第1話 愛を証明した娘に会社をやる
第1話 愛を証明した娘に会社をやる
天城スマートシティ完成十周年記念式典の朝、東京湾には薄い雲がかかり、海から吹き上げる風が高層ビルの壁面を低く鳴らしていた。地上六十階の天城コンベンションホールでは、白い制服を着た給仕たちが銀色の盆を運び、焼きたてのクロワッサン、スモークサーモン、果物を飾った小さなタルトを長いテーブルへ並べていた。会場にはコーヒーとバターの匂いが漂っていたが、壇上の裏に用意された控室で、天城征一郎は何も口にせず、鏡の前で濃紺のネクタイを結び直していた。
「会長、お飲み物をお持ちしました。いつもの、砂糖を二つ入れた紅茶です」
黒いスーツを着た秘書の黒瀬直人が、白い磁器のカップを机へ置いた。征一郎は返事をせず、ネクタイの結び目を指先で押さえたまま鏡に映った自分の顔を見ていた。七十六歳になった顔には深いしわが刻まれていたが、銀色の髪は一筋の乱れもなく、背広の胸には創業五十周年の記念に作らせた金色の社章が光っていた。
「ネクタイが曲がっていないか」
「まっすぐです。会長は今日も、どなたより立派に見えます」
「そうではない。右が下がっているだろう。おまえは目まで悪くなったのか」
征一郎が声を荒らげると、黒瀬はすぐにネクタイへ手を伸ばした。結び目は最初から曲がっていなかったが、黒瀬は黙って数ミリだけ動かし、これで整いましたと答えた。征一郎はようやく鏡から離れたものの、紅茶には触れず、机の上に置かれた三冊の革張りの書類へ目を落とした。
「三人とも来ているか」
「麗華副社長と美冬専務は、すでに来賓のご挨拶を始めています。澪先生も十分ほど前に到着されました」
「先生ではない。あれは私の娘だ」
征一郎は書類の一冊を開き、すぐに閉じた。その仕草を見た黒瀬は、書類の内容について確認することも、昨夜まで予定になかった発表について尋ねることもしなかった。控室の隅には、征一郎が自宅から持ってこさせた塩昆布入りのおにぎりが二つ残されており、乾き始めた海苔の端が皿から浮いていた。
会場では、長女の天城麗華が海外投資家と英語で話していた。麗華は肩の線が鋭く見える白いパンツスーツを着て、耳には小さなダイヤモンドのピアスをつけていた。手にした炭酸水のグラスには口をつけず、相手が笑えば同じ角度で口元を緩め、名刺を受け取るたびに秘書へ視線だけで指示を送っていた。
「お姉様、朝からずいぶん熱心ね。今日くらい、お父様のお祝いに集中したらどう?」
淡い藤色のドレスを着た次女の美冬が、シャンパンのグラスを持って近づいてきた。彼女の髪からは白百合に似た香水が漂い、胸元には征一郎から四十歳の誕生日にもらった真珠のネックレスが輝いていた。麗華は投資家を見送ってから、皿に残された一口大のローストビーフをフォークで裏返した。
「あなたこそ、朝からテレビ局を三社も呼んだそうね。介護施設で父親を支える優しい娘という特集でも組ませるつもり?」
「十周年の記念取材よ。私の施設では、昨日も百二歳の入居者がお誕生日を迎えたの。お父様もあの方のように、いつまでもお元気でいてくださればいいと思っているだけ」
「百二歳まで会長室へ通われたら、社員が困るわ」
美冬はグラスを口元へ運び、飲まずに戻した。麗華も笑ったが、二人の目は笑っていなかった。二人の間を給仕が通り、鶏肉とキノコを詰めた小さなパイを勧めたものの、姉妹は同時に首を横へ振った。
会場の後方では、三女の天城澪が壁際に立っていた。紺色のジャケットの下には白いシャツを着ていたが、袖口には朝飲んだコーヒーの薄い染みが残っていた。家を出る直前、事務所から過労死訴訟の資料が届き、トーストを立ったまま食べながら目を通したため、着替える時間がなくなったのだった。
「澪、来ていたのね。招待状を送り返してくるかと思ったわ」
麗華が声をかけると、澪は手にしていた布の鞄を足元へ置いた。鞄の角は擦れて白くなり、中には付箋だらけの訴訟記録と、コンビニで買った鮭のおにぎりが入っていた。朝から何も食べていないことを思い出したが、華やかな料理へ手を伸ばす気にはなれなかった。
「お父さんから、家族として出席しろと言われたから来たの」
「今日は仕事の話をしないでちょうだい。あなたの依頼人が何を訴えていようと、ここは会社の記念式典よ」
「会社の記念式典だからこそ、その会社で亡くなった人の話をしてはいけないの?」
麗華の指が、ローストビーフの皿の縁を一度たたいた。美冬は二人の間へ入り、姉の腕を軽く押さえた。近くにいた新聞記者がこちらを見たため、美冬は撮影用の笑顔を作り、澪の肩へ親しげに手を置いた。
