第19話 これでご満足ですか
第19話 これでご満足ですか
天城グループへの暫定賠償額が公表されてから一週間後、インターネットには「天城終了」という言葉があふれていた。紺色の作業服を着た社員が段ボール箱へ私物を詰める映像、閉鎖された工場の門、泣きながら保育園の迎えへ向かう女性の写真が、説明のないまま次々と拡散された。画面には「被害者優先で三万人が失業」「遺族は五千億円を奪って満足か」「正義が会社を殺した」という見出しが並んでいた。奈々の法律事務所にも、朝から無言電話と匿名の封筒が届いていた。
「これでご満足ですか」
その一文だけが印刷された紙を、奈々は事務所の机へ置いた。黒いワンピースの上へ灰色のカーディガンを羽織り、兄の写真が入った引き出しを何度も確かめていた。机には朝食として買った鮭のおにぎりが残り、海苔は湿って袋へ張りついていた。澪は白いブラウスの袖をまくり、届いた封筒を透明な袋へ一通ずつ入れていた。
「警察へ提出しましょう」澪が言った。
「警察へ出せば、また被害者が社員を訴えたと書かれます」
「脅迫を受け入れる必要はありません」
「兄の賠償を求めた私が、三万人から仕事を奪ったことになっています」
「仕事を奪ったのは奈々さんではない」
「でも、会社は止まり始めています」
「誰が止めたのかを、これから明らかにします」
天城グループでは、公共事業への入札資格が一時停止され、銀行は新規融資を凍結していた。取引先は連鎖倒産を恐れて契約を解除し、工場では原材料が届かなくなっていた。黒瀬はその日の朝、国内十九工場の操業停止と、一万二千人の自宅待機を発表した。社員へ届いた通知には、すべて「過大な賠償要求による経営悪化のため」と記されていた。
佐藤彩香の自宅にも、自宅待機の通知が届いた。水色の部屋着に白い前掛けをつけ、娘の弁当へ卵焼きを詰めている途中だった。夫は作業服の釦を留めながら通知を読み、食卓には冷めた味噌汁と、三人で分けたアジの開きが置かれていた。娘は赤いランドセルを背負ったまま、母親の顔を見上げた。
「お母さん、今日も会社へ行かないの」
「会社から、おうちで待つように言われたの」
「お給料は出る?」
「今月は出ると書いてあるわ」
「来月は?」
「まだ分からない」
「わたしの塾、やめる?」
「今は宿題を持って学校へ行きなさい。帰ったら一緒に考えよう」
娘が玄関を出ると、彩香は食べ残されたアジの骨を箸で一つにまとめた。夫の工場も天城への部品供給が止まり、週三日の勤務へ減らされていた。住宅ローンの引き落とし日は二週間後に迫り、冷蔵庫には卵が二個と半分に切った大根しか残っていなかった。彩香は自宅待機の通知を携帯電話で撮影し、澪へ送った。
「被害者へ怒れば、給料が戻るのですか」夫が尋ねた。
「戻らない。でも、誰かへ怒らないと立っていられない人もいる」
「君は怒らないのか」
「怒っているわ。賠償を払うと決めた途端、社員を止めた黒瀬に」
「本当に、黒瀬だけの責任か」
「違う。前の経営者も、黙っていた管理職も、数字を直した私たちも関係している」
「では、家族まで罰を受けるのか」
「罰を受けさせないために、今から会社へ行く」
彩香は前掛けを外し、水色のブラウスと黒いスカートへ着替えた。冷めた卵焼きを一つ口へ入れ、残りは小さな弁当箱へ詰めた。自宅待機中でも社員証は使えるか分からなかったが、黒瀬が削除する前に経理記録を守らなければならなかった。夫は何も言わず、玄関に置かれた彩香の靴へ防水スプレーをかけた。
その日の正午、国会では天城グループ問題を扱う経済産業委員会が開かれた。政府が公共契約を止めた判断、銀行の融資凍結、被害者救済と三万人の雇用をどう両立するかが議題になっていた。委員会室には資料の紙と古い絨毯の匂いがこもり、議員席の机には水のボトルと小さな飴が置かれていた。参考人として澪、奈々、真鍋、彩香が並び、黒瀬は経営対応を理由に出席を拒否していた。
「四千九百八十七億六千万円という額は、政令指定都市の年間予算にも近い規模です」野党議員の水城は資料を掲げた。
「この額を一企業へ負わせれば、倒産することは分かっていたのではありませんか」
「暫定額を算定したのは、被害を小さく見せないためです」澪が答えた。
