第13話 ホワイト企業ランキング
第13話 ホワイト企業ランキング
青葉総合医療センターへ入院して八日目の朝、征一郎は病室のテレビを見ながら白粥を食べていた。薄い青色の病衣の上には灰色のカーディガンを羽織り、窓辺には洗った靴下が一足、看護師の許可を得て小さな物干しへ掛けてあった。朝食には白粥、塩分を控えた味噌汁、ほうれん草のおひたしが並び、梅干しは半分だけ添えられていた。征一郎が味噌汁を一口飲んだところで、画面に金色の文字が大きく表示された。
『新卒で入りたいホワイト企業ランキング、第一位は天城グループです』
若い司会者が笑顔で発表すると、天城グループ本社の映像へ切り替わった。磨かれた玄関、観葉植物の並ぶ休憩室、無料の飲み物が置かれた社員食堂が映り、白いシャツを着た社員たちが楽しそうに昼食を取っていた。続いて黒瀬が壇上へ現れ、紺色のスーツの釦を留めて深く頭を下げた。背後には「社員の幸福を第一に」という標語が掲げられていた。
「天城グループでは、社員を家族と考えています。誰もが安心して挑戦できる職場を、これからも作ってまいります」黒瀬が話すと、会場から拍手が起こった。
「平均年収、休暇取得率、勤続年数、福利厚生のすべてで高い評価を獲得しました」司会者が補足した。
「社員を家族だと?」征一郎は匙を止め、味噌汁の表面を揺らした。
「その言葉を、あなたもよく使っていたそうですね」朝の回診へ来た森川医師が答えた。
征一郎は反論せず、テレビの音量を上げた。画面には若い社員への取材が映り、「残業はほとんどありません」「上司が親身に相談へ乗ってくれます」という声が続いた。社員の着ている作業服には汚れ一つなく、撮影用に用意された机には新しい文房具と花の鉢が置かれていた。灰街の食堂で見た早川の擦れたポロシャツ、清水の左右で形の違う靴、真鍋の機械油が染みた作業着は、どこにも映っていなかった。
「この順位は、いつ決まった」
「私は医師なので分かりません。ただ、映像を見る限り、入院中の患者さんが興奮する内容ですね」
「天城が第一位なら、灰街にいた者たちは何なのだ」
「それを考えるのは、私ではなく天城さんです」
「私は会長職を奪われた」
「役職を失っても、過去まで誰かに奪われたわけではありません」
森川医師が病室を出ると、征一郎は残った白粥を口へ運んだ。テレビでは天城グループの社員食堂が紹介され、焼きたてのパン、ローストビーフ、色鮮やかな果物が一皿五百円で提供されると説明していた。征一郎は百円パンを真鍋と分けた日のことを思い出し、梅干しを白粥へ崩した。華やかな食事が並ぶ画面の隅には、「対象は本社正社員のみ」と小さな文字が三秒だけ表示されていた。
午前十一時、澪と奈々が病室を訪れた。澪は白いブラウスに紺色のパンツを合わせ、奈々は薄茶色のジャケットの下へ黒いワンピースを着ていた。澪の鞄には法律事務所で作った資料が入り、奈々は保温容器へ野菜スープを入れて持ってきていた。蓋を開けると、人参と玉葱を煮込んだ匂いが病室へ広がった。
「病院食が出るのに、なぜスープを持ってきた」
「私たちの昼食です。お父さんの分ではありません」澪が言った。
「少しくらい分けてもいいでしょう」奈々は紙コップを三つ取り出した。
「医師へ確認してからにしろ」
「病院の決まりを守るようになったのですね」
「塩分が高ければ、また白粥が増える」
奈々はナースステーションで確認し、征一郎の分だけ湯で薄めて戻ってきた。三人がスープを飲んでいる間も、テレビではホワイト企業ランキングの特集が続いていた。征一郎が何度も画面へ目を向けるため、澪は机の上へ資料を広げた。表紙には「天城グループ従業員満足度調査に関する内部資料」と記されていた。
「この順位は不正に作られた可能性があります」澪は調査対象者の一覧を父へ見せた。
「平均年収も休暇取得率も、数字そのものは嘘ではありません。ただし、対象になっているのは本社の正社員だけです」
「工場や配送部門はどうした」
「子会社、契約社員、派遣社員として集計から外されています。生活信用指数が低い社員も、回答対象から除外されています」
「都合の悪い人間を消してから、平均を出したのか」
「それだけではありません。航が、ランキングを運営する調査会社への送金記録を見つけました」
