↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/29

第10話 裸になった王

第10話 裸になった王


 翌朝、征一郎が目を覚ますと、食堂の古い冷蔵庫が低い音を立てていた。窓辺には昨夜洗った布巾が五枚並び、厨房からは大根の味噌汁を温める匂いが漂っていた。長椅子から起き上がった征一郎は、枕代わりにしていた紺色の背広を広げ、手のひらで皺を伸ばした。白いワイシャツの襟は灰色に汚れ、片方の足には清水から借りた大きな運動靴を履いていた。


「おはようございます、会長さん」理恵は白い割烹着の袖をまくり、鍋を木べらでかき混ぜていた。

「私は会長だ。『会長さん』ではない」

「昨日の名前は覚えていますか」

「早川、野崎、清水、真鍋、理恵だ」

「全部言えましたね。では、ご褒美に味噌汁を一杯どうぞ」

「子ども扱いするな」


 征一郎は不満を口にしながら、長椅子の前に置かれた低い机へ座った。朝食は、昨夜残しておいた半分のコッペパンと、大根の葉が入った味噌汁だった。パンはさらに乾いていたため、理恵が古いトースターで温めると、表面だけが少し香ばしくなった。征一郎は味噌汁へパンを浸しかけ、理恵に見られていることに気づくと、そのまま口へ運んだ。


「好きに食べればいいでしょう。誰も作法など見ていませんよ」

「味噌汁にパンを入れるなど、天城家では許されん」

「ここは天城家ではありません」

「分かっている」

「本当に分かっていますか」

「朝から質問ばかりするな」


 食事を終えた征一郎は、使った椀を机へ残して立ち上がった。理恵が流しを指さすと、征一郎はしばらく動かなかったが、やがて椀と箸を運んだ。蛇口をひねると水が勢いよく出て、ワイシャツの袖へ飛び散った。洗剤を多く出しすぎて泡だらけになった椀を見て、理恵が吹き出した。


「笑うな。皿洗いなどしたことがない」

「最初から上手な人はいませんよ。すすぐときは水を止めすぎないでください」

「水道代がかかるのではないのか」

「それは流しっぱなしにする人へ言う言葉です。会長さんは、止めすぎです」

「加減まで教わらなければならんのか」

「王様も、椀を一つ洗うには練習が必要なんですね」


 征一郎は返事をせず、泡の残った椀をもう一度すすいだ。水切り籠へ置くと、欠けた椀の隣で自分のものだけが斜めになった。理恵は直そうとしたが、征一郎が手を出して置き直した。自分で洗った一つの椀が、役員会で決裁した何百億円の案件より扱いにくいとは、誰にも言えなかった。


「私は会社へ行く」征一郎は背広を着て、濡れた袖口を引っ張った。

「その格好で本社まで歩くつもりですか」

「灰街に天城の工場があるはずだ。そこで車を出させる」

「閉鎖されて何年もたっています」

「工場長へ私が命じる。会長が来たと言えば、門を開ける」

「今のあなたに、命令を聞く社員がいると思いますか」

「私の会社だ。社員が会長の命令を聞くのは当然だ」


 理恵が止めても、征一郎は食堂を出た。雨はやんでいたが、空には鉛色の雲が残り、側溝から湿った土と油の匂いが上がっていた。清水から借りた運動靴は右足だけ一回り大きく、歩くたびに踵が浮いた。征一郎は何度も足を止め、革靴より柔らかくて歩きにくいと文句を言いながら、閉鎖された天城精密機器灰街工場へ向かった。


 工場の正門には鎖が巻かれ、錆びた南京錠が下がっていた。守衛室の窓は割れ、床には雨水と枯れ葉がたまっていた。建物の壁には大きく「天城精密機器」と社名が残っていたが、その下には赤い塗料で「生活を返せ」と書かれていた。駐車場の隅では雑草が膝の高さまで伸び、作業員が昼食を取っていたベンチには、空の缶詰と片方だけの軍手が置かれていた。


「工場長はいるか!」征一郎は鎖の向こうへ向かって声を張り上げた。返事はなく、建物の奥から鳩の羽音が聞こえただけだった。

「会長の天城征一郎だ。全員、正門前へ集まれ!」征一郎は背広の前を整え、誰もいない駐車場を見渡した。

「本日は、この灰街工場の再建について話す。天城グループは、どのような困難にも屈しない。社員一同が力を合わせれば、必ず過去最高益を更新できる!」


 征一郎の声はコンクリートの壁へ当たり、少し遅れて返ってきた。彼には一瞬、正門前に作業服を着た社員たちが整列しているように見えた。油のついた帽子を持つ者、汗を拭く者、幼い子どもの写真を胸ポケットへ入れている者が、会長の言葉を待っていた。征一郎は右手を上げ、かつて創立記念式典で繰り返した演説を続けた。