「今日はお父様の七十六歳のお誕生日でもあるのよ。澪だって、幼い頃は毎年ケーキを作っていたでしょう?」
「あの頃は、お父さんが生クリームよりバタークリームを好きだと思っていたから。あとで社員の前では昔ながらの味が好きだと言っていただけで、本当は生クリームが好きだと知ったけれど」
「そんな昔のこと、よく覚えているわね」
「台所で一晩かけて作ったものを、一口も食べてもらえなかったから覚えているの」
美冬の手が澪の肩から離れた。三人の前に短い沈黙が落ちたところで、会場の照明が暗くなり、天城スマートシティの十年間を紹介する映像が巨大スクリーンに映し出された。海を埋め立てて造られた高層住宅、無人配送車、顔認証で入れる病院、子どもたちがタブレット端末を使う学校が次々と現れ、最後に若い頃の征一郎が工事現場でヘルメットをかぶった写真が大きく映った。
司会者に名前を呼ばれると、征一郎は黒瀬を従えて壇上へ出た。二千人の招待客が立ち上がり、割れるような拍手が会場を満たした。征一郎は中央まで歩いてから片手を上げ、拍手が静まるまで口を開かなかった。
「十年前、ここには海と、誰も価値を認めなかった土地しかなかった。銀行は融資を断り、役人は夢物語だと笑い、評論家は三年で失敗すると書いた。しかし、いま見てみろ。住宅も病院も学校も道路も、私が造った」
会場から再び拍手が起こった。麗華は誰より早く手をたたき、美冬は目元へ指を当てながら微笑んだ。澪は壁際に立ったまま、スクリーンに一瞬だけ映った灰色の団地を見ていた。
「もちろん、私一人の力ではない。社員諸君、取引先の皆様、そして、私を信じてついてきた家族の力があったからだ」
征一郎は用意された原稿を閉じた。進行表を確認していた司会者が顔を上げ、舞台袖の広報担当者たちが慌ただしく動き始めた。黒瀬だけは驚かず、三冊の革張りの書類を抱えて征一郎の横へ進み出た。
「今日はもう一つ、皆様へ発表がある。本日をもって、私は天城ホールディングス会長を退く」
会場がざわめき、記者席から無数のフラッシュが光った。麗華は拍手を止め、美冬は胸元の真珠を握った。澪は父の声の調子から、これは衝動的な冗談ではないと察し、足元の鞄を拾い上げた。
「お父様、私は何も聞いていません」
麗華が壇上へ声を飛ばしたが、征一郎は片手で制した。美冬は黒瀬へ説明を求める視線を向けたものの、黒瀬は書類を持ったまま動かなかった。征一郎は娘たちが慌てる姿を眺め、口元をゆっくり持ち上げた。
「心配するな。会社を他人へ渡すつもりはない。天城家の会社は、天城家の人間が受け継ぐ」
征一郎の合図で、スクリーンに天城ホールディングスの株式構成が表示された。征一郎が保有する株式は三十八パーセントであり、それを受け継いだ者は事実上、グループ全体の支配者になれる。麗華が一歩前へ出ると、美冬も遅れまいと姉の隣へ並んだ。
「三人で分けるということですか」
麗華が尋ねると、征一郎は鼻で笑った。彼は三冊の書類へ順番に触れたあと、そのうち二冊を黒瀬へ戻した。残された一冊を高く掲げると、会場のざわめきが少しずつ収まった。
「平等などという言葉は、何も成し遂げなかった者が好む言葉だ。会社を三つに切れば、三つとも弱くなる。私の株も地位も、ただ一人の娘へ譲る」
「選定の基準を伺ってもよろしいですか」
麗華の声は落ち着いていたが、右手の親指が人差し指の爪を強くこすっていた。美冬は真珠から手を離し、報道カメラへ横顔が美しく映るように立ち位置を変えた。澪だけは壇上へ近づかず、人々の肩越しに父を見つめていた。
「能力だけなら、三人とも私には及ばない。実績を比べても、私が与えた地位で作った数字にすぎん。ならば最後に信じられるものは、家族の愛と忠誠だ」
征一郎は娘たちへ壇上へ上がるよう命じた。麗華と美冬はすぐに階段へ向かったが、澪は動かなかった。征一郎がもう一度名前を呼ぶと、澪は布の鞄を椅子へ置き、ゆっくりと二人の姉の隣へ並んだ。
給仕たちは壁際で銀の盆を持ったまま立ち尽くし、テーブルに並んだ料理からは湯気が消えていた。征一郎のために用意された大きな誕生日ケーキは切られないまま、砂糖で作られた金色の社章を載せている。窓の外では雲の切れ間から日が差し、三人の娘の影が壇上へ長く伸びた。
征一郎は麗華、美冬、澪の顔を順番に見た。褒められる準備を整えた長女と次女を見て満足そうにうなずき、最後に、手をたたかなかった末娘の前で視線を止めた。会場にいる二千人と中継カメラの向こうにいる何万人もの人々へ聞かせるように、征一郎は両腕を広げた。
「さあ、答えてみろ。おまえたちは、この父親をどれほど愛している?」




