第11話 勘当した娘への電話
第11話 勘当した娘への電話
午前七時を過ぎたころ、澪の法律事務所に古い固定電話から着信が入った。澪は昨夜から一度も着替えておらず、薄い水色のブラウスには細かな皺が寄り、黒いパンツの膝には一時滞在先でついた埃が残っていた。机の上には父の写真、灰街の地図、冷めたコーヒー、手をつけていない卵サンドが並んでいた。奈々は床へ広げた聞き込み先の一覧へ赤い線を引いていたが、電話の音を聞くと鉛筆を止めた。
「天城澪法律事務所です」澪が受話器を取ると、向こうから食器の触れ合う音と、男の低い声が聞こえた。
「真鍋と申します。七年前まで、天城グループの広報部長をしていました」
「真鍋さん……品質偽装を公表しようとして解雇された方ですね」
「私のことをご存じでしたか」
「解雇された社員の記録を調べました。父があなたへしたことも知っています」
「その父親が、灰街にいます」
澪は椅子から立ち上がり、机の角へ腰をぶつけた。冷めたコーヒーが揺れ、書類の端へ茶色い染みを作った。奈々が布巾を取りに給湯室へ向かおうとしたが、澪は片手を上げて止めた。今は汚れた書類より、電話の向こうにいる人物の言葉を一つも聞き漏らさないことが先だった。
「父は無事ですか」
「生きています。ですが、ひどく衰弱しています」
「今、どこにいるのです」
「灰街の『よりみち食堂』です。昨夜、閉鎖された天城の工場前で倒れかけていたところを、航さんが連れ戻しました」
「航もそこにいるのですか」
「もう出ました。追われている身なので、長くとどまれないと言っていました」
「父を迎えに行きます。誰にも居場所を知らせないでください。特に天城家と黒瀬には、絶対に」
真鍋は短く返事をし、食堂までの道順を伝えた。大通りから入る道には天城系列の監視端末があるため、裏手の市場を通るよう念を押した。征一郎には熱があり、今朝は水を二口しか飲めず、味噌汁にも手をつけていないという。澪はその言葉をメモし、何度も礼を述べた。
「礼を言われるようなことはしていません」真鍋の声が少し低くなった。
「私が路上で会長を見つけたのは偶然です。あなたへ電話したのも、会長を許したからではありません」
「分かっています」
「この人を天城家へ戻せば、また娘たちと黒瀬に囲まれる。警察や救急へ連絡すれば、登録された家族へ居場所が伝わる。だから、あなたへ連絡しました」
「その判断で合っています。父の命は、私が守ります」
「あなたなら、あの人の会社まで守るのですか」
「いいえ。そこまでは約束しません」
澪が受話器を置くと、奈々は濡らした布巾でコーヒーの染みを拭いた。何度こすっても茶色は薄く広がるだけで、白い紙には輪郭が残った。奈々は紙を持ち上げ、印刷した父親の写真が汚れていないことを確かめてから、布巾を机へ置いた。唇を結んだまま、澪が鞄へ書類を詰める様子を見ていた。
「迎えに行くのですか」
「ええ。天城系列と関係のない医療機関へ連絡する」
「また助けるのですね」
「路上へ放置することはできないわ」
「あの人は、私の兄を放置しました」
澪の手が止まった。奈々の兄が死亡したとき、天城グループは事故の経緯を公表せず、遺族へ説明する前に社内記録を処分した。死亡報告書へ最終承認の署名をしたのは、当時の会長である征一郎だった。奈々の家では兄が使っていた弁当箱を捨てられず、母親が今も戸棚の奥へしまっていた。
「あの人は、兄が死んだことを知りながら隠しました。母は毎朝、兄の分までご飯を炊いて、帰ってくるはずがないのに弁当を作っていたんです」奈々は机に残った卵サンドを見つめた。
「会社の人が本当のことを話してくれるまで、母は兄がどこかで生きていると思っていました」
「忘れていないわ」
