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第17話 被害者が今を生きる人を殺すのか

第17話 被害者が今を生きる人を殺すのか


 四千九百八十七億六千万円という暫定賠償額が公表された翌朝、新聞各紙は天城グループの記事を一面へ掲載した。金額は国の一般会計予算のおよそ二百四十分の一であり、一つの政令指定都市が一年間に動かす予算にも近いと報じられた。テレビでは道路、学校、病院、上下水道を維持する自治体の映像が流れ、それと同じ規模の金を一企業が支払えるのかと専門家が議論していた。天城グループの株価は取引開始と同時に急落し、画面には赤い数字が並んだ。


 天城本社の経理部では、佐藤彩香が白いブラウスの袖をまくり、朝から資金繰り表を作っていた。机には娘が食べ残した兎形の人参が入った弁当箱と、冷めた缶コーヒーが置かれていた。銀行三行から新規融資の停止が通知され、取引先からは前払いを求める連絡が届いていた。彩香は電卓をたたく指を止め、隣の席に座る若い社員へ顔を向けた。


「今月の給与は払えますか」

「払えます。ただ、来月は大口の売掛金が入らなければ危険です」

「取引先への支払いを遅らせるのですか」

「それをすれば、先に下請けが倒れます」

「では、何を止めるの」

「役員報酬と配当は止められます。でも、それだけでは運転資金が足りません」

「私たちの給与を削るのですか」

「まだ決まっていません。決めさせてはいけません」


 その日の昼、本社前には社員とその家族が集まっていた。紺色の作業服を着た者、事務服のまま駆けつけた者、幼い子どもを抱いた者が、「現在の社員へ負担を回すな」と書かれた紙を掲げていた。近くのベンチでは、保育園から連れてこられた子どもが鮭のおにぎりを食べ、母親のスカートへ海苔のついた手を押しつけていた。社員たちは過去の被害を否定してはいなかったが、自分たちの給料と雇用が消えることにも同意できなかった。


「私たちは不正へ関わっていません」

「子どもの学費まで賠償に使うのですか」

「過去の被害者を救うために、今の社員を失業させるのですか」

「四千九百億円も払えば、会社は潰れます」


 道路の反対側には、元社員と事故の遺族が立っていた。早川は灰色のポロシャツの上へ紺色の上着を羽織り、清水は杖をついていた。奈々は兄の写真を胸元へ抱え、黒いワンピースの裾を風に揺らしていた。誰も現在の社員の給与を奪えとは言っていなかったが、インターネットでは「被害者の要求が会社を殺す」「五千億円を欲しがる遺族」という言葉が広がっていた。


「私たちは金目当てだそうです」奈々は携帯電話の画面を消した。

「兄の命に値札をつけたのは、私ではありません。会社が報告書の中で金額に変えたんです」

「でも、今働いている人も追い詰められている」早川が本社前の社員を見た。

「私たちが声を上げなければ、何も変わりません」

「そうです。でも、相手を間違えれば、黒瀬の思う通りになります」

「私たちが黙れば、今の社員は助かるのですか」

「黙っても助かりません。次は同じ社員が切られます」


 報道陣は両者の間を行き来し、対立する言葉を求めてマイクを向けた。若い記者が奈々へ、現在の社員が失業しても満額の賠償を求めるのかと尋ねた。奈々は兄の写真を持つ指へ力を入れ、すぐには答えなかった。隣では清水が、杖の先についた泥を古い布で拭いていた。


「会社が潰れても構わないとは思いません」奈々は記者の顔を見た。

「では、賠償額を減らすべきですか」

「なぜ選択肢が、被害者が諦めるか、社員が失業するかの二つだけなのです」

「五千億円近い金を、ほかに誰が払うのですか」

「そのお金を利益として受け取ってきた人へ、先に聞いてください」

「現在の株主にも責任があると?」

「少なくとも、働く人の弁当代より先に、配当を守る理由はありません」


 天城本社の上階では、黒瀬が記者会見を開いていた。白いシャツに濃紺のスーツを合わせ、背後には「社員と家族を守る」と書かれた青い幕を張っていた。机には水のボトルが用意されていたが、黒瀬は一度も口をつけず、原稿を読み上げた。


「四千九百八十七億六千万円は、自治体の年間予算にも匹敵する金額です。この非現実的な要求は、現在働く三万人の社員と、その家族の生活を破壊します」

「被害者への補償はどうするのですか」

「可能な範囲で誠実に対応します。しかし、会社の存続を危うくする要求には応じられません」

「海外口座へ移された資金について説明してください」

「根拠のない情報です」

「役員報酬を返還する考えは?」

「社員を守るためには、有能な経営者が必要です。報酬を失えば、人材が流出します」


 会見を見ていた彩香は、経理部の机へ拳を置いた。黒瀬は社員を守ると言いながら、すでに人事部へ一万人規模の希望退職案を作らせていた。退職金を一時的に上乗せし、その費用を賠償対策費として公表する計画まで記録に残っていた。社員を減らして浮いた給与を賠償へ回し、被害者のせいで解雇したように見せるつもりだった。


