第20話 誰が得をしているのか
第20話 誰が得をしているのか
国会での質疑から三日後、天城グループの部長以上、四百二十六人に対する個人資産の仮差押えが始まった。会社の不正を知りながら決裁や隠蔽へ関わった共同責任者として、預金、不動産、有価証券を動かせないようにする命令が裁判所から出たのである。朝のニュースでは、高級住宅の門へ執行官が入る映像と、銀行の窓口で通帳を握る元部長の姿が繰り返し流された。画面の下には「被害者救済へ前進」「幹部の逃げ得を許すな」と大きな文字が表示されていた。
元人事部長の大島正人の家にも、午前七時に書類が届いた。白いワイシャツへ腕を通したところで呼び鈴が鳴り、片方の袖を垂らしたまま玄関へ出た。食卓には冷めた味噌汁、梅のおにぎり、昨夜買ったアジの開きが一人分だけ並んでいた。執行官から書類を受け取ると、自宅と預金口座が仮差押えの対象になったことが記されていた。
「この家もですか」
「現時点で売却や名義変更ができなくなります」
「住宅ローンは完済しています。妻と暮らすために三十年払いました」
「異議がある場合は、代理人を通じて申し立ててください」
「生活費は引き出せるのですか」
「裁判所が認める範囲に限られます」
「今日の食費はどうすればいい」
「私には判断できません」
執行官が帰ると、大島は玄関へ座り込んだ。靴箱の上には、息子が小学生の頃に作った木製の写真立てが置かれていた。運動会で三人が並んだ写真の中で、妻は白い帽子をかぶり、息子は口の周りに焼きそばの青海苔をつけていた。大島だけは午後の会議へ戻るため、紺色のスーツを着たままだった。
「三十三年働いて、最後は家まで取られるのか」
大島の携帯電話が鳴った。電話をかけてきたのは、五年前に離婚した妻だった。仮差押えのニュースを見たという。大島は写真立てを伏せず、食卓の椅子へ座った。
「家を売るつもりなの」
「売れなくなった。裁判が終わるまで動かせない」
「私の持ち分は残っていないの?」
「離婚のとき、私の名義にした」
「あなたが住み続けると言ったからよ」
「分かっている」
「兄を亡くした人や解雇された人には、払わなければならないと思う。でも、私と息子まで隠蔽へ加わったことになるの?」
「ならない。二人の生活へ負担をかけないよう、私が異議を出す」
「また一人で決めるのね」
「では、どうすればいい」
「まず、息子にも話して。家族のためと言って、結果だけ知らせるのはやめて」
電話が切れると、大島は梅のおにぎりを半分に割った。以前なら妻と息子の分も並んでいた食卓で、一人分さえ食べ切れなくなっていた。自分が希望退職者名簿を作り、何百人もの家族へ同じ朝を与えたことは消えない。だが、部長だったという理由だけで、関わっていない不正まで全額の共同責任を負わせることが正しいのかは分からなかった。
天城グループ本社では、管理職たちが会議室へ集まっていた。紺色のスーツ、作業服、事務服の者が机を囲み、銀行口座を止められた通知を見せ合っていた。経理部長は子どもの大学授業料を振り込めず、工場長は要介護の母親が入る施設の費用を引き出せなかった。机にはコンビニのパンや冷めたカップ麺が置かれていたが、誰も食べようとしなかった。
「部長以上なら全員共犯なのか」
「私は昨年昇進したばかりです」
「不正を知らなかったでは済まないと言われました」
「知る権限さえ与えられていなかった」
「被害者へ払う金だから、黙って家を渡せというのか」
「反対すれば、また被害者攻撃だと書かれるぞ」
佐藤彩香は会議室の後ろで発言を聞いていた。彼女は部長代理だったため、今回の仮差押えの対象には入っていなかった。昨日まで同じ机で働いていた上司が、通帳を止められ、家族の薬代を心配している。携帯電話を開くと、SNSには「幹部ざまあ」「家を失って灰街へ行け」という書き込みが並んでいた。