「では、どうして被害者みたいに助けるのですか。灰街へ捨てられたから、今までしたことまで消えるのですか」
「消えない。父が受けたことと、父がしたことは別々に残る」
奈々は布巾を強く絞り、水滴を机へ落とした。澪は鞄を閉じず、向かいの椅子へ座った。急がなければならなかったが、奈々へ「あとで話す」と言えば、それは征一郎が家族や社員へ繰り返した先送りと同じになる。澪は時計を一度見てから、奈々の顔へ向き直った。
「父の命を守ることは、父を許すことではないわ」
「でも、生きていれば、あの人はまた権力を使います」
「だから会社へは戻さない。株を取り返すためにも、会長へ復帰するためにも、私は力を貸さない」
「父親だから助けるのでしょう」
「父親だからではない。命を失えば、罪と向き合う機会までなくなるからよ」
「兄は、向き合う機会を奪われました」
「そうね。だから父には、奪われた側の名前を一人ずつ覚えてもらう」
奈々はすぐには答えず、兄の写真が入った書類を鞄へ入れた。給湯室の小さな冷蔵庫には、昨夜買ったヨーグルトと、誰かが半分だけ飲んだ牛乳が残っていた。奈々は牛乳の賞味期限を確かめ、今日までだと分かると、自分のカップへ全部注いだ。何げない手つきだったが、澪は兄を待ち続けた家族が、食べ物一つ捨てることにも迷っていた日々を思った。
「私も行きます」奈々は黒いジャケットを着て、兄の資料を抱えた。
「事務所に残っていて。黒瀬がこちらを監視している可能性がある」
「だから一人で行かせられません」
「父を見たら、何を言うか分からないでしょう」
「言いますよ。兄の名前を、あの人の前で言います」
「それは止めない。ただし、今は治療を先にさせて」
「命を守ることと許すことは別なのでしょう。私にも、それを確認させてください」
澪はうなずき、天城系列と資本関係のない青葉総合医療センターへ電話をかけた。院長の森川は、企業犯罪の被害者支援に関わった経験があり、患者情報を家族や会社へ勝手に渡さない人物だった。澪は父の名前と状態を説明し、通常の救急搬送ではなく、医療センターの車を灰街へ出してほしいと頼んだ。森川は短い沈黙のあと、看護師と運転手を向かわせると答えた。
「患者本人の意思確認はできますか」
「今の状態では、十分にできないかもしれません」
「診察と応急処置を行い、必要なら入院させます。ただし、天城家から問い合わせが来ても、本人または代理人の同意がなければ答えません」
「私を代理人として登録してください」
「会社の復権に利用するつもりはありませんね」
「父の生命と治療のためだけです」
「分かりました。三十分で車を出します」
澪と奈々は事務所の裏口から外へ出た。澪は父の写真、薬、着替えの白いシャツ、柔らかなズボンを布の鞄へ入れていた。奈々は水筒と、給湯室に残っていた卵サンドを持った。朝から何も食べていない澪へ一つ渡すと、澪は歩きながら口へ運んだ。
「パンが乾いていますね」
「昨日買ったものですから」
「卵の塩が少し強いわ」
「食べられるなら文句を言わないでください」
「父と同じことを言ってしまった」
「同じだと気づけるだけ、まだましです」
灰街へ入ると、雨上がりの道路から湿った埃の匂いが立っていた。市場では店主たちが野菜箱を並べ、傷のある林檎や曲がった胡瓜へ手書きの値札をつけていた。澪は真鍋に教えられた細い道を進み、骨の曲がった傘が並ぶ食堂を見つけた。入口には「よりみち食堂」と書かれた看板が揺れていた。
「澪さんですか」真鍋が外へ出てきた。昨夜の作業着のままで、袖には機械油の黒い染みがついていた。
「父は」
「奥で寝ています。夜中に工場へ行き、誰もいない場所で社員へ演説していたそうです」
「それを見たのは航ですか」
「ええ。航さんがここへ連れ戻しました。会長は母子が住居を追われたことを何度も話しています」
