第12話 謝罪では戻らないもの
第12話 謝罪では戻らないもの
青葉総合医療センターへ入院して五日目の朝、征一郎は窓際の椅子に座っていた。薄い青色の病衣の上へ灰色のカーディガンを羽織り、足元には食堂の清水から借りた大きな運動靴が置かれていた。朝食の白粥は半分残り、梅干しだけが小皿の隅へよけられていた。窓を少し開けると、消毒薬の匂いに混じって、雨上がりの土と病院の厨房で焼くパンの香りが入ってきた。
「この粥は味が薄すぎる。料理長を呼べ」征一郎が箸を置くと、看護師の藤田は空になった湯飲みへ番茶を注いだ。
「ここには料理長はいません。栄養士さんならいます」
「私は塩分まで他人に決められる立場ではない」
「血圧が高いので、医師が決めました」
「私が会長だと知っているのか」
「ここでは患者さんです。お名前は天城征一郎さんです」
征一郎は眉を寄せたが、以前のように食事をすべて下げろとは言わなかった。白粥へ梅干しを少しだけ混ぜ、もう一口食べた。百円パンを翌朝まで残しておいた夜を思い出すと、味が薄いという理由で捨てさせることはできなかった。藤田はその様子を見ても褒めず、食べた量だけを記録用紙へ書いた。
午前十時、征一郎は診察室へ呼ばれた。白いブラウスに紺色のジャケットを着た澪と、黒いワンピースに茶色のカーディガンを羽織った奈々が、先に長椅子へ座っていた。奈々の膝には厚い封筒が置かれ、角が曲がるほど強く握られていた。森川医師は机へ脳の画像と検査結果を並べ、三人の顔を順番に見た。
「検査の結果からお話しします。天城さんには、認知症の初期症状が認められます」
「私が認知症だと?」征一郎は机へ身を乗り出した。
「最近の出来事を記憶する力と、複数の情報を整理して判断する力が低下しています。昨夜の日付を何度も尋ねたことや、閉鎖された工場に社員がいると思ったことにも、症状が影響した可能性があります」
「私は会社を何十年も経営した。判断力がないはずがない」
「昔できたことと、現在の状態は別です。今後は治療を受けながら、安全な生活環境を整える必要があります」
征一郎は脳の画像を手に取り、黒と白の影を何度も見比べた。どこが悪いのか説明されても、病気になったという言葉だけが耳へ残った。机の端には、検査で使った鉛筆と、征一郎が描いた時計の絵が置かれていた。数字は十二まで書かれていたが、針は指定された時刻とは違う場所を指していた。
「では、私が灰街へ行ったのも、娘たちへ会社を分けたのも、病気のせいなのか」
「すべてを病気だけで説明することはできません」森川医師は画像を机へ戻した。
「症状がいつ始まったのか、正確な日付は決められません。しかし、何年も前の暴言、解雇、不正の隠蔽まで認知症のせいにすることはできません」
「病人に責任を負わせるのか」
「病気の人にも権利があります。同時に、過去の行為で傷ついた人の権利もあります。治療と責任は、どちらか一方を選ぶものではありません」
征一郎はカーディガンの釦を一つ外し、また留め直した。診断を受ければ、これまでの判断がすべて病気として処理されると思っていたわけではなかった。それでも、医師から明確に否定されると、逃げ込もうとしていた扉を閉められたように指先が止まった。澪は父へ手を伸ばさず、自分の膝の上で両手を組んでいた。
「澪、お前が私の後継者になれ」征一郎は森川医師ではなく、娘へ顔を向けた。
「今、その話をするのですか」
「麗華も美冬も黒瀬に利用された。航は追放され、宗一も監査役を解任された。天城を任せられるのはお前しかいない」
「私は勘当された娘です」
「勘当は取り消す。私の株も議決権も、お前へ譲る」
「それを受け取れば、私はあなたを許したことになるのですか」
「家族なら、会社を守るのが当然だ」