「会社は家族だ。天城で働く者を、私は一人も見捨てない!」

「会長さん、そこには誰もいませんよ」


 背後から声がして、征一郎は振り返った。買い物かごを載せた自転車を押す老婆が、赤い帽子のつばを上げて工場を見ていた。前かごには特売の食パンと白菜が入り、ハンドルにはトイレットペーパーが紐で結ばれていた。老婆は工場の鎖を指さし、首を横へ振った。


「ここは九年前に閉まったんです。機械は外国へ売られ、働いていた人はみんな散りました」

「昨日まで操業していたはずだ」

「昨日も一昨日も、誰もいませんよ」

「では、今そこに並んでいる社員は誰だ」

「私には、鳩しか見えません」


 征一郎がもう一度正門の向こうを見ると、社員たちの姿は消えていた。割れた窓、伸びた雑草、風に動く軍手だけが残っていた。掲示板には閉鎖を知らせる紙が貼られていたが、雨にさらされ、文字の半分が読めなくなっていた。征一郎は鎖を両手でつかみ、錆の粉を掌へつけた。


「私は、この工場を閉鎖していない」

「会長決裁だったと、当時の新聞には書いてありましたよ」老婆は自転車のベルを一度鳴らし、坂道を押していった。

「みんな、会社は家族だという言葉を信じていたのにね」

「待て。私は損失を止めるために決裁しただけだ」

「その説明は、ここで九年待っている社員にしてください」


 老婆が去ったあと、征一郎は工場前の歩道へ座り込んだ。背広のポケットを探っても、社員名簿も閉鎖を決めた資料もなかった。昨夜の百円パンを包んでいた袋だけが出てきたため、皺を伸ばして膝の上へ置いた。風が吹くと赤い値札がめくれ、征一郎は飛ばされないよう親指で押さえた。


 そのとき、近くの集合住宅から子どもの泣き声が聞こえた。征一郎が顔を上げると、玄関前に一人の母親と七歳ほどの男の子が立っていた。母親は紺色の事務服に白い運動靴を履き、男の子は黄色いTシャツの上へ赤いランドセルを背負っていた。足元には衣類を詰めた紙袋、炊飯器、蓋の割れた衣装箱が並べられていた。


「お母さん、おうちに入れないの」

「少し待ってね。今、管理会社に話しているから」

「ランドセルの中に、明日の宿題があるよ」

「大丈夫。お母さんが何とかするから」


 母親は壁に埋め込まれた端末へ住民証をかざした。青い光が顔をなぞり、画面に「生活信用指数三百八十六、居住資格停止」と表示された。母親が勤務先の証明書を読み込ませても、端末は同じ言葉を繰り返した。男の子は紙袋の上へ座り、給食で残したらしい小さな葡萄パンをランドセルから取り出した。


「家賃は払いました。昨日、口座から引き落とされています」母親は端末へ向かって声を上げた。

「生活信用指数の低下により、契約は自動解除されました」

「指数が下がった理由を教えてください」

「医療費未払い履歴、勤務評価の低下、関連人物の信用障害が確認されています」

「医療費は分割で払っています。勤務評価は、子どもの発熱で二日休んだだけです」

「異議申立ては、オンライン窓口から行ってください」


 母親は古い携帯端末を取り出したが、画面には通信停止の表示が出ていた。男の子が葡萄パンを半分に割り、母親へ差し出した。母親は受け取らず、息子の乱れた髪を手で直した。ランドセルの横には、朝に持たせた水筒と、泥のついた上履き袋がぶら下がっていた。


「これを食べて待っていて。お母さんはお腹が減っていないから」

「朝も食べていなかったよ」

「会社で食べたの」

「嘘だ。お弁当箱、台所に置いてあったもの」

「では、一口だけもらうね」


 母親がパンの端を小さくちぎると、男の子は残りを両手で抱えた。その様子を見ていた征一郎は、工場の鎖から手を離し、集合住宅の端末へ近づいた。母親が警戒して男の子を背後へ隠すと、征一郎は背広の襟を正した。汚れた服と左右の違う靴では、会長だと名乗っても信じてもらえないことに、まだ気づいていなかった。