「父が、その母子を助けたのですか」
「端末へ撤回を命じただけです。端末は会長を『権限のない人物』と判定しました」
「父には、初めて命令が通じなかったのですね」
「それでも、朝まで命令を続けていました」
食堂の奥にある長椅子で、征一郎は古い毛布をかぶっていた。紺色の背広は枕元に畳まれ、白いワイシャツの襟は黒ずんでいた。片足には清水から借りた運動靴が残り、もう片方の靴下は洗って椅子の背へ掛けられていた。机には冷めた味噌汁と、赤い百円の値札がついた空のパン袋が置かれていた。
「お父さん」澪が呼ぶと、征一郎はゆっくり目を開けた。
「遅い。どこへ行っていた」
「一時滞在先から消えた人に言われたくありません」
「私は消えていない。誰かが私を灰街へ連れてきた」
「誰が連れてきたかは、これから調べます。まず病院へ行きましょう」
「天城の病院は使うな。黒瀬に見つかる」
「そのつもりです。天城家とも天城グループとも関係のない医療機関を手配しました」
征一郎は起き上がろうとしたが、肘が震え、毛布の上へ戻った。澪が背中へ腕を回すと、ワイシャツ越しに骨の形が分かった。警察署で会ったときより頬がこけ、髭も伸びていた。それでも征一郎は澪の手を借りたことを認めたくないのか、長椅子の縁へ指をかけて自分の力で座ろうとした。
「会社へ行く。黒瀬を解任しなければならん」
「今のあなたに、その権限はありません」
「私が会長だ」
「端末にもそう言ったのでしょう。何と返されましたか」
「権限のない人物だと判定された」
「では、現実を受け入れてください」
「お前が力を貸せば、会社を取り戻せる」
奈々の手が、兄の資料を入れた鞄の持ち手を強く握った。澪は奈々へ目を向け、今は待ってほしいと小さくうなずいた。それから征一郎の前へ椅子を運び、同じ高さに座った。食堂の厨房では理恵が大根の葉を刻み、包丁がまな板へ当たる音が一定の間隔で聞こえていた。
「警察署では言えなかったことを、今ここで言います」
「家へ戻りたいという話なら、あとにしろ」
「私は勘当された日に、天城の家へ戻らないと決めました」
「ならば、なぜ私を助けに来た」
「あなたを助けることと、あなたの娘へ戻ることは別だからです」
「親を見捨てないというなら、会社も守れ」
「守りません」
征一郎は口を閉じ、澪を見た。澪は視線を逸らさず、父の膝に掛かった毛布の継ぎ目を指で直した。幼い頃、征一郎の前で反対意見を言えば、食卓から出ていくよう命じられた。今日の澪には帰る自分の家と、自分の名前で働く法律事務所があった。
「あなたの命は守ります。必要な治療も受けさせます。黒瀬が勝手に連れ戻そうとしたら、法律で止めます」
「それなら、私の代理人になれ」
「治療と安全のための代理人にはなります。会社を取り戻すための代理人にはなりません」
「天城グループが黒瀬のものになってもいいのか」
「会社はあなたの王国ではありません。社員や取引先や利用者がいる場所です」
「私が作った会社だ」
「だから何をしてもよいと思い、奈々さんのお兄さんを含む多くの人を切り捨てたのでしょう」
奈々は鞄から一枚の写真を取り出した。作業服を着た兄が、弁当箱を手に笑っている写真だった。征一郎は写真を受け取らず、そこに写る男の顔を見つめた。見覚えがないという言葉を口にしかけ、真鍋や早川たちの顔を思い出したのか、唇を閉じた。
「この人を知っていますか」奈々が尋ねた。
「知らない」
「天城の工場で亡くなった私の兄です」
「事故の報告は、担当部署が処理したはずだ」
「最終報告書には、あなたの署名があります」
「今、その話をする必要があるのか」
「今すぐ答えろとは言いません。でも、病院から出たあとも逃げないでください」
「私は逃げてなどいない」
「名前も顔も覚えず、担当部署へ押しつけることを、私たちは逃げると言うんです」