澪が携帯端末を机へ置くと、航の顔が画面に現れた。灰街の簡易宿泊所から接続しているため映像は暗く、背後には傷のついた机と、針金のハンガーへ掛けた黒い靴下が見えた。机の端には食べかけのカップ麺があり、伸びた麺が汁を吸って膨らんでいた。航は周囲の音を確認してから、小さな声で話し始めた。
「ランキング調査会社へ、天城広報企画から三千万円が支払われています。名目は企業ブランド改善の助言料です」
「三千万円で一位を買ったというのか」征一郎が尋ねた。
「順位を直接買ったと書かれた記録はありません。ただ、支払いのあとに評価方法が変わっています」
「どう変わった」
「離職率の高い子会社を対象から外し、本社の福利厚生を重く採点する方式です。さらに、社員アンケートの回答者も天城側が選んでいます」
「黒瀬が命じたのか」
「承認者は黒瀬です。でも、この方法自体は以前から使われています」
航は画面へ古い決裁書を表示した。五年前の日付が記され、当時の会長承認欄には征一郎の署名があった。内容は「企業イメージ向上のための調査対象最適化」とされ、非正規社員や赤字子会社を統計から除外することが認められていた。征一郎は眼鏡をかけ直し、自分の署名を確かめた。
「私は、ランキングを買えとは命じていない」
「『最適化』という言葉で承認しています」航が答えた。
「その説明をした担当者は誰だ」
「また、担当者の責任にするのですか」
「内容を正しく説明されなければ、判断できない」
「説明を聞かずに署名したなら、そのことへの責任があります」
征一郎は端末から顔を背け、窓辺の靴下を見た。昨日、片方を床へ落とし、看護師に拾ってもらったとき、礼を言うまで数秒かかった。小さなことでも、自分でできない暮らしには、誰かの手と名前が必要だった。会社では何万人もの暮らしに関わる書類へ署名しながら、その数字の後ろにいる人間を見ようとしなかった。
「現在の社員は、全員満足しているのか」征一郎が尋ねた。
「いいえ。回答を拒否した社員の記録もあります」航は新しい資料を開いた。
「低い評価をつけた社員は、生活信用指数を下げられ、住宅ローンや社宅の審査で不利になっています」
「会社への評価と、生活信用指数を結びつけたのか」
「黒瀬は住民データだけでなく、社員の健康診断、家族構成、借金まで利用しています」
「証拠はあるのか」
「集めています。だから、まだ黒瀬には動きを知られたくありません」
通信が切れると、病室にはテレビの明るい声だけが残った。画面では新入社員三人が白い会議室に座り、天城グループを選んだ理由を答えていた。中央の若い女性は「意見を自由に言える社風に魅力を感じました」と話していたが、膝の上で両手を強く握り、爪の先が白くなっていた。映像が切り替わる直前、撮影者の後ろに立つ上司へ視線を向けていた。
「この女性へ会えないか」征一郎は画面を指さした。
「今のあなたが会えば、会社側に利用されます」澪が答えた。
「元会長が社員の話を聞くことに、何の問題がある」
「話を聞いたあとで、すぐ命令しようとするでしょう」
「不正な圧力があるなら撤回させる」
「あなたには、もう命令する権限がありません」
「では、何をしろというのだ」
「命令ではなく、証言を集めてください。相手が話し終えるまで、黙って聞くのです」
征一郎は野菜スープの紙コップを持ち上げた。底には柔らかくなった人参が一つ残り、傾けても縁へ引っかかって落ちてこなかった。匙を使えばよいのに、征一郎は何度も紙コップを振った。奈々が小さな匙を渡すと、征一郎は礼を言い、残った人参を食べた。
「証言を集めれば、天城を取り戻せるのか」
「まだ会社の話をするのですか」奈々が紙コップの蓋を閉じた。
「不正を明らかにするには、目的が必要だ」
「会社を取り戻すためではなく、追い出された人の記録を戻すためでは駄目ですか」
「会社がなくなれば、補償もできない」
「会社を残すことと、あなたが王座へ戻ることは別です」
「私には経営の経験がある」
「その経験で作ったランキングが、これでしょう」
奈々は机の資料を指でたたいた。征一郎は反論しようとしたが、自分の署名がある決裁書を見て口を閉じた。テレビでは第一位を祝う金色の紙吹雪が舞い、黒瀬が若い社員と握手していた。画面の中の天城グループは白く輝き、灰街の雨も、閉鎖工場の錆びた鎖も映していなかった。
