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第16話 誰が四千九百八十七億六千万円を背負うのか

第16話 誰が四千九百八十七億六千万円を背負うのか


 月曜日の午前六時、天城グループ本社で経理を担当する佐藤彩香は、台所で卵焼きを作っていた。水色のブラウスに黒いスカートを着て、油のはねを避けるため、花柄の前掛けを腰へ巻いていた。食卓には夫と小学生の娘が座り、焼いたアジの開き、豆腐の味噌汁、昨夜の残りのきんぴら牛蒡を食べていた。卵焼きを弁当箱へ詰めたところで、彩香の携帯電話が何度も震えた。


「お母さん、会社から?」娘が味噌汁の葱を箸でよけながら尋ねた。

「会社の人たちの連絡よ。あなたは葱も食べなさい」

「だって、歯に挟まるもん」

「細かく切ったから大丈夫。牛乳で流し込まないで、よく噛んでね」

「お母さんも、携帯を見ながら卵焼きを食べているよ」

「……そうね。食事中は置きます」


 彩香は携帯電話を伏せたが、画面に表示された言葉は頭から消えなかった。天城グループの過去の不正に対する暫定賠償額は、四千九百八十七億六千万円。会社が二十年かけて支払う再建案が検討され、社員の給与を二割削減するという情報が、社内の連絡網へ流れていた。誰が書き始めたのか分からないが、住宅手当の廃止、賞与の停止、退職金の減額まで、決定事項のように並んでいた。


「給料、下がるのか」夫が小さな声で尋ねた。

「まだ正式な話ではないわ」

「住宅ローンは、あと二十三年ある」

「分かっている」

「うちの工場も、今月から残業が減った。君の給料まで下がったら、塾はやめてもらうしかない」

「子どもの前で話さないで」

「聞こえているよ」娘は箸を置き、赤いランドセルを見た。

「わたし、塾に行かなくても勉強するよ。だからけんかしないで」


 彩香は娘の弁当箱へ、小さな兎の形に切った人参を入れた。今朝までなら、形が少し崩れたことを気にして作り直していたが、今日はそのまま蓋を閉じた。過去の経営者が隠した事故も、不当に解雇された人々のことも、彩香はニュースで初めて知った。それでも、自分と夫と娘が食費を削り、何十年も賠償を背負うのかと思うと、弁当箱を包む指へ力が入った。


「私たちは、何もしていないのに」


 同じ日の朝、天城グループ本社の社員食堂には、出勤した社員が集まっていた。白いシャツを着た者、紺色の作業服を着た者、夜勤明けで髪を整える暇もなかった者が、冷めたコーヒーを前に社内掲示板を見ていた。普段なら焼きたてのパンが並ぶ棚には食パンが数枚残り、端の席では清掃員が前日の紙コップを一つずつ重ねていた。社員の視線は、壁に表示された黒瀬の緊急声明へ集まっていた。


「澪氏が主導する賠償案が実行されれば、社員の給与と雇用を維持することは困難です」黒瀬は濃紺のスーツに赤いネクタイを合わせ、カメラへまっすぐ顔を向けていた。

「現経営陣は、社員とご家族の生活を守るため、現実を無視した賠償案へ断固として反対します」

「五千億円を払えば、会社がなくなるぞ」

「どうして今の社員が、昔の経営陣の不正を払うんだ」

「でも、事故で亡くなった人もいるんでしょう」

「それは分かる。でも、うちの子の給食費を削って払えと言われても困るよ」


 彩香は社員たちの声を聞きながら、弁当の入った鞄を胸へ抱えた。自分の部署には、非正規社員を集計から外してホワイト企業ランキングの資料を作るよう命じられた若手社員がいた。断れば生活信用指数へ影響すると知り、泣きながら数字を修正したのも見ていた。今度は賠償を理由に給与を減らすのなら、会社はまた立場の弱い者へ負担を回すことになる。


「黒瀬専務へ聞きましょう」彩香は社員たちの前へ進んだ。

「給与を減らすと、誰が決めたのですか」

「誰が聞くんだ。人事に目をつけられるぞ」

「黙っていたら、決めたことにされます」

「生活信用指数を下げられたらどうする」

「全員で聞けば、一人だけを下げられません」


 社員たちは戸惑いながらも、彩香が作った質問書へ名前を書き始めた。最初は鉛筆で小さく書く者が多かったが、作業服を着た男性が太いペンで署名すると、その後に列ができた。質問は一つだった。四千九百八十七億六千万円を、現在働いている社員と家族の給与から支払うのか。


 その質問書は、昼前には澪の法律事務所にも届いた。澪は白いブラウスの袖を肘までまくり、机へ広げた再建計画を最初から読み直した。奈々は紺色のカーディガンを椅子の背へ掛け、冷めた蕎麦をすすりながら署名の数を数えた。窓辺には前日の雨で濡れた折り畳み傘が開いたまま置かれ、事務所には蕎麦つゆと湿った布の匂いが混じっていた。