「これで誰が助かるのですか」彩香が声を上げた。
「佐藤君、君は対象外だから言えるんだ」
「私が聞いているのは、皆さんの家が凍結されて、被害者へいくら渡ったのかということです」
「まだ一円も渡っていない」
「では、差し押さえた財産は、今どこにあるのですか」
「裁判が終わるまで保全される」
「その間、誰が利益を得るのでしょう」
同じ疑問を、航も灰街の簡易宿泊所で調べていた。黒いパーカーの袖をまくり、傷だらけの机へ三台の小型端末を並べていた。窓辺には洗った靴下とタオルが掛かり、卓上には冷めたカップ麺と、開封した魚肉ソーセージが残っていた。差し押さえ対象者の不動産情報が、裁判所の命令より前に海外の投資ファンドへ渡っていた形跡を見つけた。
「まだ売れない家を、もう値踏みしている」
海外の投資ファンド「ノース・クラウン」は、天城グループの社債を額面の二割で買い集めていた。会社が倒産すれば、担保に入っている工場、倉庫、社員寮を優先的に取得できる。さらに、仮差押えを受けた元幹部へ生活資金を高金利で貸し、裁判後に不動産を安く買い取る契約書まで準備していた。ファンドの実質的な出資者をたどると、黒瀬の海外関連会社へ行き着いた。
「黒瀬は、会社が潰れるほど儲かる仕組みを作っているのか」
航は澪へ暗号化した資料を送った。数分後、法律事務所から返信があり、原本を複製して別の場所へ保管するよう指示された。航が端末を閉じると、宿の主人が扉をたたき、炊き込みご飯のおにぎりを一つ差し入れた。具は牛蒡と油揚げだけだったが、温かい醤油の匂いがした。
「若いの、顔色が悪いぞ。食ってから続きをやれ」
「ありがとうございます。でも、急がないと家を取られる人がいます」
「飯を食わずに倒れたら、その人たちの家は戻るのか」
「戻りません」
「なら食え。働くことと、自分を壊すことを一緒にするな」
その日の午後、澪の法律事務所には、大島、彩香、奈々、真鍋が集まった。机には仮差押え命令の写し、管理職の決裁記録、航が見つけた投資ファンドの資料が並んでいた。奈々は黒いワンピースの上へ白いカーディガンを羽織り、保温容器から白菜と豚肉のスープを紙コップへ分けた。湯気と生姜の匂いが、古い紙とインクの匂いへ混じった。
「被害者側が、部長以上全員の仮差押えを求めたのですか」大島が尋ねた。
「一部の弁護団が申し立てました」澪が答えた。
「私たちの委員会ではありません。誰がどの不正へ関与したか、個別に調べるべきだと主張しました」
「それでも裁判所は認めた」
「会社が資産を海外へ逃がしているため、広く保全する必要があると判断されました」
「私は希望退職者名簿を作った。責任があることは認めます」
「だからといって、住民データの売買や死亡事故すべてへ共同責任を負うとは限りません」
「被害者の金を減らすために、私を助けるのですか」
「責任のない人から取れば、責任のある人が逃げます。あなたを助けることと、あなたのしたことを免除することは別です」
奈々は紙コップのスープを机へ置いた。兄の事故を隠す決裁へ署名した者から、財産を回収してほしいと思っていた。しかし「部長以上」という肩書だけで、事故を知らない者の家や介護費まで奪うことは、兄の名前で新しい家族を追い出すことになる。被害者なら何をしても正しいと言われるのは、兄の死を別の目的へ使われることでもあった。
「私の兄の報告書へ署名した人には、責任を取ってもらいます」奈々は大島を見た。
「私の署名はありません」
「確認しました。あなたは事故の処理に関わっていません」
「でも、別の社員を退職へ追い込みました」
「その人たちには、あなた自身が説明してください。私の兄の分まで背負わせるつもりはありません」