「この資料を外へ出します」彩香は希望退職案を印刷した。

「会社の機密ですよ」若い社員が周囲を見回した。

「黙れば、私たちが自分から辞めたことにされます」

「生活信用指数を下げられるかもしれません」

「娘の前で、何もしなかったとは言いたくありません」

「誰へ渡すのですか」

「澪さんです。被害者側ではなく、今の社員も守ると言った人です」


 彩香は娘の弁当箱から、残っていた兎形の人参を口へ入れた。冷えて少し固くなっていたが、朝に砂糖を入れて煮た甘さが残っていた。資料を封筒へ入れ、私物の携帯電話で全頁を撮影した。若い社員も一度迷ったあと、自分が保管していた生活信用指数の操作記録を封筒へ加えた。


 午後、澪は法律事務所で緊急会議を開いた。白いブラウスの上へ灰色のカーディガンを羽織り、昼食に買った海苔弁当は半分残したままだった。机には千葉県や政令指定都市の予算資料、天城グループの決算書、被害者名簿、現在の社員の給与一覧が並んでいた。奈々、航、真鍋、早川、彩香が、同じ机を囲んだ。


「四千九百八十七億六千万円は、一企業が短期間で現金払いできる金額ではありません」澪が話し始めた。

「今さら減らすのですか」奈々が尋ねた。

「減らすとは言っていません。払う順序と方法を変えます」

「二十年払いでも会社の信用が落ち、銀行が止まりました」彩香が資金繰り表を示した。

「このままでは、賠償を始める前に来月の給与が危なくなります」

「社員を守るために、被害者が待つのですか」

「待たされるのは、いつもこちらです」奈々の声が低くなった。

「だから、銀行や株主にも待ってもらいます」


 澪は新しい再建案を配った。賠償基金を本体の運転資金から切り離し、創業家と旧経営陣の株、海外資産、返還された配当、役員報酬、保険金を基金へ移す。本体企業には給与、仕入れ、安全設備、通常の事業費を残し、その後に生まれた剰余利益だけを基金へ追加する。被害者への支払いは、治療、住居、生活費を失った人から先に始め、残額を長期債権として保証する内容だった。


「紙の上で分けても、同じ会社の金でしょう」彩香が言った。

「違いは、誰が先に受け取るかです」澪は支払い順位を指で示した。

「第一に現在の従業員の基本給と安全費。第二に現在困窮している被害者への生活補償。第三に仕入れ先への正当な支払い。そのあとに長期賠償、銀行、株主です」

「株主が認めません」

「認めない株主には、被害を隠して得た配当の返還を求めます」

「裁判になれば時間がかかります」

「だから旧経営陣の資産と回収済み資金で、緊急分を先に払います」


 航は黒瀬の海外口座から回収できる可能性がある資金を表示した。複数の名義へ分散されていたが、合計は千百四十億円を超えていた。征一郎を含む創業家の資産、歴代役員の不当報酬、経営者賠償責任保険を合わせれば、現在の社員の給与へ触れず、最初の二千億円近くを用意できる見込みだった。残額は会社の利益だけでなく、不正によって利益を得た金融機関やデータ購入企業にも負担を求める。


「天城一社だけの不正ではなかったのですね」真鍋が言った。

「住民データを買った企業があり、融資した銀行があり、低い信用指数を使って人を安く雇った会社があります」航が答えた。

「それでも、天城が中心だった責任は消えません」

「責任を分けることと、薄めることは違います」澪は言った。

「被害へ関与した者へ、それぞれの分を払わせます」

「そうすれば四千九百億円は減るのですか」奈々が尋ねた。

「被害者へ渡る総額は減らしません。天城の現役社員だけが背負う金額を減らします」


 奈々は机に置いた兄の写真を見た。兄が亡くなった工場にも、事故の翌日から働き続けた社員がいた。真実を知らされず、いつものように作業着を洗い、弁当を持って出勤した者もいた。彼らの子どもから食事や学費を奪っても、兄は帰ってこない。


