から呼び止めた。澪は足を止め、姉の白いパンツスーツと、美冬の藤色のドレスを振り返った。二人の服にはしわ一つなかったが、その足元には、誰かが落としたクリーム入りの小さな菓子が踏まれ、白い床へ茶色い跡をつけていた。
「何を謝るの。事実を話したこと、それとも、お父さんを愛していると言ったこと?」
麗華は答えなかった。澪は警備員に囲まれたまま会場の中央通路を歩き、二千人の視線とカメラの光を背中に受けた。出口の扉が閉まる直前、征一郎が次の後継者について話し始め、会場から再び大きな拍手が聞こえた。
エレベーターホールへ出ると、海に面した窓へ雨粒が当たり始めていた。澪は鞄の中から潰れた鮭のおにぎりを取り出し、包みを半分だけ開いたが、海苔の匂いをかいだだけで食べられなかった。鞄へ戻そうとしたとき、閉まりかけた会場の扉を誰かが押し開けた。
黒いワンピースを着た奈々が走ってきた。胸元では、亡くなった兄の写真が揺れていた。奈々は何も言わずに澪の前へ立ち、自分の鞄から水筒を取り出した。
「先生、おにぎり、ここで食べませんか。兄も鮭が好きでした。仕事へ行く日は、いつも二つ持っていったんです」
澪は潰れたおにぎりを両手で持ち直した。扉の向こうから聞こえる拍手はまだ止まっていなかったが、今度は振り返らなかった。
「半分、食べてくれる?」
「はい。きれいな形のほうを、先生が食べてください」
二人は窓際の長椅子へ並んで座った。澪が包みの上からおにぎりを二つに割ると、鮭が片方へ偏り、奈々は久しぶりに口元を緩めた。窓の外では、白い高層ビルの向こうにある灰色の団地へ、雨雲がゆっくりと広がっていた。




