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第15話 それで経営が成り立つのか

第15話 それで経営が成り立つのか


 四千九百八十七億六千万円という暫定賠償額が出た翌朝、征一郎は病室の机へ天城グループの決算書を広げていた。薄い青色の病衣の上へ灰色のカーディガンを羽織り、老眼鏡を鼻の先までずらして数字を追っていた。朝食の麦飯と焼き鮭は半分ほど残り、冷めた味噌汁には大根が一切れ沈んでいた。窓辺では前日に洗った靴下が乾き、看護師が取り込むのを忘れたまま朝の風に揺れていた。


「五千億円近く払えば、会社が倒れる」征一郎は決算書の頁をめくり、赤い鉛筆で数字を囲んだ。

「天城の連結営業利益は年間七百二十億円しかない。単純に計算しても、七年分の利益が消える」

「一度に全額を払うとは決めていません」白いブラウスに紺色のジャケットを着た澪が答えた。

「払えない約束をすれば、それも新しい嘘になる。経営を知らない者が、誠意だけで数字を決めるな」

「だから今日は、経営を成り立たせながら払う方法を話し合います」


 澪は病室の長机へ資料を並べた。奈々は黒いワンピースの上へ薄茶色のカーディガンを羽織り、昨夜作ったひじきの煮物を小さな保存容器へ入れて持ってきていた。航は灰色のシャツの袖をまくり、小型端末へ天城グループの資産一覧を表示した。机の隅には看護師が置いていった水差しと、征一郎が削りすぎて短くした鉛筆が三本並んでいた。


「最初に確認します。賠償額を減らすため、被害者を名簿から外す案は認めません」澪が言った。

「誰も外せとは言っていない」

「昨日まで、会社を残すには全員を救えないと言っていました」

「それは経営判断だ」

「今日から、その言葉を使うたびに、誰が負担を引き受けるのかも言ってください」

「従業員を解雇せず、事業も売らず、五千億円を作れると思っているのか」

「従業員と事業を切る前に、切るものがあります」


 航が最初に表示したのは、天城グループが所有する迎賓館、保養施設、専用飛行機、美術品の一覧だった。征一郎の本邸とは別に国内外へ十一か所の別荘があり、役員用の車は百四十八台、接待用の会員権は三百件を超えていた。使われていない迎賓館にも庭師と警備員が置かれ、年間六億円以上の維持費が支払われていた。征一郎は写真に映る海辺の別荘を見て、眉を寄せた。


「そこは海外の取引先をもてなすために必要だ」

「昨年使われたのは二日です」航が利用記録を開いた。

「建物を手放せば、雇っている者が職を失う」

「庭師と管理人には、売却後も雇用を継続する条件をつけます」

「買い手が認めるとは限らん」

「認める相手にだけ売ります。急いで安値で処分する必要はありません」

「全部売って、いくらになる」

「美術品を含め、保守的に見積もって六百八十億円です」


 次に航が開いたのは、役員報酬と株主への配当の記録だった。黒瀬を含む上位二十人の役員報酬は年間七十二億円あり、創業家と海外の大株主には毎年四百億円近い配当が支払われていた。さらに自社株買いへ五年間で千八百億円を使い、株価を上げる一方で、配送部門の正社員を非正規雇用へ切り替えていた。征一郎は配当額の欄を指でたたいた。


「株主へ利益を返さなければ、資金が逃げる」

「人を切り捨てる会社から、資金だけは逃がさないのですか」奈々が尋ねた。

「投資家が離れれば株価が下がり、会社の信用も落ちる」

「早川さんの給与が三割下がったとき、会社は信用が落ちたと考えましたか」

「一人の給与と市場全体を同じにするな」

「市場の数字は人間より大きいのですか」

「会社を存続させるには、資本が必要だ」

「働く人も必要です。ですが、そちらは何度切ってもよいと考えてきたのでしょう」


 奈々は保存容器を開け、ひじきの煮物を三つの紙皿へ分けた。征一郎にも一口だけ渡そうとしたが、病院食以外は医師の許可が必要だと思い出し、蓋を閉め直した。甘辛い醤油と油揚げの匂いだけが机へ残った。征一郎は目の前の冷めた味噌汁を見て、自分の椀を引き寄せた。


「配当を止めれば、創業家も損をする」

「それが当然です」澪は答えた。

「被害を受けていない創業家の人間まで負担するのか」

「利益を受け取ってきた人には、責任の一部があります。少なくとも、被害者より先に配当を受け取る理由はありません」

「株主総会で承認されない」

「ならば、賠償へ反対した株主の氏名と理由を公開します」

「脅すつもりか」

「自分の判断を公に説明してもらうだけです」


 航は五年間の資金計画を画面へ表示した。役員報酬の上限設定、自社株買いと配当の停止、遊休資産の売却、黒瀬が海外へ移した資金の回収、不要な広告と接待の削減を行えば、最初の三年間で二千百億円を賠償基金へ入れられる。残額は二十年間に分け、利益の一定割合を支払い続ける計画だった。通常業務に必要な設備投資と従業員の給与は、先に確保されていた。


