第14話 誠意を尽くして賠償したら総額は
第14話 誠意を尽くして賠償したら総額は
翌朝、征一郎の病室には、灰色の雲から差し込む弱い光が広がっていた。窓辺に干した靴下はまだ乾かず、洗濯ばさみの先から小さな水滴が落ちていた。朝食には白粥、豆腐の味噌汁、鶏肉と里芋の煮物が並び、征一郎は煮物の人参だけを最後まで残していた。食事を終えると、前夜から書き続けた社員の名前を確認し、鉛筆の先を小さな鉛筆削りへ差し込んだ。
「お父さん、今日は長い話になります」澪が病室へ入り、大きな鞄を机の上へ置いた。白いブラウスに灰色のジャケットを合わせ、肩までの髪を後ろで一つに束ねていた。
「毎日、長い話ばかりではないか」
「あなたが何十年も積み残した話を、数日で聞いているのです」
「今日は何人分だ」
「人数だけではありません。払わなかったお金について話します」
奈々と航も病室へ入ってきた。奈々は黒いワンピースの上へ紺色のカーディガンを羽織り、兄の死亡報告書を入れた茶封筒を抱えていた。航は黒いパーカーに色あせたジーンズを着て、灰街で集めた記録を保存した小型端末を持っていた。奈々が持参した保温容器を開けると、牛蒡と鶏肉を煮た匂いが消毒薬の匂いへ混じった。
「昼食には早いぞ」征一郎が容器を見た。
「昨日の炊き込みご飯です。朝、事務所で食べる時間がなかったので持ってきました」
「冷めているのではないか」
「冷めても食べられます。賞味期限の近い百円パンを食べた人が、文句を言わないでください」
「一度食べただけで、ずいぶん長く使われるのだな」
「一度も食べたことがなかった人だからです」
航は病室の小さな机へ端末を置き、澪が用意した資料を順番に並べた。解雇された社員の名簿、未払い賃金の記録、労働災害の報告書、売買された住民データ、生活信用指数によって住居を失った人々の一覧があった。紙の端には付箋が幾重にも貼られ、奈々が夜中に飲んだコーヒーの丸い染みも残っていた。征一郎は資料の厚さを見て、病衣の胸元を指で整えた。
「これを全部、私に読めというのか」
「最終的には読んでもらいます。今日は賠償額の試算を説明します」澪が椅子へ座った。
「弁護士が算出したのか」
「弁護士、会計士、医師、社会保険労務士、被害者支援団体が協力しました」
「被害者本人の希望は聞いたのか」
「聞き取りができた人については。亡くなった人や所在を確認できない人は、資料に基づく暫定額です」
「会社を潰すような数字を出されても払えないぞ」
「まだ金額を聞いてもいないのに、なぜ最初に払えないと言うのですか」
征一郎は黙り、机の端に残っていた朝食の番茶を飲んだ。茶はすでに冷え、表面には小さな茶葉が一枚浮いていた。以前なら新しいものへ取り替えさせていたが、今は何も言わずに飲み干した。航は最初の資料を画面へ表示した。
「最初は不当解雇と賃金の切り下げです。対象者は一万二千八百四十六人。解雇後の収入減少、退職金の不足、再雇用時に減らされた賃金を合計すると、千三百六十二億円です」
「一人当たりで計算し直せ。高すぎる者がいるはずだ」
「一人ずつ計算しています。早川さんの場合、正社員として働き続けた場合との差額は、退職金を含めて二千四百八十万円です」
「早川……灰色のポロシャツの男か」
「覚えていたのですね」
「名前を聞いたのだから、忘れるわけにはいかん」
航は次の項目を開いた。労働災害を隠された者は二千百九人で、治療費、休業損害、後遺障害への補償を合わせると八百七十四億円になった。死亡事故は百六十三件あり、遺族へ支払うべき補償と、長年事実を隠したことへの加算を含めて四百九十一億円と算定された。奈々は兄の名前がある頁を開き、征一郎の前へ置いた。
「小野寺直人。私の兄の分は、二億四千万円と書かれています」
「その金額でよいのか」
「よいわけがないでしょう」奈々の指が報告書の角を押さえた。
「二億四千万円をもらっても、母の台所へ兄は戻ってきません。青い弁当箱を持って『行ってきます』と言う朝も戻りません」
「ならば、金額を決める意味は何だ」
「お金で命を買い戻すためではありません。会社がしたことを、無かったことにさせないためです」
