↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
18/29

第18話 遅れず、休まず、働かず

第18話 遅れず、休まず、働かず


 天城グループ本社の人事部長を三十三年間務めてきた大島正人は、午前五時に目を覚ました。目覚まし時計が鳴る前に布団から出る習慣は、二十代の頃から変わっていなかった。白いワイシャツへ袖を通し、紺色のネクタイを締め、台所で昨夜の味噌汁を温めた。鍋の底には大根と油揚げが一切れずつ残っていたが、炊飯器の中にご飯はなかった。


「また米を買うのを忘れたな」


 独り言へ答える者はいなかった。妻は五年前に家を出て、長男は就職後、一度も帰ってきていなかった。食卓には一人分の箸と、コンビニで買った梅のおにぎりが置かれていた。以前は妻が焼いたアジの開きと卵焼きが並び、息子が牛乳をこぼすたび、出勤前の大島が時計を見ながら声を荒らげていた。


「朝から何をしている。会社に遅れるだろう」

「お父さんは、日曜日も会社じゃないか」

「家族を食べさせるためだ」

「ぼくは、一緒にご飯を食べたいだけなのに」


 息子が小学生だった頃の言葉を思い出し、大島は冷めたおにぎりを口へ入れた。海苔は湿り、梅干しの酸味だけが強く残った。三十三年間、無遅刻、無欠勤で働き、深夜に帰宅しても翌朝には必ず机へ座った。住宅ローンを完済した家は残ったが、二階の子ども部屋には埃をかぶった学習机と、小さくなった野球帽しか残っていなかった。


 午前七時、大島は誰よりも早く本社へ出勤した。人事部の机には、黒瀬から命じられた希望退職者名簿が置かれていた。対象は五十五歳以上の社員三千人で、退職へ応じなければ閉鎖済みの灰街倉庫へ異動させると記されていた。名簿の最後には、大島自身の名前もあった。


「私も切るのか」


 大島は椅子へ座り、何度も名簿を見直した。これまで自分は、黒瀬や歴代の経営陣に命じられるまま、何百人もの退職面談を行ってきた。「会社を守るためです」「ご家族のためにも、今ここで決断してください」と同じ言葉を繰り返した。机の引き出しには胃薬、予備のネクタイ、妻が最後に作った弁当へ入っていた赤い布の包みだけが残っていた。


「大島部長、おはようございます」佐藤彩香が水色のブラウスに黒いスカートで出勤してきた。手には娘の弁当と一緒に作った小さな塩むすびを持っていた。

「佐藤君、私は今日付で部長ではなくなるらしい」

「希望退職者名簿を見たのですね」

「希望と書いてあるが、断れば存在しない倉庫へ異動だ。これは退職命令だ」

「澪さんへ資料を渡しましょう」

「会社の機密だ」

「自分が切られる側になっても、まだ会社を守るのですか」

「三十三年働いた会社だ」

「その会社は、大島さんを守っていますか」


 大島は答えず、赤い弁当包みを引き出しの奥へ戻した。妻が家を出た日、大島は重要な人事会議があると言って、話し合いを途中で切り上げた。帰宅すると食卓に離婚届が置かれ、冷蔵庫にはラップをかけた肉じゃがが残っていた。電子レンジで温めた肉じゃがを食べながら、翌日の会議資料を読み、妻へ電話をかけたのは三日後だった。


「私は家族のために働いた」

「私の父も、同じことを言っていました」彩香は塩むすびを机へ置いた。

「でも、子どもは、お金だけで親の背中を見ているのではありません」

「君の娘は、まだ小学生だろう」

「昨日、『大人になったら、会社員にはならない』と言いました」

「なぜだ」

「頑張った人から給料を取られ、黙っている人だけが残れると思ったからです」


 彩香の娘は、社員と被害者の説明会へ母親と一緒に来ていた。大人たちが四千九百八十七億六千万円の責任を押しつけ合い、家へ帰ると父親が塾をやめる話をしていた。娘は宿題の作文へ「大人になったら、遅れず、休まず、働かない人になります」と書いた。毎日会社へ行くが、責任を負う仕事はせず、間違いを見ても黙っていれば、家も家族も守れると思ったのである。


「遅れず、休まず、働かず、か」大島は小さく笑った。

「昔の会社にも、そういう処世術があった。遅刻せず、休暇を取らず、目立つ仕事をしなければ失敗もしない」

「それが一番賢い生き方なのですか」

「少なくとも、私よりは家族との夕食を食べられたかもしれない」

「大島さんは、本当に働いていたのですか」

「失礼なことを言うな。毎月百時間以上残業した」

「会社の命令を断らず、人を辞めさせる書類を作った。でも、間違っていると声を上げる仕事はしましたか」


 大島の手が止まった。長時間会社にいたことと、責任を果たしたことを、これまで同じだと思っていた。上から降りてきた名簿を整え、退職者へ説明し、予定どおり人数を減らせば評価された。その仕事で誰の食卓から一人分の椀が消えたか、考えないことが人事部長としての強さだと信じていた。