「私の家の仮差押えへ、反対してくれるのですか」
「反対するのではありません。あなたの責任に合った範囲へ直してほしいだけです」
「被害者が、加害者側の財産を守るのですか」
「肩書だけで一括りにする会社のやり方を、私たちまで繰り返したくありません」
澪は管理職を三つの区分へ分ける案を示した。不正を指示し、利益を受け取った者には、全資産を対象とする厳しい保全を求める。不正を知りながら決裁や隠蔽へ関与した者には、関与した被害の範囲で責任を負わせる。情報へ触れる権限がなく、不正を知り得なかった者は、肩書だけを理由に対象としない。
「そんな区分を作れば、全員が知らなかったと言います」真鍋が指摘した。
「だからメール、議事録、決裁書、報酬記録で判断します」澪が答えた。
「書類を残さなかった者は?」
「証言と資金の流れを照合します」
「時間がかかります」
「時間を理由に、無関係な家族から取ることはできません」
「その間に資産を隠されたら?」
「疑いの根拠がある者へは、仮差押えを維持します。ただし、最低限の生活費、医療費、子どもの学費は使えるよう求めます」
航から届いた資料が大きな画面へ表示された。ノース・クラウンが天城の社債を買い集め、工場と社員寮を取得しようとしていることが示された。黒瀬は会社を守ると発言しながら、裏では会社の価値が下がるほど利益を得る立場にいた。部長以上の家が市場へ出れば、同じファンドの関連不動産会社が安値で買う計画もあった。
「誰が得をしているのか、これで分かりましたね」彩香が言った。
「被害者ではありません。現在の社員でもありません。仮差押えを受けた家族でもない」
「黒瀬だけか」大島が尋ねた。
「黒瀬へ資金を出した投資家、安く工場を買う企業、高金利で金を貸す業者もです」
「会社が潰れれば、彼らは儲かる」
「社員と被害者が争い、時間を失うほど、安く買える資産が増えます」
「私たちは、また争わされていたのか」
「不安も怒りも本物です。でも、向ける相手を選ばされています」
国会でも、部長以上を一律に共同責任者とすることが問題になった。経済産業委員会では、野党議員の水城が、四百二十六人の関与を個別に確認したのかと政府へ質問した。経済産業大臣は、仮差押えは司法判断だと答えたが、金融当局が提供した資料に役職一覧しか含まれていなかったことを認めた。委員会室には紙をめくる音が広がり、傍聴席では管理職の家族と事故の遺族が並んで座っていた。
「部長以上なら共同責任者、という考え方は、天城グループが社員を数字で切った方法と同じではありませんか」水城議員が尋ねた。
「迅速な被害者救済のため、広い資産保全が必要でした」
「迅速と言いながら、被害者へ支払われた金は増えていません。一方で、投資ファンドが家と工場を値踏みしています」
「その件は調査中です」
「誰のための迅速さだったのですか」
「政府として、差押え対象者の関与を精査します」
「精査する前に家族の口座を止めたのですか」
「生活に必要な費用については、柔軟に対応します」
「薬代や学費は、柔軟という言葉を食べて払えるのですか」
傍聴席で聞いていた奈々は、兄の写真を膝へ置いた。隣には大島の元妻と、成人した息子が座っていた。息子は父親と同じ形の眉を持ち、紺色のシャツの袖を何度も折り返していた。休憩時間になると、大島が二人の前へ来た。
「来てくれたのか」
「家のことを説明してもらうためです」元妻が答えた。
「私がした退職強要については、責任を負う」
「家を渡せば済むの?」
「済まない。関わった人へ会い、払うべき額を決めてもらう」
「私たちへ戻ってきてほしいの?」
「それを求める資格があるとは思っていない」
「では、なぜ電話した」