「受け取らないという選択もあるのか」
「あります。受け取るかどうかを決めるのは、あなたではなく遺族です」
征一郎は小野寺直人の名前を二度読み、資料の余白へ自分の手でも書いた。認知症の症状があるため、途中で「直」の字を思い出せず、奈々の書いた名前を見直した。奈々は教えようと手を伸ばしかけたが、征一郎が自分で書き終えるまで待った。完成した文字は震え、縦線が少し曲がっていた。
「次は、住民データの違法売買です」澪が別の資料を開いた。
「対象者は、分かっているだけで九万七千三百二十一人。個人情報の漏洩、生活信用指数の不正操作、それによる住宅契約や就職機会の喪失を合わせ、千百九十八億円です」
「九万人以上もいるのか」
「灰街だけではありません。天城の情報サービスを利用した地域へ広がっています」
「一人ずつ被害が違うだろう」
「だから最低額を一律で払ったうえで、住宅を失った人、仕事を失った人、医療を受けられなかった人には個別に上乗せします」
「端末の判断で追い出された母子も入っているのか」
「入っています。母親の名前は吉岡紗江、息子は悠斗です」
「赤いランドセルの子だ」
「覚えていたのですね」
「葡萄パンを半分にしていた」
澪は一枚の写真を父へ見せた。支援団体の一時宿泊所で、紗江と悠斗が小さな机を囲み、カレーライスを食べていた。悠斗は赤いランドセルを椅子の背へ掛け、皿の人参を母親の皿へ移していた。征一郎は人参を残した自分の朝食を思い出し、空になった食器を見た。
「住居へ戻せたのか」
「元の部屋には別の人が入っています。今は一時宿泊所です」
「新しい部屋を用意しろ」
「命令ではなく、補償制度として用意します。一組だけを特別扱いして、あなたが救ったことにはできません」
「では、追い出された者全員へ住居を用意する」
「そのための費用が、次の項目です」
住宅を失った世帯は一万八百四十二世帯あり、家賃補助、転居費用、保証金、失った家財の補償を合わせて六百三十七億円と算定された。生活信用指数によって医療を制限された者への治療支援、倒産へ追い込まれた小規模業者への補償、違法な高金利融資の返還も加わった。航が項目を読み上げるたび、机の上に新しい資料が重ねられた。
「まだあるのか」
「会社がホワイト企業ランキングへ使った三千万円も返還対象です」航が答えた。
「三千万円など、今までの数字に比べれば小さい」
「その三千万円で作った虚偽の評価を信じ、入社した人がいます」
「ランキングを見て就職先を決めるのか」
「若い人は、会社の中を見ることができません。公開された数字や社員の声を信じるしかないんです」
「私も、会議へ出された数字を信じていた」
「あなたには、詳しい資料を出させる権限がありました。入社前の学生と同じではありません」
征一郎は何も言わず、窓辺の靴下へ目を向けた。冷房の風で揺れていたが、踵の部分はまだ湿っていた。誰かに洗わせればすぐ替えが届いた暮らしと違い、今は乾くまで待たなければならなかった。会社から切り捨てられた者も、次の仕事や住居が都合よく届くわけではなかった。
「総額を言え」征一郎は両手を膝へ置いた。
「まだ暫定額です」澪が答えた。
「構わん。今分かっている金額を言え」
「直接補償、未払い賃金、治療費、住宅支援、遺族への支払い、データの回収と削除、再発防止に必要な費用を合わせます」
「いくらだ」
「四千九百八十七億六千万円です」
病室から音が消えた。廊下では昼食を運ぶ台車が通り、食器の蓋が触れ合って小さな音を立てていた。保温容器の炊き込みご飯は冷め、表面の牛蒡が乾き始めていた。征一郎は四千九百八十七億六千万円という数字を、口の中でゆっくり繰り返した。
「天城グループの現金だけでは払えない」
「そうでしょうね」
「工場や事業を売れば、また社員が職を失う」
「だから第三者委員会と被害者委員会に、支払い方法を決めてもらいます」
「私の個人資産を使え」
「どこまで出すつもりですか」
「天城の株、自宅、別荘、絵画、預金を売る」
「全財産ですか」