「被害者が、今頑張っている人を殺していくと言われています」奈々は写真の表面を布で拭いた。

「私が兄の名前を出したから、社員の家族が食べられなくなるのでしょうか」

「違います」彩香が答えた。

「あなたが請求したからではありません。会社が払うべき金を何十年も隠し、私たちへ何も知らせなかったからです」

「でも、今苦しんでいるのはあなたたちです」

「だから一緒に、給与を削る案へ反対してください」

「被害者が社員の給与を守るのですか」

「社員も、被害者への支払いを守ります。どちらかだけでは、また黒瀬に利用されます」


 奈々はすぐには返事をせず、冷めた海苔弁当から竹輪の磯辺揚げを一つ取った。澪の分として残されていたが、食べなければ傷む時間になっていた。奈々が半分に割って澪へ渡すと、彩香は自分の鞄から娘の弁当用に焼いた卵焼きの残りを出した。会議は高額な予算を扱っていたが、机の中央には冷めた弁当のおかずが少しずつ並んだ。


 夕方、征一郎は医療センターの会議室で再建案の説明を受けた。灰色のスーツに清水から借りた茶色の運動靴を履き、膝には四千九百八十七億六千万円と書かれた資料を置いていた。森川医師も同席し、征一郎が内容を理解できているか、一項目ずつ確認した。窓の外では病院の職員が白いシーツを取り込み、洗剤の匂いが風に乗って入ってきた。


「この金額は、自治体一つの予算に近いそうだな」征一郎が言った。

「はい。一企業が簡単に現金で払える額ではありません」澪が答えた。

「それでも、私が全額払うと言えば済むのではないか」

「あなたの個人資産だけでは足りません」

「会社の利益を使う」

「現在の社員の給与を削ってはいけません」

「被害者へ待てとも言えない」

「だから、被害に関与したすべての企業と、利益を受け取った旧経営陣へ請求します」

「銀行や取引先まで敵に回すのか」

「被害者と社員を敵同士にするよりましです」


 征一郎は資料の支払い順位を指でなぞった。最初に現役社員の基本給と安全費、次に困窮する被害者への緊急補償が並んでいた。以前の彼なら、銀行と大株主への支払いを最優先し、社員と小さな取引先には我慢を命じていた。順番を逆にするだけで、金融機関からの圧力が強まり、株価もさらに下がることは分かっていた。


「これでは、天城は小さな会社になる」

「売上も資産も減るでしょう」

「海外事業も手放すことになるかもしれない」

「人を壊してまで維持する事業なら、手放します」

「私は世界一の企業を作るつもりだった」

「大きさで一番になった結果が、灰街です」

「小さくなっても、会社と呼べるのか」

「給与を払い、安全を守り、商品を作り、被害へ責任を負うなら、今までより会社らしいと思います」


 征一郎は老眼鏡を外し、折り畳んだハンカチでレンズを拭いた。窓辺のシーツはすべて取り込まれ、物干し台だけが残っていた。大都市の一年分に近い賠償額を前にして、全員が無傷で済む方法はなかった。だが、負担を一番弱い者へ流す順番だけは変えられた。


「被害者が今の社員を殺すのではないのだな」

「はい」澪が答えた。

「では、誰が彼らを苦しめている」

「払うべき責任を隠し、最後に残った人へ請求書を押しつけた者です」

「その中に、私もいる」

「います」

「黒瀬だけではない」

「はい」

「ならば、私が最初に払う」


 征一郎は個人資産を賠償基金へ移す同意書を開いた。ただし英雄のように全財産を投げ出すのではなく、治療と生活に必要な金額、介護を担う者へ正当な賃金を払う分は残されていた。残額は被害者委員会と従業員委員会が共同で管理し、征一郎一人では取り戻せない契約になっていた。征一郎は内容をもう一度読み、震える手で署名した。


「これで終わりではありません」奈々が言った。

「分かっている」

「兄は戻りません」

「分かっている」

「現在の社員を苦しめれば、私たちのためだと言わないでください」

「言わない。君たちを盾にしない」

「忘れたら?」

「この署名と、君たちの名前をもう一度読む」


 会議が終わるころ、病院の夕食が運ばれてきた。献立は鶏肉と白菜の煮物、麦飯、冷ややっこだった。征一郎は醤油を求めず、薄味の煮物を一口ずつ噛んだ。机には自治体の予算にも匹敵する賠償額と、娘の弁当箱から分けられた小さな卵焼きが並んでいた。


 四千九百八十七億六千万円は、一つの会社だけでなく、何万人もの現在と過去の暮らしを動かす額だった。被害者へ全額を返すという言葉だけで突き進めば、何も知らずに働いてきた社員や家族が新たに住居と食事を失う。だからといって、現在の社員を守るために被害者へ再び黙れとは言えなかった。澪たちが選んだのは、被害者と社員を向かい合わせるのではなく、その間へ請求書を置いた者を一人ずつ捜し、負担を元の場所へ戻す道だった。



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