「二十年も利益を払い続ければ、成長できない」征一郎が言った。

「成長とは何ですか」航が尋ねた。

「売上を増やし、事業を広げ、企業価値を上げることだ」

「給与を下げ、事故を隠し、個人情報を売って大きくなることも成長ですか」

「それは黒瀬がしたことだ」

「黒瀬が来る前から、自社株買いと非正規雇用への切り替えは続いています。決裁書には会長の署名があります」

「また私の署名か」

「署名した書類が多すぎて、嫌になりますか」

「私が署名しなければ、会社は動かなかった」

「だから責任も大きいのです」


 征一郎は老眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。朝から何度も同じ数字を読んだため、文字が二重に見えていた。森川医師からは疲れたら休むよう言われていたが、休むと言えば澪たちが資料を閉じて帰ってしまいそうだった。征一郎は水差しから自分で水を注ぎ、少しこぼれた水を病衣の袖で拭いた。


「会社の従業員は、この計画に賛成するのか」

「まだ意見を聞いていません」澪が答えた。

「経営陣だけで決めるのではないのか」

「被害者、現在の従業員、取引先、地域住民から代表者を出してもらいます」

「素人を経営へ入れれば、判断が遅くなる」

「速く決めた結果が、四千九百八十七億六千万円の被害です」

「全員の話を聞いていたら、一つの設備を買うのにも何か月もかかる」

「全員一致を求めるのではありません。ただ、決定によって暮らしを失う人へ、決める前に説明する仕組みを作ります」

「拒否されたらどうする」

「別の方法を考えます。それが経営です」


 病室の扉が開き、真鍋と早川が入ってきた。真鍋は煤けた緑色の作業着を着て、早川は灰色のポロシャツの上へ古い紺色の上着を羽織っていた。二人は灰街の食堂で理恵が握った塩むすびを紙袋へ入れて持っていた。袋からは海苔と胡麻の匂いがし、底には味噌汁が少し漏れた丸い染みができていた。


「従業員の意見を聞きたいと言ったそうですね」真鍋が椅子へ座った。

「お前たちは元社員だ」

「切り捨てられた側の意見は、現在の経営にも必要でしょう」

「会社を憎んでいる者が、公平に判断できるのか」

「会社を愛していると言いながら利益を受け取った役員は、公平だったのですか」

「真鍋、私は口論するために呼んだのではない」

「安心しました。私は謝罪を聞くために来たのでもありません」


 早川は紙袋から塩むすびを一つ取り出し、半分に割って真鍋へ渡した。中には細かく刻んだ大根の葉が入り、胡麻油の香りがした。征一郎が見つめていると、早川は残った一つを紙袋へ戻した。看護師へ確認できたら、あとで征一郎へ渡すという。


「賠償金を払うために、現場の賃金を下げるのはやめてください」早川は膝へ両手を置いた。

「そのような計画はない」

「紙にはなくても、最後には現場へ回ってくる。昔からそうでした」

「役員報酬と配当を先に止める」

「それでも足りないときは?」

「別荘や美術品を売る」

「そのあとも足りなければ?」

「利益から二十年かけて払う」

「残業代や安全設備を削らないと、ここで約束できますか」

「約束する」

「会長でもないあなたが、どうやって守るのです」


 征一郎は答えに詰まった。今の自分には会社へ命令する権限も、口座から金を動かす権限もなかった。自分の言葉だけでは、現場の給与も安全も守れない。それでも、権限がないから何もできないと言えば、灰街の端末へ命令を拒否された夜と同じ場所へ戻るだけだった。


「私の保有株を、賠償基金へ信託する」征一郎は澪へ顔を向けた。

「議決権は被害者と従業員の代表へ預ける。私一人では使えないようにする」

「本当に分かっていますか」澪が尋ねた。

「その議決権を渡せば、あなたは二度と会社へ戻れない可能性があります」

「戻るために賠償するのではない」

「昨日は、まだ会社を手放せないと言いました」

「今も手放したくはない。だからこそ、私が握ればまた同じことをするかもしれん」

「認知症の診断を理由に、すぐ契約することはできません」

「医師と後見人と第三者に確認させろ。時間をかけても構わん」

「途中で気が変わったら?」

「そのときは、今日の録音を私に聞かせろ」


 真鍋は塩むすびを食べ終え、指についた胡麻を紙袋の上へ落とした。早川はすぐには納得せず、資金計画の中から雇用と給与を守る条項を読み直した。奈々は冷めたひじきの煮物を食べながら、補償金を受け取らない遺族の分をどう扱うか尋ねた。澪は受け取りを強制せず、医療や奨学金、事故調査の基金へ回す案を説明した。