澪は鞄から小さな弁当箱を取り出した。中には自分で握った塩むすびが二個と、少し焦げた卵焼きが入っていた。朝から病院へ来るため、奈々と事務所で食べるはずだった昼食だった。征一郎は黄金色の卵焼きを見つめたが、澪は蓋を閉め、鞄へ戻した。
「私は、株と引き換えに謝罪を受け取るつもりはありません」
「天城の株がどれほどの価値を持つか、分かっているのか」
「分かっています。だから受け取りません」
「金も地位もいらないというのか」
「欲しくないのではありません。あなたから渡されるものと引き換えに、過去を黙る取引をしないと言っているのです」
「これは取引ではない。父親から娘への相続だ」
「では、なぜ謝る前に株の話をするのですか」
征一郎は口を開いたまま、答えを出せなかった。これまで彼は、怒った相手へ金や役職を与え、それで問題を終わらせてきた。家族にも同じ方法が通じると思い、麗華と美冬には株を分け、澪には後継者という最大の席を差し出そうとしていた。だが澪が求めているものは、役員会の決議でも、株式の数字でもなかった。
「では、どうすればいい。謝ればよいのか」
「謝罪は必要です。でも、謝れば戻ると思わないでください」
「私は病気なのだぞ」
「治療は受けてください。生活も支えます。それでも、あなたがしたことは消えません」
「父親にそこまで言うのか」
「父親だから言っています。ほかの誰かなら、私は依頼を受けて法廷で話します」
奈々が膝の上の封筒を持ち上げた。長く保管されていた紙には、古い倉庫と湿気の匂いが染みついていた。封筒の中から取り出した死亡報告書は端が黄ばみ、黒いインクで「機械設備の誤作動による不慮の事故」と記されていた。最後の頁には、天城征一郎という署名と会長印が残っていた。
「これを見てください」奈々は報告書を征一郎の前へ置いた。
「何の書類だ」
「私の兄が亡くなった事故の報告書です」
「事故の処理は担当部署へ任せていた」
「最後の署名は、あなたのものです」
「一日に何十枚も書類が回ってきた。すべての内容を覚えているはずがない」
「兄は一人しかいませんでした」
奈々の声は大きくなかった。けれど、報告書を押さえる指は白くなり、爪の跡が紙へ残りそうだった。兄は青い弁当箱を毎日工場へ持っていき、給料日の帰りには母親の好きなアジの開きを買っていた。事故の朝も、食卓に残っていた卵焼きを一つつまみ、「今夜は早く帰る」と言って家を出た。
「会社から最初に来た連絡は、兄が無断欠勤しているという話でした」奈々は征一郎の署名を指で示した。
「母は兄の携帯へ何度も電話し、三日間、玄関の灯りを消さずに待ちました」
「私は、そのような報告を受けていない」
「この書類には、事故の当日に死亡したと書かれています。会社は知っていた。あなたも署名した。それなのに遺族には知らせなかった」
「担当者を調べさせる」
「また誰かの責任にするのですか」
征一郎は報告書を手に取った。署名は間違いなく自分の筆跡であり、会長印にも見覚えがあった。余白には「公表による企業価値への影響を考慮し、内部処理とする」と書かれていた。その横にも、征一郎が了承したことを示す小さな印が押されていた。
「覚えていない」
「兄が帰ってこなかった日を、私たちは一日も忘れていません」奈々は封筒から一枚の写真を出した。
「あなたにとっては、覚えていない書類の一枚です。でも、私たちの家では、この日から食卓の椅子が一つ空いたままです」
「奈々さん」澪が名前を呼ぶと、奈々は一度目を閉じた。
「大丈夫です。今日は逃げずに言うと決めてきました」
写真には、作業服を着た奈々の兄が、青い弁当箱を手に笑っていた。征一郎は顔を見つめたが、記憶のどこにもその人物を見つけられなかった。灰街で会った早川、野崎、清水と同じように、天城の建物で働き、自分を遠くから見ていた者の一人だった。征一郎は写真へ手を伸ばしかけたが、奈々は渡さずに胸元へ戻した。