「治療と生活に必要な分は残す。そこまで捨てれば、また誰かの世話になる」
「それを判断するのも、あなた一人ではありません」
征一郎は眉を寄せた。すべてを差し出すと言えば、それが最大の謝罪になると思っていた。しかし澪は、父が勢いで決めることを許さなかった。認知症の診断を受けた人間の財産処分には、医師や法定代理人の確認が必要であり、被害者が望む補償の形も一人ずつ違っていた。
「金を出しても駄目、謝っても戻らない。では、誠意とは何だ」
「自分が満足する金額を払うことではありません」澪は資料を閉じなかった。
「被害を受けた人が何を失ったのか聞き、その人が望む方法で、払える限り払い続けることです」
「一度で終わらないのか」
「終わる日を決めるのは、あなたではありません」
「死ぬまで払えというのか」
「会社が続く限り、必要ならあなたが亡くなったあとも続けます」
奈々は炊き込みご飯を三つの小さな器へ分けた。征一郎の分は病院の許可を得ていないため、蓋をしたまま残した。牛蒡と鶏肉の匂いを嗅いだ征一郎は、自分の昼食が届く時間を時計で確認した。以前なら高級料理を並べながら数千億円の決裁をしていたが、今は塩分を管理された煮魚を待ちながら、払わなかった賃金を聞いていた。
「四千九百八十七億六千万円で、全員が納得するのか」
「しません」奈々が答えた。
「では、この計算は無駄ではないのか」
「納得できないことと、支払わなくてよいことは別です」
「小野寺直人さんの分も払わせてくれ」
「母と相談します。受け取るかどうかは、私たちが決めます」
「私は何をすればいい」
「まず、死亡報告書の隠蔽を認めてください。公表されても、病気や部下のせいにしないでください」
「私の署名がある。私が承認した」
「その言葉を、記録してもいいですか」
「ああ」
航は小型端末の録音を開始した。征一郎は病衣の襟を整え、カメラではなく、奈々が持つ兄の写真へ顔を向けた。言葉に詰まるたび、澪は答えを教えずに待った。奈々も赦しの言葉を与えず、征一郎が自分で続けるのを待った。
「天城グループで発生した小野寺直人さんの死亡事故について、私は報告書を読み、隠蔽を承認しました。覚えていないことを理由に、署名した責任から逃げません」
「ほかの被害者についてはどうしますか」航が尋ねた。
「名前と被害を確認する。会社の都合ではなく、本人や家族の話を聞く」
「賠償総額が会社の価値を上回ったら?」
「それでも、数字を小さくするために人を除外しない」
「会長へ戻るためですか」
「違うと言いたい。だが、まだ会社を手放せない気持ちが残っている。それも隠さない」
録音が終わると、征一郎は椅子の背へ体を預けた。額には汗がにじみ、病衣の袖口を何度も指で折っていた。澪は水を差し出したが、父を褒めなかった。奈々も兄の写真を封筒へ戻し、静かに口を閉じた。
「四千九百八十七億六千万円」征一郎はもう一度言った。
「私が会議で見ていた数字より重い」
「紙に書けば、同じ数字です」澪が答えた。
「何が違う」
「今は、一人ずつ名前がついているからです」
昼食の台車が病室の前で止まり、看護師が煮魚、麦飯、白菜の和え物を運んできた。征一郎は食事の蓋を開ける前に、新しいノートを取り出した。一頁目に四千九百八十七億六千万円と書き、その下へ早川、野崎、清水、小野寺直人、吉岡紗江、吉岡悠斗と記した。誠意を数字で示そうとすれば、会社が傾くほどの総額になったが、数字だけを払っても、帰らなかった人も失われた年月も戻らなかった。
「澪、この金額を減らす方法はあるか」
「被害者を切り捨てれば減ります」
「それは、もうしない」
「では、減らすことではなく、どう払うかを考えましょう」
「最後まで払える保証はないぞ」
「保証がなくても始めるのです。被害を受けた人たちは、何の保証もなく暮らしを奪われたのですから」
征一郎はノートを閉じず、煮魚を一口食べた。薄い味だったが、醤油を求めずに噛んだ。窓辺では、洗った靴下が午後の風に揺れ、ようやく乾き始めていた。会社の帳簿では損失と呼ばれる四千九百八十七億六千万円が、征一郎にとって初めて、人間へ返すための数字になった。