「黒瀬が給与削減の噂を流しています」奈々が言った。

「社員を盾にして、賠償案を潰すつもりね」

「でも、社員が心配するのは当然です。二十年間も利益から払うなら、賞与や昇給へ影響するかもしれません」

「影響を完全にゼロにはできないわ」

「では、黒瀬の話にも一部は事実があるのですか」

「利益の使い道は変わる。でも、基本給や安全設備、通常の昇給を削る計画ではない」

「それを先に社員へ伝えなければ、また上から決めたことになります」

「質問した社員と直接話しましょう。元社員と被害者の代表にも来てもらいます」


 午後、天城グループの会議室ではなく、灰街の公民館で説明会が開かれた。天井の蛍光灯は一本だけ点滅し、入口には雨漏りを受けるための青いバケツが置かれていた。折り畳み机には、理恵が用意した麦茶と、半分に切った百円パンが並んでいた。現在の社員、元社員、事故の遺族、下請け業者、灰街の住民が、同じ部屋で向かい合った。


 彩香は夫と娘の写真が入った社員証を首から下げ、最前列へ座った。向かいには、灰色のポロシャツを着た早川と、片足を引きずる清水がいた。互いに何を言えばよいか分からず、パンの袋が開く音だけが続いた。澪は全員が席へ着くのを待ち、四千九百八十七億六千万円と書かれた資料を配った。


「最初に明言します。この賠償を理由に、現在の社員の基本給を削減する案はありません」

「賞与はどうなりますか」彩香が尋ねた。

「通常の業績に応じた賞与は維持します。ただし、過大な利益目標を達成した役員へ支払う特別賞与は廃止します」

「住宅手当と退職金は?」

「維持します」

「本当にそれで五千億円近く払えるのですか」

「一度には払えません。被害者へ説明し、二十年以上の支払い計画を作ります」


 澪は資金の出どころを一つずつ説明した。創業家と不正へ関与した役員の資産、海外口座へ移された金、役員報酬の返還、専用飛行機、別荘、美術品、会員権の売却で、最初の資金を作る。配当と自社株買いは賠償が一定まで進む間停止し、毎年の利益から支払う分も、従業員の給与、安全設備、必要な研究費を確保したあとに算定する。現場の残業代を減らして賠償へ回すことは禁止し、第三者が毎年監査する。


「利益が少ない年は、支払いが遅れるのですか」奈々が尋ねた。

「最低支払額は積立金と旧経営陣の資産から確保します。社員の給与から穴埋めはしません」

「会社が赤字になったら?」

「役員報酬と配当を先にゼロにします。それでも足りなければ、被害者委員会と従業員委員会の双方へ説明し、事業の整理を検討します」

「結局、事業を売れば社員が失業するでしょう」彩香は資料を閉じなかった。

「はい。その危険はあります。だから、売却先には雇用継続を条件とし、条件を守れない相手には売りません」

「絶対に給料が下がらないと、約束できますか」

「物価や業績が変わる以上、未来の給与額を絶対とは言えません。ただし、過去の賠償を現在の社員へ押しつける目的では下げません」


 彩香は唇を結び、娘が朝に言った「塾へ行かなくても勉強する」という言葉を思い出した。自分たちが何もしていないことも、被害者たちが何も悪くないことも同じだった。どちらかの家の食卓からアジの開きや卵焼きを取り上げ、もう片方へ渡す方法では、会社がしてきた切り捨てを繰り返すだけだった。彩香は向かいに座る早川へ顔を向けた。


「私は、あなたが解雇されたことを知りませんでした」

「知る機会がなかったのでしょう」早川が答えた。

「今も天城で働いています。娘の給食費も、住宅ローンもあります」

「私にも家族がいました。契約を切られた月、息子は大学をやめました」

「では、私たちの給与を減らして払えと思いますか」

「思いません。私の息子が諦めた大学へ、あなたの娘まで行けなくなっても、何も戻りません」

「でも、賠償は必要ですよね」

「必要です。だから、私たちの給与を減らして増やした配当を、先に返してほしいんです」


 部屋の後ろで聞いていた征一郎が立ち上がった。病院からの外出許可を得て、薄い灰色のスーツに茶色の運動靴を合わせていた。以前なら左右の靴の色が違うだけで使用人を叱ったが、今日は清水から借りた靴を履いたまま壇上へ向かった。手には、自分の個人資産を賠償基金へ移す同意書を持っていた。


「今働いている者の給与を減らして、私の署名した不正を払わせるつもりはない」征一郎が話すと、現在の社員たちから低いざわめきが起きた。

「信用できません。会長時代にも、社員を家族だと言っていたでしょう」彩香が言った。

「その言葉を使いながら、家族の名前も暮らしも知らなかった」

「今度は違うと、どうやって証明するのですか」

「私に自由に使える議決権を残さない。個人資産と保有株を基金へ移し、被害者と従業員の代表が管理する」

「それで全部払えるのですか」

「払えない。私の資産だけでは足りない。だが、足りない分を、君たちの弁当や子どもの学費から取ることはしない」


 征一郎は別荘、美術品、専用車、預金、保有株の一覧を読み上げた。自宅については、認知症の治療と最低限の生活に必要な住居へ移ったあとで売却するという。身の回りの世話をする人の賃金まで削らず、正当な給与を払うことも書かれていた。自分がすべてを捨てて英雄にならず、必要な支援を受けながら、残りを長く払い続ける内容だった。