「その契約解除を撤回しろ」征一郎は端末へ命じた。

「音声指示を受け付けました。本人確認を開始します」

「天城征一郎だ。天城グループ会長として命じる。この母子の居住資格を戻せ」

「顔認証を行います。正面を向いてください」


 青い光が征一郎の顔をなぞった。数秒後、端末には赤い文字が表示された。征一郎がもう一度名乗ると、同じ判定が繰り返された。


「登録情報を確認しました。天城征一郎、八十歳」

「本人だと分かったなら、早く撤回しろ」

「現在の役職、無職。企業権限、なし。行政権限、なし」

「私は天城グループの会長だ」

「権限のない人物による操作です。命令を拒否します」

「この住宅管理制度は、天城データシステムが作ったものだ。創業者である私の命令を聞け」

「権限のない人物による操作です。命令を拒否します」


 征一郎は端末を拳でたたいた。画面には警告が表示され、これ以上の接触は迷惑行為として信用指数へ反映すると告げた。かつて征一郎は、生活信用指数の導入を「滞納と不正を排除する効率的な仕組み」として承認していた。役員会では、判定から人間の感情を排除できることを利点として説明され、征一郎自身も大きくうなずいた。


「人間を追い出すのに、人間が事情を聞かないのか」

「異議申立ては、オンライン窓口から行ってください」

「通信を止められた者が、どうやってオンラインで申し立てる」

「質問の内容を認識できませんでした」

「作った者を呼べ。私が話す」

「権限のない人物による操作です」


 征一郎の声が大きくなるほど、端末の返事は同じになった。母親は紙袋から男の子の薄い上着を取り出し、冷えないよう肩へ掛けた。端末に怒鳴る老人より、今夜眠る場所を探すことが先だった。母親は炊飯器を抱え、男の子へ衣装箱の取っ手を持つよう頼んだ。


「どこへ行くつもりだ」

「駅の相談窓口です。閉まる前に行かなければ」

「私が何とかする」

「あなたも困っているのでしょう。その靴、左右で違いますよ」

「私は天城征一郎だ」

「そうですか。では、早くご自分の家へ帰ってください」


 母親は男の子の手を引き、紙袋を一つ残したまま歩き出した。男の子は何度も振り返り、征一郎へ半分残った葡萄パンを差し出そうとした。母親に手を引かれると、パンをランドセルのポケットへしまった。征一郎は端末の前に立ったまま、遠ざかる赤いランドセルを見送った。


「会長命令だ。あの親子を戻せ」

「権限のない人物による操作です」

「私は王だったんだぞ」

「質問の内容を認識できませんでした」


 征一郎は、黒くなった端末の画面に映る自分の姿を見た。泥のついた背広、灰色になったワイシャツ、左右で形の違う靴、伸びた白髪が映っていた。会長印も役員席も運転手も秘書もない彼を、端末はただの無職の老人として判定していた。王冠の代わりに残っていたのは、ポケットの百円パンの袋だけだった。


 一方、澪は一時滞在先の客間に立ち、父が寝ていた寝台を調べていた。薄い水色のブラウスに黒いパンツを合わせ、肩までの髪を後ろで一つに束ねていた。白いシーツには人が横になった皺が残り、枕元には手をつけていない血圧の薬と、半分になった梅のおにぎりが置かれていた。卓上の湯飲みには番茶が残り、表面には薄い膜が張っていた。


「内側から鍵をかけたのに、どうして消えるの」澪は扉の鍵を何度も動かした。壊された跡はなく、窓も内側から閉まっていた。建物の管理人は、夜中に物音を聞かなかったと繰り返した。

「裏口の記録を見せてください」

「昨夜の二時から三時まで、点検のためカメラが止まっています」

「誰が点検を指示したのですか」

「管理会社です。こちらでは分かりません」

「その管理会社は、天城グループと契約していますね」

「私は受付を任されているだけです」


 澪は父の薬とおにぎりを別々の袋へ入れ、机の上に落ちていた細い黒糸も拾った。父が着ていた紺色の背広と同じ色に見えた。誰かが無理に連れ出したのか、自分から扉を開けたのかは分からなかったが、黒瀬が一時滞在先を把握していた可能性は高かった。澪は携帯電話を取り出し、法律事務所の奈々へ連絡した。