「自分一人の家だと思って処分しようとしたからだ。あの家には、二人が暮らした時間も入っている。勝手に決めてすまなかった」
息子は紙袋から、母親が作った昆布のおにぎりを一つ出した。三つ持ってきたうち、一つが余っていた。父へ渡すか迷ったあと、袋ごと差し出した。
「これで許したわけじゃないから」
「分かっている」
「何でもそれで済ませるなよ」
「では、何と言えばいい」
「分からないなら、黙って食べればいい」
「……ありがとう」
大島は廊下のベンチへ座り、昆布のおにぎりを食べた。海苔は少し湿り、米には妻が昔よく入れていた白胡麻が混じっていた。三十三年間働いて建てた家を守りたい気持ちと、自分が退職へ追い込んだ人へ償わなければならない責任は、どちらか一方を捨てれば済む話ではなかった。だからこそ、肩書ではなく、何を決め、誰から利益を受け取ったのかを一件ずつ調べる必要があった。
青葉総合医療センターでは、征一郎が国会中継を見ながら、歴代役員の報酬一覧へ印をつけていた。病衣の上へ灰色のカーディガンを羽織り、夕食の鶏そぼろご飯を半分食べたところだった。机には部長以上四百二十六人の一覧と、黒瀬の投資ファンドへ流れた資金記録が置かれていた。澪が病室へ入ると、征一郎は赤い鉛筆を止めた。
「部長以上を全員、共同責任者にしたのは間違いか」
「肩書だけで決めたことが間違いです」
「上に立つ者には責任がある」
「あります。ただし、責任の内容と重さは同じではありません」
「私と、去年昇進した部長を同じにするなということか」
「はい。あなたは最終決裁者で、利益も受け取りました」
「では、私の資産は差し押さえてよい」
「必要な治療費と生活費を残し、責任に応じて基金へ移します」
「大島は?」
「退職強要へ関与した範囲で責任を調べます。小野寺直人さんの死亡事故まで背負わせません」
「そうすれば、賠償金が減る」
「黒瀬と歴代役員から、本来の金を回収します」
「足りなければ?」
「足りないからと、関係の薄い人へ請求書を回さないことです」
征一郎はノース・クラウンの資料を開いた。会社の株価が下がり、社員が解雇され、管理職の家が売られるほど、黒瀬と投資家は利益を得る。被害者、現役社員、管理職の家族が互いを責めている間に、工場と土地と住居が安値で集められていた。誰が得をしているのかという問いは、責任の向きを確かめるために必要だった。
「私は会社が大きくなれば、皆が豊かになると思っていた」
「実際に豊かになったのは誰ですか」澪が尋ねた。
「私と家族と役員と大株主だ」
「その下で、給与を減らされた人もいました」
「今度は賠償の名で、別の家族の家を奪おうとした」
「だから止めます」
「被害者から反対されてもか」
「被害者のためという名目で、関係のない人を被害者にしないためです」
「全員が納得すると思うか」
「思いません。でも、納得しない人がいることを理由に、一律で奪うのはやめます」
征一郎は一覧の上から、関与を示す証拠がない者の名前へ青い印をつけた。赤い印は不正を指示した者、黄色い印は決裁へ関与した疑いがある者とし、色だけで結論を出さず、証拠を確認することも書き添えた。認知症のため同じ人物へ二度印をつけることがあり、澪が指摘すると、消しゴムでゆっくり消した。窓辺には洗ったハンカチが一枚干され、消毒薬の匂いに夕食の生姜の香りが混じっていた。
部長以上という一つの線で四百二十六人を切れば、調査は早く終わる。しかし、その速さで利益を得るのは、被害者でも現役社員でも、家を凍結された家族でもなかった。責任を曖昧にしたまま資産を安く集め、不安へ高い利息をつける者たちだった。征一郎たちはようやく、誰から取れば早いかではなく、誰が利益を受け取り、誰が決裁し、誰が隠したのかを一人ずつ確かめる作業へ戻った。