同じ日の午後、天城グループ本社では、ランキング第一位を祝う特別昼食会が開かれていた。社員食堂には白いクロスが掛けられ、ローストビーフ、海老のサラダ、苺のケーキが並んでいた。黒瀬は濃紺のスーツに銀色のネクタイを合わせ、若い社員たちの前でシャンパンの杯を掲げた。壁には「日本一、社員を幸せにする会社」と書かれた横断幕が張られていた。
「皆さんの努力が、今回の一位につながりました。私は皆さんを誇りに思います」黒瀬が言うと、社員たちは拍手した。
「アンケートへ協力してくださった方には、特別評価を加えます」
「回答しなかった社員はどうなりますか」後ろの席から、若い男性が尋ねた。
「回答は自由です。ただし、会社への協力姿勢は人事評価の対象になります」
「それは自由と言えるのでしょうか」
「会社を信じられない方に、天城で働き続けていただく必要はありません」
男性の隣に座っていた女性が、テーブルの下で彼の袖を引いた。皿には手をつけていないローストビーフが残り、ソースの表面に脂が固まり始めていた。黒瀬は笑顔を崩さず、人事部長へ目を向けた。人事部長は男性の社員番号を手帳へ書き込み、その頁の角を折った。
夕方、澪の法律事務所へ匿名の封筒が届いた。中には社員食堂で撮影された映像と、アンケートへ低い評価をつけた社員の異動予定一覧が入っていた。封筒からは香水とローストビーフのソースが混じった匂いがし、紙の端には赤茶色の染みがついていた。奈々が映像を再生すると、昼食会で質問した男性の名前が、灰街倉庫への異動者一覧に記載されていた。
「ランキング発表の日に異動を決めています」奈々は画面を拡大した。
「灰街倉庫は、去年閉鎖されたはずです」
「存在しない職場へ異動させ、出勤できなかったことにするつもりね」澪は一覧を複製し、原本を耐火金庫へ入れた。
「公表しますか」
「まだよ。送った社員の安全を確保しなければならない」
「黒瀬が先に消すかもしれません」
「だから今夜、航へデータを渡します。真鍋さんにも、灰街で受け入れられる場所がないか相談する」
澪は匿名の社員へ返事を書くため、便箋を一枚取り出した。相手の名前も連絡先も分からないため、会社内の相談用掲示板へ暗号を使って掲載することにした。奈々は冷蔵庫から朝の残りの卵サンドを取り出し、乾いた端を包丁で切り落とした。捨てようとすると、澪が自分で食べると言って皿へ戻した。
「乾いていますよ」
「食べられるわ。灰街では、賞味期限の近いパンを二人で分けていた」
「お父さんから聞いたのですか」
「真鍋さんからよ。父は百円のパンへ、焼きたてはないのかと言ったそうよ」
「いかにも言いそうですね」
「でも、残りは捨てずに持っていたって」
「それだけで変わったとは思いません」
「私もよ。ただ、変わるなら、小さなところからしか始まらないでしょうね」
夜、澪は病院へ戻り、匿名で届いた社員の異動一覧を征一郎へ見せた。征一郎は老眼鏡をかけ、名前を一人ずつ声に出して読んだ。途中で読み飛ばそうとすると、澪が最初の行へ指を戻した。ランキングの数字ではなく、そこから除外された者の名前を覚えることが、今の征一郎にできる仕事だった。
「この者たちは、私に会うだろうか」
「あなたが会長として命令するなら、会わないでしょう」
「では、何者として会えばいい」
「決裁書へ署名した天城征一郎としてです」
「謝れば証言してくれるのか」
「見返りを求める謝罪なら、しないほうがましです」
「相手が何も返さなくても、聞けというのか」
「それが、向き合うということです」
征一郎は一覧の最後まで読み、紙を閉じずに膝の上へ置いた。テレビにはまだホワイト企業第一位の金色の印が表示されていた。征一郎はリモコンを取り、初めて自分の意思でその番組を消した。暗くなった画面には、病衣を着て書類を抱える老人の姿だけが映った。
「このランキングから外された者を、全員調べる」
「命令ではありませんよ」澪が念を押した。
「分かっている。私が読む」
「途中で忘れたら?」
「もう一度、最初から読む」
「会社を取り戻すためではありませんね」
「今はまだ、そう言い切る自信がない。だが、少なくとも第一位を祝う気はない」
澪はその答えを褒めず、机の上へ鉛筆と新しいノートを置いた。征一郎は一頁目に、ランキングから除外された社員の名前を書き始めた。廊下から夕食の焼き魚と味噌汁の匂いが入り、窓辺の靴下は冷房の風で静かに揺れていた。日本一白い会社と称賛された天城グループの影では、その白さを作るために消された名前が、灰街まで長く続いていた。