「佐藤君、澪さんへ連絡してくれ」

「名簿を渡すのですか」

「ああ。ただし、私が被害者になったからではない」

「では、なぜです」

「この名簿を作った責任も、私にはある。自分の名前だけ消してもらうつもりはない」


 その日の午後、青葉総合医療センターの会議室で、現役社員への聞き取りが行われた。征一郎は薄い灰色のスーツに茶色い運動靴を履き、澪の隣へ座っていた。机には希望退職者名簿、四千九百八十七億六千万円の賠償計画、大島の勤務記録が並んでいた。奈々は黒いワンピースに白いカーディガンを羽織り、紙コップへ入れた温かい麦茶を両手で包んでいた。


「三十三年間、無遅刻、無欠勤か」征一郎は勤務記録を見た。

「はい。父の葬儀の翌日も出勤しました」大島が答えた。

「立派ではないか」

「妻には、そう言われませんでした」

「家族を養うには仕事が必要だ」

「会長も、そう考えていたのですか」

「私は天城を日本一にするために、夜も寝ずに働いた」

「その結果、娘さんたちはどうなりましたか」

「麗華と美冬には株を与えた。澪にも後継者の席を用意した」

「一緒に夕食を食べましたか」


 征一郎は澪へ顔を向けた。澪は資料を見たまま、父を助ける言葉を挟まなかった。幼い頃、澪が熱を出して寝込んだ夜も、征一郎は海外企業との会食へ出かけた。誕生日には高価な人形が届いたが、箱を開けるところを父が見たことはなかった。


「仕事をしなければ、お前たちは豊かに暮らせなかった」

「私は、あなたに仕事をやめてほしいと言ったことはありません」澪が答えた。

「家族へ向き合う時間も取ってほしかっただけです」

「社長が休めば、会社が止まる」

「止まりません。止まる会社を作ったのなら、それも経営の失敗です」

「責任ある者は休めない」

「休まない人は、やがて判断を誤ります。そして、周りにも休むなと命じるようになります」


 森川医師が征一郎の検査記録を机へ置いた。睡眠不足、高血圧、長年の過労は、現在の認知機能低下へ影響した可能性があるという。ただし、働きすぎたことを理由に、家族への暴言や社員の切り捨てが正当化されるわけではなかった。努力した時間の長さと、その努力で誰を支え、誰を傷つけたかは別に考えなければならなかった。


「では、頑張ったことに意味はなかったのか」征一郎が尋ねた。

「私は三十代から会社へ人生を捧げた。住む家も会社も家族も失い、最後に残ったのは認知症の診断書だ」

「頑張る方向を間違えた部分があります」澪は父の顔を見た。

「努力そのものが無意味だったとは言いません。あなたが作った技術や雇用で、生活できた人もいます」

「ならば、なぜすべて否定される」

「よい結果だけを自分の功績にし、悪い結果を部下や時代のせいにしたからです」

「私は家族のためにも働いた」

「家族が望んでいないものを与え、それを愛情と呼びました」


 大島は赤い弁当包みを机へ置いた。妻が最後に作った弁当はもう残っていないが、布だけは捨てられなかった。息子から来た最後の連絡は三年前の正月で、「仕事が忙しいから帰れない」と書かれていた。大島自身が何十年も家族へ使った言葉を、息子から返されていた。


「息子へ電話をかけたいと思います」大島は言った。

「電話をして、何を話すのです」奈々が尋ねた。

「家族のために働いたと言い訳してきました。まず、それをやめます」

「許してもらうためですか」

「いいえ。電話を切られても、私がしたことを話します」

「会社へは、どうするのです」

「希望退職者名簿を作ったことを公表し、説明します。解雇された人にも会います」

「自分も解雇されるかもしれません」

「もう名簿に入っています」

「家は守れるのですか」

「分かりません。ただ、家だけ残っても、帰ってくる人はいませんでした」


 聞き取りが終わると、大島は病院の中庭へ出た。夕方の風が吹き、植え込みから湿った土の匂いがした。自動販売機で缶コーヒーを二本買い、一本を征一郎へ渡した。征一郎は病院でカフェインを制限されているため、澪の許可を求め、半分だけ飲むことになった。