征一郎の指が毛布の継ぎ目をつまんだ。言い返そうとしても、言葉が続かなかった。外で車が止まり、青葉総合医療センターの看護師が食堂へ入ってきた。灰色の制服を着た看護師は、征一郎の血圧と体温を測り、脱水と高熱があるため早急な検査が必要だと説明した。
「私は入院などしない」
「今のままでは、一人で歩くこともできません」澪が着替えの入った鞄を持った。
「病院へ行ったら、会社へ戻れるのか」
「それは約束しません」
「では、なぜ治療を受ける」
「生きて、自分がしてきたことを確認するためです」
「お前は私を罰したいのか」
「私が罰を決めるのではありません。あなたが見なかった人たちと、残された記録が答えを出します」
征一郎は真鍋を見た。真鍋は厨房脇に立ち、腕を組んでいた。理恵は小さな紙袋へ百円パンを一つ入れ、看護師へ渡した。征一郎が検査の途中で腹を空かせたときのためだという。
「また百円のパンか」
「嫌なら食べなくてもいいですよ」理恵が答えた。
「捨てるな。あとで食べる」
「昨日より少しだけ扱いやすくなりましたね」
「私は最初から扱いにくい人間ではない」
「それは、ご家族に聞いてみてください」
征一郎は澪と奈々を見たが、二人とも何も答えなかった。看護師に支えられて立ち上がると、清水から借りた大きな運動靴が床を擦った。征一郎は靴を返そうとしたが、真鍋は病院から戻ってきたときに自分で返すよう告げた。
「戻ってきてもよいのか」
「病院から逃げず、検査を受けたらです」
「私が誰か分かっているのか」
「天城征一郎さんでしょう。昨日、初めて百円パンを食べた人です」
「会長ではないのか」
「ここでは、ただの征一郎さんです」
征一郎は一瞬眉を上げたが、反論せずに医療センターの車へ乗った。車内には消毒薬の匂いがあり、座席の脇には毛布と水のボトルが用意されていた。澪が隣へ座り、奈々は向かいの席へ兄の写真を抱いて座った。扉が閉まると、食堂の看板と見送る真鍋の姿が窓の外へ流れた。
「澪、お前は私を許さないのか」
「今、その答えを求めないでください」
「父親が弱っているのに、冷たい娘だ」
「そういう言葉で、私を動かすことはできません」
「では、なぜ隣にいる」
「あなたの命を守ると決めたからです。ただし、会社を取り戻す手助けはしません。あなたの罪を小さくする証言もしません。私を後継者にすると言われても、取引には応じません」
征一郎は窓へ顔を向けた。汚れた背広、左右の違う靴、百円パンの入った紙袋しか持っていなかった。かつて勘当した娘は迎えに来たが、王座へ戻すためではなかった。征一郎が握っていたはずの家族も会社も、もう命令一つでは動かなかった。
「それでも、私の命は守るのか」
「はい」
「なぜだ」
「あなたが生きなければ、帰ってこなかった人たちの名前を聞かせることができないからです」
征一郎は膝の上へ置かれた紙袋を開き、百円パンを半分にちぎった。一方を澪へ差し出そうとして手を止め、奈々のほうへ向けた。奈々はすぐには受け取らなかったが、長い沈黙のあと、紙袋から小さいほうを取った。許したという言葉は、誰の口からも出なかった。
「兄の分ではありませんから」奈々はパンを膝の上へ置いた。
「分かっている」
「これで何かが帳消しになるわけでもありません」
「それも、分かっている」
「なら、病院で逃げずに検査を受けてください」
「今度は逃げない」
車は灰街を抜け、天城家と資本関係のない医療センターへ向かった。澪は父の血圧の薬を看護師へ渡し、奈々は兄の写真を鞄へ戻した。征一郎は残った半分のパンをゆっくり食べながら、食堂で覚えた五人の名前を指で数えた。王冠も会社も持たない老人に残された最初の仕事は、忘れてきた人々の名前から逃げないことだった。