「では、三万人が失業しても被害者を優先するのですか」
「被害者か社員か、どちらを犠牲にするかという前提が間違っています」
「現実に工場は止まっています」
「賠償金を支払ったためではありません。まだ基金から被害者へ支払われた額は、緊急生活費の十二億円だけです」
「では、なぜ工場が止まったのですか」
「黒瀬氏が、賠償を理由に取引先への支払いと原材料の発注を止めたからです」
委員会室がざわめいた。澪は航から受け取った資金移動記録を提出した。操業停止が発表される三日前、黒瀬は天城グループの運転資金六百二十億円を海外の関連会社へ移していた。国内工場へ原材料を購入する資金を残さず、賠償要求のために操業できなくなったように見せていた。さらに、希望退職者を増やすほど黒瀬へ特別報酬が支払われる契約も見つかっていた。
「これは事実ですか」与党議員の山科が経済産業大臣へ尋ねた。
「政府としても、今朝、金融当局から報告を受けました」
「六百二十億円が海外へ移される間、政府は何をしていたのです」
「個別企業の通常の送金として処理されていました」
「社員の給与口座が止まり、子どもが塾をやめようとしている一方で、経営者は六百二十億円を移した。これを通常と呼ぶのですか」
「事実関係を調査し、必要であれば資産凍結を行います」
「必要であれば、では遅い。次の給与日はいつですか」
「今月二十五日です」
「あと十一日しかありません」
水城議員は奈々へ向き直った。テレビ中継の赤いランプが点灯し、奈々の顔が全国へ映った。奈々は黒いワンピースの膝へ兄の写真を置き、手を重ねた。委員会室の冷房は強く、指先が白くなっていた。
「小野寺さん、インターネットでは、遺族が会社を潰したと非難されています。現在の社員が失業しても、満額の賠償を求めますか」
「私たちは社員の給与を奪えとは、一度も言っていません」
「しかし、五千億円近い請求を取り下げてもいない」
「兄が亡くなり、事実を隠され、母は何年も帰りを待ちました。その被害を、会社が苦しいから小さく書き換えろと言うのですか」
「社員の家族も、今苦しんでいます」
「知っています。だから社員ではなく、不正で利益を得た人から先に返してほしいと言っています」
「これでご満足ですか、という言葉が届いたそうですね」
「はい」
「何と答えますか」
「誰も満足していません。兄は帰らず、社員は仕事を止められ、家族は食費を削っています。満足している人がいるなら、六百二十億円を持って逃げた人へ聞いてください」
彩香にも発言の機会が与えられた。社員証を首から下げ、水色のブラウスの袖口についた卵焼きの小さな染みを、机の下で指先へ隠していた。朝に娘から聞かれた「来月の給料は出るの」という言葉を説明すると、委員会室から紙をめくる音が消えた。
「私は現在の社員です。過去の不正へ直接関わっていません。それでも、会社の数字がおかしいと気づいたとき、声を上げませんでした」
「社員にも責任があると言うのですか」
「責任の重さは違います。命令した人、利益を得た人、逆らえなかった人を、同じにしてはいけません」
「あなたは賠償へ賛成ですか」
「賛成です。ただし、私たちの基本給を削り、被害者へ払ったことにする方法には反対します」
「政府へ何を求めますか」
「会社を無条件で救わないでください。でも、社員の給与と取引先への支払いは止めないでください」
「それは税金による救済を求めるということですか」
「貸したお金を黒瀬や株主へ渡さず、働いた人へ直接届く仕組みにしてください」
真鍋は、政府が天城グループ本体へ資金を渡せば、過去の経営者を救うことになると指摘した。そこで澪は、国と民間金融機関が共同で設置する雇用維持口座を提案した。給与、安全設備、国内取引先への支払いにだけ使え、役員報酬、配当、海外送金には一円も使えない口座だった。返済は回収した海外資産と、再建後の利益から行い、税金で賠償金そのものを肩代わりしない仕組みにした。
「国が特定企業を助ければ、不公平ではありませんか」山科議員が尋ねた。
「天城を救うのではありません」澪が答えた。
「何万人もの社員と、連鎖倒産する取引先を一時的に守ります」
「経営陣は残すのですか」