「会長、私はあなたの背中を見て働きました」

「立派な背中ではなかったな」

「当時は、誰よりも働く経営者だと思っていました」

「今はどう思う」

「立ち止まったら、自分が壊したものを見なければならないから、走り続けていた人です」

「お前も同じか」

「はい。妻のいない食卓を見るのが嫌で、朝早く会社へ行っていました」


 二人は缶コーヒーを持ったまま、しばらく中庭のベンチへ座っていた。征一郎は半分残った缶を捨てず、病室へ持ち帰るために蓋のついた容器を看護師へ頼んだ。大島は妻の電話番号を表示したものの、発信ボタンを押すまで十分近くかかった。電話は留守番電話へ切り替わった。


「正人です。突然すまない。家族のために働いたという言葉で、あなたと息子の話を聞かなかった。許してくれとは言わない。赤い弁当包みを、今も持っています。返してほしいなら届けます。捨ててほしいなら、そうします」


 大島はそこで言葉を止め、会社の業績や自分の苦労を話さずに電話を切った。返事が来る保証はなかった。だが、返事を求めずに自分のしたことを認めたのは、初めてだった。征一郎は隣で聞きながら、自分が澪へ何度も「父親なのだから」と答えを迫ったことを思い出した。


 翌日、天城グループの社員食堂には、働き方を話し合う会議が開かれた。彩香は娘が書いた作文を持参し、大人たちの前で読み上げた。白いテーブルには社員が持ち寄った卵焼き、塩むすび、昨夜の残りの唐揚げが並び、夜勤明けの社員は温かい味噌汁を両手で包んでいた。


「娘は、『遅れず、休まず、働かない人になる』と書きました」彩香は作文を机へ置いた。

「頑張った人ほど損をし、間違いを見ても黙っている人が賢いと、大人の背中から学んだからです」

「子どもに会社の問題を見せる必要はない」管理職の一人が言った。

「もう見ています。家で親が給料や解雇の話をしているのですから」

「では、何を見せればいい」

「頑張るとは、長く会社にいることではないと見せたいです。間違いを止め、休む人を責めず、家族と食卓を囲むことも、大人の仕事だと伝えたいです」


 社員たちは、無遅刻や長時間労働だけを評価する制度を廃止し、残業時間へ上限を設ける案を作った。有給休暇を取った者の評価を下げず、家族の看護や介護で休んだ者にも復帰できる場所を残す。上司の不正を報告した者の生活信用指数を操作できないよう、評価データを第三者が管理する。賠償金を払うために無償労働を増やすことも禁止した。


「こんな制度で、仕事が遅れたらどうする」

「必要な人数を雇います」彩香が答えた。

「人件費が増える」

「人が壊れたあとに払う治療費や賠償金より、先に払うべき費用です」

「休む人ばかりになったら?」

「全員が同じ日に休むわけではありません。仕事を一人へ集中させない仕組みを作ります」

「頑張る人が損をするのでは?」

「頑張った人へ、さらに仕事を積むことをやめます。仕事を終えたら、家へ帰ってもらいます」


 夕方、彩香は定時に会社を出た。以前なら周囲の視線を気にして一時間ほど机へ残っていたが、その日は鞄を持ち、同僚へ「お先に失礼します」と声をかけた。帰宅すると、娘が黄色いTシャツのまま台所で米を研ぎ、夫がアジの開きを焼いていた。魚の脂が落ち、ガス台から香ばしい匂いが上がっていた。


「お母さん、今日は早いね」

「一緒に夕食を食べるのも、大人の大事な仕事だから」

「会社で働かなかったの?」

「働いたよ。終わったから帰ってきたの」

「頑張っても損をしない?」

「損をすることもある。でも、黙っていることだけが賢い生き方ではないと、お母さんは思う」

「作文、書き直したほうがいい?」

「今はそのままでいいよ。大人たちが変わったら、そのとき続きを書いて」


 娘は研いだ米の水を流し、炊飯器の蓋を閉めた。食卓には三人分の茶碗と箸が並び、アジの開きの横には大根おろしが添えられた。彩香は会社の資料を鞄から出さず、娘の宿題を一緒に見た。子どもは、大人が口で語る立派な言葉より、何時に帰り、誰の話を聞き、間違いを見たときにどう動くかを見ていた。


 夜も寝ずに働くことだけが努力ではなかった。時間どおりに出勤し、一度も休まず、責任のある仕事だけを避けることが賢さでもなかった。働いて得た金で家を建てても、食卓に誰も座らなくなれば、何のために働いたのかを考えなければならない。征一郎たちはようやく、会社を残すことだけでなく、そこから家へ帰る人間を残す働き方を作り始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。