「それで経営が成り立つのか」征一郎はもう一度尋ねた。

「以前のような経営は成り立ちません」澪は即座に答えた。

「高額な配当を出し、株価を上げ、役員が別荘を使い、損失を現場へ押しつける経営は終わります」

「利益は必要だ」

「必要です。赤字を続ければ、補償も雇用も守れません」

「ならば何が違う」

「利益を、誰から奪って作ったのかを見ることです」

「そんな経営で、競争に勝てるのか」

「人を壊さなければ勝てない競争からは、降りるべきです」


 真鍋は鞄から世界の富の偏在について書かれた報告書を取り出した。世界のごく少数の超富裕層が、数十億人分を上回る資産を持っているという調査結果が紹介されていた。征一郎は数字を読んだあと、自分には規模が大きすぎる話だと言って紙を戻した。真鍋は受け取らず、天城グループの資産一覧の横へ置いた。


「世界の格差も、最初は一つの会社の給与、一人の役員報酬、一件の解雇からできています」

「私一人が財産を出しても、世界は変わらない」

「世界を救ってくれとは言っていません。あなたの署名で奪われた分を返してくれと言っています」

「それだけでよいのか」

「それだけでも、まだできていません」


 午後になり、窓辺の靴下は完全に乾いた。征一郎は椅子から立ち上がり、自分の手で洗濯ばさみを外した。一つ目は簡単に取れたが、二つ目は固く、指へ力を入れなければ開かなかった。早川が手伝おうとすると、征一郎は首を振り、時間をかけて外した。


「会社も、この洗濯ばさみのように外せれば簡単なのだがな」

「外すのではなく、作り直すのです」早川が答えた。

「作り直して、利益が減ったら?」

「働いた人へ給料を払い、事故を減らし、賠償金も払ったあとの利益なら、少なくても本当の利益です」

「これまでの利益は、偽物だったというのか」

「払うべきものを払わずに残った金です。全部を利益と呼んでよいのでしょうか」


 征一郎は乾いた靴下を畳み、左右をそろえて病室の棚へ入れた。机には四千九百八十七億六千万円の賠償計画と、二十年間の経営再建案が並んでいた。以前と同じ配当や役員報酬は維持できず、売上も一時的に大きく落ちる。それでも従業員の給与、安全設備、取引先への支払いを先に確保すれば、会社そのものは存続できる試算だった。


「成り立たなくなるのは、会社ではないのだな」征一郎が言った。

「では、何ですか」澪が尋ねた。

「一部の人間だけが、際限なく受け取る経営だ」

「それを守るために、今まで何人を切りましたか」

「まだ数え切れていない」

「ならば、全員を数えるところから続けましょう」


 征一郎は短くなった鉛筆を持ち、資産売却の予定表へ自分の意見を書き始めた。専用飛行機は売却、迎賓館も売却、役員車は必要最小限まで減らすと記した。途中で海外の別荘の名前を思い出せず、航に資料を見せてもらった。命令ではなく、確認しながら一項目ずつ進めた。


「澪、これで本当に会社を残せるか」

「必ずとは言えません」

「弁護士なのに、保証しないのか」

「人を守りながら経営を立て直すことは、簡単ではありません。それでも、人を捨てて残る会社より、挑戦する価値があります」

「失敗したらどうする」

「隠さずに理由を話し、また方法を考えます」

「それが経営なのか」

「少なくとも、誰かに損失を押しつけて成功と呼ぶよりは」


 夕方の病室へ、白菜と鶏肉を煮た夕食の匂いが入ってきた。真鍋と早川は灰街へ戻り、奈々は空になった保存容器を鞄へしまった。航は経営再建案を暗号化して保存し、澪は原本を耐火金庫へ持ち帰る準備をした。征一郎は机に残った報告書を閉じず、世界の富の数字と、早川たちの名前を同じ頁へ書いた。


 それで経営が成り立つのかという問いに、誰も簡単な答えは出せなかった。ただ、これまで成り立っていたように見えた経営は、未払いの賃金、隠された事故、追い出された母子、百円パンを分ける元社員の暮らしの上に立っていた。その負担を会社の帳簿へ戻せば、利益は小さくなり、株主の取り分も減る。それでも征一郎は初めて、その小さくなった数字を、会社が本当に稼いだ利益として見ようとしていた。



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