「謝れば、許してもらえるのか」
「その質問を、私にしないでください」奈々は報告書だけを机へ残した。
「兄はもう、許すとも許さないとも言えません」
「では、私はどうすればいい」
「それを考えるのは、あなたです。私たちへ答えを作らせないでください」
診察室の時計が正午を告げた。廊下では食事を運ぶ台車が通り、蓋の下から煮魚と温かいご飯の匂いが入ってきた。征一郎は朝に残した白粥を思い出し、食べ物を捨てることと、人間を数字の外へ捨てることが、頭の中で重なった。どちらも、自分には次があると思っていたからできたことだった。
「澪、お前は私を嫌っているのか」
「今、大切なのは私に嫌われたかどうかではありません」
「娘に嫌われたまま生きろというのか」
「私の機嫌を取るために謝らないでください」
「ならば、誰に謝ればいい」
「帰ってこなかった人たちと、待ち続けた家族に向き合ってください」
澪は死亡報告書を征一郎の前へ押し戻した。株式の譲渡書ではなく、まずこの一枚を読んでほしかった。征一郎は眼鏡をかけ直し、一行目からゆっくり読み始めた。途中で視線を逸らしかけると、澪が父の名前を呼んだ。
「お父さん、最後まで読んでください」
「文字が小さい」
「読み上げましょうか」
「いや。自分で読む」
「では、待ちます」
「どれほど時間がかかってもか」
「帰りを待った家族の時間より、長くはなりません」
征一郎は黙って文字を追った。病気のために同じ行へ何度も戻り、指で文章をなぞらなければ先へ進めなかった。奈々は急かさず、冷めた番茶を一口飲んだ。澪も弁当箱を開けず、父が最後の頁へたどり着くまで向かいの椅子に座っていた。
「私の署名だ」征一郎は最後の頁で指を止めた。
「はい」
「私は、この処理を認めた」
「はい」
「覚えていなくても、私がしたことなのだな」
「そうです」
征一郎は報告書を閉じず、机の上へ広げたままにした。認知症という診断書で覆っても、紙に残った署名は消えなかった。澪の株を譲るという言葉でも、奈々の家に空いた椅子は埋まらなかった。謝罪は過去を元へ戻す魔法ではなく、逃げずに事実を見るための入口でしかなかった。
「奈々さん」征一郎は写真を抱く女性の名前を呼んだ。
「何ですか」
「あなたの兄の名前を、教えてほしい」
「名前を聞いて、どうするのです」
「覚える。忘れたら、もう一度聞く。それしか今の私には言えない」
「小野寺直人です」
「小野寺……直人」
「間違えないでください」
「紙に書いてもらえるか。今度は、名前のない数字にしたくない」
奈々はすぐには動かなかったが、やがて報告書の余白へ兄の名前を大きく書いた。征一郎はその文字を指でなぞり、声に出して二度読んだ。澪は父を褒めず、許したとも言わなかった。診察室には消毒薬と冷めた番茶の匂いが残り、廊下では昼食を配る食器の音が続いていた。
「株の話は、もうしないでください」澪は鞄を持って立ち上がった。
「お前へ譲るつもりは変わらない」
「譲るなら、被害を受けた人への補償に使ってください。私への謝罪の品にはしないで」
「それでも、私はお前の父親だ」
「はい。だから治療には付き添います。でも、後継者にはなりません」
「いつか許すと言ってはくれないのか」
「未来の約束より、今日、この報告書から目を逸らさないでください」
澪と奈々が診察室を出たあとも、征一郎は机に残った。森川医師は報告書を取り上げず、昼食の時間になったことだけを伝えた。征一郎は小野寺直人という名前を何度も口の中で繰り返し、病衣のポケットへ入っていた検査用の鉛筆を取り出した。忘れないために、死亡報告書の裏へ自分の手でもう一度、その名前を書いた。