「父がいなくなった。黒瀬に知られないよう、灰街の支援団体と診療所へ問い合わせて」

「どうして灰街なの」

「父を消したいだけなら、もっと別の方法を使うはずよ。黒瀬は父に、自分が切り捨てた世界を見せようとしているのかもしれない」

「そこまで分かっていて、まだ助けるの」

「命を守ることと、罪を許すことは別よ」

「私は、あの人が兄さんへしたことを忘れない」

「私も忘れていない。だから、生きたまま責任を取らせるの」


 澪は電話を切り、父の残した梅のおにぎりを見つめた。昨夜、征一郎は一口食べて「梅が酸っぱすぎる」と文句を言った。澪が別のものを買おうかと尋ねると、「そこまでしなくていい」と言いながら、もう一口だけ食べていた。澪は乾いた海苔の匂いが残る袋を閉じ、父の写真を持って灰街へ向かった。


 その頃、航は灰街の古い簡易宿泊所に身を潜めていた。黒いパーカーの下に灰色のTシャツを着て、伸びた髪を帽子の中へ押し込んでいた。部屋には細い寝台と傷だらけの机しかなく、窓辺には洗った靴下が一足、針金のハンガーへ掛けられていた。夕食として買った百円の魚肉ソーセージと冷めたおにぎりを机の端へ寄せ、航は小型端末へ住民データを表示した。


「やはり、信用指数は自然に下がったんじゃない」


 航が調べた記録には、灰街住民の医療履歴、借金、勤務評価、家族関係、通院先がまとめられていた。本来なら別々に管理される情報が、一つの名簿へ統合され、複数の不動産会社や貸金業者へ販売されていた。生活信用指数が一定以下になった住民は、住宅から追い出されたあと、高金利の融資や低賃金の仕事へ誘導されていた。その業者の送金先をたどると、黒瀬が管理する海外口座へ行き着いた。


「住民を落とし、落ちた人間を売っているのか」


 廊下で足音がすると、航は端末を閉じ、魚肉ソーセージの包装紙をその上へ載せた。扉が二度たたかれ、宿の主人が洗濯代を取りに来たと告げた。航は硬貨を三枚渡し、残った小銭を掌で数えた。以前なら昼食のコーヒーにも足りない金額が、今は明日の食事代だった。


「若いの、最近この辺りを嗅ぎ回っている連中には気をつけな」宿の主人は、穴の開いた茶色いセーターを着ていた。

「どんな連中ですか」

「住民証を安く直すと言って、顔写真や指紋を集めている。渡した連中は、次の月に部屋を追い出されているよ」

「その業者の名前を知っていますか」

「名前は毎週変わる。でも、車には天城の古い印が残っていた」

「その車を見た場所を教えてください」


 宿の主人が帰ると、航は再び端末を開いた。売買記録を複製し、宗一が守っている証拠と照合するため、暗号化した保存領域へ移した。画面の隅には、灰街で生活信用指数を失った者の一覧が表示されていた。先頭に近い場所には、母親と七歳の息子の情報があり、その数行下に新しく登録された名前があった。


「天城征一郎。無職。信用指数、算定不能」


 航は椅子から立ち上がり、机へ膝をぶつけた。冷めたおにぎりが床へ落ち、海苔の間から梅干しが転がった。航はそれを拾うことも忘れ、征一郎の記録が登録された位置情報を確認した。最後に読み取られた場所は、九年前に閉鎖された天城精密機器灰街工場の前だった。


「会長、そこにいるのか」


 航は端末を胸元へ入れ、黒い帽子を深くかぶった。すぐに迎えへ行けば、黒瀬の監視網に自分の居場所まで知られる可能性がある。それでも、征一郎を放置すれば、住民データを売買する者たちに再び連れ去られるかもしれなかった。航は床へ落とした梅干しを紙へ包み、宿の明かりを消して階段を駆け下りた。


 閉鎖工場の前では、征一郎が今も黒い端末へ命令を続けていた。画面は消え、返事もなくなっていたが、彼は母子の居住資格を戻せと繰り返していた。風が背広の裾を持ち上げ、赤い百円の値札がついた袋を道路へ転がした。征一郎は追いかけようとして足をもつれさせ、錆びた鎖へ手をついた。


「私は天城征一郎だ。私の命令を聞け」


 誰もいない工場からは、鳩の羽音だけが返ってきた。会社も家も名前の力も失った征一郎は、閉ざされた門の前で初めて、自分が作った仕組みの外側へ立っていた。命令する声だけは以前と同じだったが、その声に従う社員は、もう一人も残っていなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。