「社員の給与を守れば、被害者への支払いが遅くなります」奈々が言った。

「分かっている」

「遺族に待てと言うのですか」

「私の資産と旧経営陣から先に払う。現在の社員へ負担を回す前に、過去の利益を受け取った者へ返還を求める」

「拒否されたら?」

「裁判をする」

「何年もかかります」

「それでも、何もしていない社員の給与から取るより先にやる」


 会場の隅で、理恵が冷めた味噌汁を小さな紙コップへ分けていた。具は大根の葉と豆腐だけだったが、煮干しの匂いが部屋へ広がった。現在の社員と元社員は同じ鍋から受け取り、熱すぎると息を吹きかけた。誰もすぐには納得せず、質問は夕方まで続いた。


「若い社員が退職して、人手が足りなくなったらどうしますか」

「必要な人数を雇い、正当な給与を払います」澪が答えた。

「それでは利益が減ります」

「人手不足を無償残業で埋めた数字は、利益ではありません」

「商品の価格を上げますか」

「取引先へ不当に安い価格を押しつけていた商品は、適正価格へ直します」

「売れなくなったら?」

「品質と必要性で選ばれる事業へ絞ります」

「成長は諦めるのですか」

「人を減らさなければ達成できない成長率は、目標から外します」


 彩香は質問書の裏へ、娘の塾代、住宅ローン、月々の食費を書いた。隣では早川が、解雇後に息子へ借りた生活費を一つずつ書いていた。二人の数字は違ったが、どちらも会社の決算書には載っていなかった。澪はその生活費を賠償計画と雇用保護計画の両方へ反映させると約束した。


「被害者と社員を争わせたら、得をするのは誰ですか」真鍋が部屋全体へ尋ねた。

「賠償を払わず、配当も役員報酬も守りたい人間です」

「黒瀬専務ですか」彩香が言った。

「黒瀬だけではありません。過去の利益を受け取りながら、今の社員へ請求書を回そうとする者全員です」

「では、私たちは争う相手を間違えていたのですね」

「不安になることは間違いではありません。何も説明せず、互いを敵だと思わせる仕組みが間違っているんです」


 説明会が終わるころには、外は暗くなっていた。彩香は娘のために残しておいた兎形の人参を弁当箱の隅に見つけ、自分で食べた。少し乾いていたが、朝と同じ甘さが残っていた。早川は空になった紙コップを集め、清水は机を折り畳んだ。


「早川さん、今度、息子さんの話を聞かせてください」彩香が言った。

「大学へ戻る気はないと言っています。それでも、聞いてくれますか」

「はい。私も娘の話をします」

「塾をやめさせなくて済むといいですね」

「あなたの息子さんへの補償も、きちんと払われてほしいです」

「どちらか一つではなく、両方を守る計画にしましょう」


 征一郎は二人の会話を離れた場所から聞いていた。以前の彼なら、社員と被害者の要望をすべて受け入れれば経営が遅くなると考え、会議を打ち切っていただろう。今日は病院へ戻る時間を過ぎても、森川医師へ連絡して許可を延長してもらい、最後の質問まで席を立たなかった。認知症のため同じ質問を二度聞くこともあったが、澪は答えを省略しなかった。


 四千九百八十七億六千万円は、今働いている社員と家族だけが背負う借金ではなかった。被害を生んだ経営者、利益を受け取った役員と株主、不正を利用して資産を増やした者から、先に返させるべき金だった。それでも会社の利益から払う以上、現在の社員にも影響がまったくないとは言えない。だからこそ、給与や安全や子どもの暮らしを守る線を、被害者と社員が同じ机で決めなければならなかった。


「澪、全員を守る経営など、本当にできるのか」征一郎は帰りの車へ乗る前に尋ねた。

「全員を完全に守れるとは言いません」

「また保証しないのか」

「簡単に保証する人を、もう信用してはいけません」

「では、何を約束する」

「一番弱い人から先に負担を押しつけないことです」

「それだけで足りるのか」

「足りなければ、また話し合います。誰かを黙らせて帳尻を合わせないために」


 征一郎は清水から借りた靴の紐を結び直し、医療センターの車へ乗った。公民館の窓からは、彩香と早川が一緒に机を運ぶ姿が見えた。現在の社員の給料を削って過去の被害者へ渡すだけなら、別の家族を灰街へ送ることになる。征一郎は膝の上の賠償計画を開き、最初の頁へ「社員と被害者を争わせない」と自分の手で書き加えた。



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