「黒瀬氏と不正へ関与した役員を経営から外すことが条件です」
「株主は?」
「減資によって責任を負います。配当は停止し、賠償と融資の返済が進むまで再開しません」
「被害者の支払いは?」
「旧経営陣の資産、海外口座、不当配当、保険金を中心に、別の基金から続けます」
「会社を二つに割るのですか」
「働くための会社と、過去の責任を支払う基金を分けます。ただし、会社が責任から逃げないよう、利益の一部は基金へ払い続けます」
委員会は夕方まで続いた。議員食堂からカレーと出汁の匂いが流れてきたが、参考人席の者たちは昼食を取れなかった。休憩に入ると、彩香は弁当箱の卵焼きを四つに切り、奈々、澪、真鍋へ一切れずつ配った。奈々は一度ためらったが、受け取って口へ入れた。
「娘さんの卵焼きですか」
「娘と同じ弁当に入れたものです」
「私が賠償を求めなければ、安心して食べられたと思いますか」
「いいえ。黒瀬は別の理由で、いつか私たちを切ったでしょう」
「でも、私たちの請求がきっかけになりました」
「きっかけと原因は違います」
「社員にそう言ってもらうのは、卑怯な気がします」
「では、被害者に請求をやめてもらって給料を守るのは、卑怯ではないのですか」
「どちらも嫌です」
「だから、同じ机に座っているのでしょう」
その夜、国会での質疑は何度も切り取られ、SNSへ投稿された。「五千億円の遺族」「税金で大企業救済」「社員は共犯」「被害者が会社を殺す」という短い言葉が急速に広がった。一方で、黒瀬が六百二十億円を海外へ移した記録と、彩香が娘の給料への不安を語る映像も共有された。これまで被害者へ向けられていた言葉の一部が、資金を動かした経営陣へ向かい始めた。
青葉総合医療センターの病室では、征一郎が国会中継の録画を見ていた。薄い青色の病衣の上へ灰色のカーディガンを羽織り、夕食の白菜と鶏肉の煮物を食べながら、奈々と彩香の発言を何度も聞き直していた。机には自分の資産を賠償基金へ移す同意書と、社員の給与を守る雇用維持案が並んでいた。
「これでご満足ですか、か」征一郎はテレビを止めた。
「誰へ言っているのです」見舞いに来た澪が尋ねた。
「私へだ。会社を大きくし、家族へ財産を残し、日本一になったつもりだった」
「満足していましたか」
「満足する暇がなかった。次の利益、次の工場、次の順位ばかり見ていた」
「では、今の社員が失業し、被害者が非難されれば満足ですか」
「するはずがない」
「それなら、満足かどうかではなく、誰が何をしたか話してください」
「国会へ出ろというのか」
「認知症の状態を医師に確認し、無理のない時間なら可能です。逃げずに、自分の署名について話してください」
征一郎は残った煮物の人参を箸でつまんだ。以前は嫌いだからと皿の隅へ残していたが、今日は時間をかけて噛んだ。テレビの中では、社員と被害者が同じ卵焼きを分けていた。彼らを向かい合わせた請求書の上には、征一郎の署名と黒瀬の資金移動が重なっていた。
「失業者が何万人出ても、被害者を優先するのかと聞かれたら、どう答える」
「どちらも見捨てないと答えます」
「そんなきれいな答えで、国会が納得するか」
「納得させるためではありません。実行するために仕組みを出します」
「失敗したら?」
「責任者の名前を隠さず、また直します」
「私は、失敗するたびに担当者を替えてきた」
「今度は自分の名前を残してください」
征一郎は国会へ提出する陳述書を開いた。最初の一行に「天城グループの過去の不正と隠蔽について、当時の会長である私に責任があります」と書いた。文字は震え、途中で同じ言葉を二度書いたが、澪は消しゴムを渡しただけで文章を直さなかった。窓の外では、病院職員が一日分の白いシーツを物干しへ掛けていた。
会社が終わるのか、被害者が満足したのかという二つの問いだけでは、何万人もの暮らしは守れなかった。被害者が請求を取り下げれば、隠した者が得をし、社員の給与から払えば、新しい家族が住居を失う。天城を存続させるなら、過去の王を守る会社ではなく、働く人へ給与を払いながら、奪ったものを長い年月をかけて返す会社へ変えなければならなかった。SNSの短い言葉では収まらないその責任を、征一郎は自分の名前で国会へ持っていくことにした。




