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第21話 全部売れば何が残る

第21話 全部売れば何が残る


 天城グループが所有する不動産と工場をすべて売却すれば、いくらになるのか。航が出した暫定査定額は、一兆一千六百億円だった。四千九百八十七億六千万円の賠償額を上回り、数字だけを見れば、全額を払っても金が残るように見えた。その情報が報道されると、SNSには「工場を全部売れ」「被害者へ今すぐ払え」「会社を残す必要はない」という書き込みが並んだ。


 青葉総合医療センターの病室で、征一郎は新聞を両手で広げていた。薄い青色の病衣の上へ灰色のカーディガンを羽織り、朝食の白粥には梅干しを細かく崩していた。小皿には人参と高野豆腐の煮物が残り、窓辺では前日に洗ったハンカチが冷房の風で揺れていた。記事の見出しには、「天城、不動産売却で賠償可能」と大きく書かれていた。


「一兆円以上になるなら、全部売ればよいではないか」征一郎は新聞を机へ置いた。

「それで全額を払えるのか」

「査定額と、実際に残る金は違います」澪が答えた。

「土地と建物を売れば、代金は入るだろう」

「工場には銀行の担保がついています。売却代金から借入金を返し、税金や設備の撤去費用を払わなければなりません」

「それでも五千億円くらいは残る」

「通常の売却なら、可能性はあります。でも、今は天城が金に困っていることを、買い手全員が知っています」

「足元を見られるというのか」

「すでに見られています」


 航は小型端末へ、買い手から届いた入札書を表示した。簿価三百億円の精密機器工場に提示された価格は八十億円、二百二十億円の物流拠点には四十五億円だった。さらに買い手は、従業員を引き継がず、設備の撤去費用も天城へ負担させる条件をつけていた。すべてを急いで売却した場合、手元に残る金は三千百億円ほどで、賠償額には届かなかった。


「一兆一千六百億円の資産を売って、三千百億円しか残らないのか」

「担保権者への返済が二千九百億円、税金と撤去費用が千七百億円、緊急売却による値下がりが三千九百億円です」

「工場を動かしたまま売れ」

「操業に必要な材料費と給与を止めたのは黒瀬です」

「ならば運転資金を戻せ」

「海外へ移された六百二十億円は、まだ凍結手続きの途中です」

「裁判所も政府も、何をしている」

「誰かを急かして解決する問題ではありません」


 征一郎は新聞を折り畳み、白粥を一口食べた。以前の彼なら、査定額と売却額の差を担当役員の無能として処理し、その日のうちに責任者を交代させていただろう。だが、安値の入札を出している企業の一覧には、ノース・クラウンと関係する会社が十七社も含まれていた。黒瀬は会社から運転資金を抜き、支払いに困らせたうえで、海外の投資ファンドを通じて工場を安く買おうとしていた。


「全部売れと叫んでいる者の中に、買い手がいるのだな」

「SNSの投稿を調べると、同じ広告会社が管理するアカウントが多数あります」航が答えた。

「会社を潰せ、工場を売れ、被害者へ払えと書きながら、裏では入札企業の宣伝をしています」

「被害者のためではないのか」

「被害者の怒りを利用しています。工場が安く手に入れば、賠償金が不足しても買い手は困りません」

「また、誰が得をするかという話か」

「はい。全部売れば解決するという言葉ほど、誰が安く買うかを確かめなければなりません」


 同じ日の午前、天城精密機器北関東工場では、売却に反対する社員集会が開かれていた。工場長の山根は青い作業服を着て、油の染みた帽子を両手へ持っていた。食堂の机には、社員が持参した塩むすび、卵焼き、昨夜の残りの唐揚げが並び、機械油と温かい味噌汁の匂いが混じっていた。壁には、工場の売却価格八十億円と書かれた紙が貼られていた。


「この工場を売れば、賠償へ回せるそうです」若い社員が言った。

「では、売ったあとの仕事はどうなりますか」

「買い手は雇用を引き継がないと通知しています」山根が答えた。

「五百四十人全員が解雇ですか」

「直接雇用だけで五百四十人です。清掃、給食、運送、部品会社を含めれば、二千人以上の仕事へ影響します」

「それでも、被害者へ払うためなら仕方がないと言われるのでしょうか」

「仕方がないで終わらせれば、この工場も灰街と同じになります」


 社員の一人である西村は、作業服の胸ポケットから娘の写真を取り出した。娘は看護学校へ通い、来年から病院で働く予定だった。学費のために西村は夜勤を増やし、妻はスーパーの総菜売り場で夕方まで働いていた。工場がなくなれば、残りの学費を払えなかった。


「うちの娘は、事故でけがをした人を助ける看護師になると言っています」西村は写真を机へ置いた。

「その被害者への賠償のために、学校をやめろとは言えません」

「では、賠償に反対するのか」別の社員が尋ねた。

「反対しません。でも、工場を安く買う投資家のために、娘の学校を諦めるつもりもありません」

「全部を守る方法などあるのか」

「分かりません。だから、売却を決める前に私たちへ説明してほしいんです」


 工場の外には、部品を納める小さな会社の経営者も集まっていた。三十人を雇う金属加工会社の社長は、茶色い作業着の袖口を糸で繕っていた。天城工場が止まってから売上の七割が消え、社員の給与を払うため、自宅を担保へ入れていた。売却先が部品を海外から調達すれば、工場が残っても自分たちの仕事はなくなる。


「土地と建物だけの値段で決めないでください」社長は山根へ言った。

「この工場には、うちの会社が三十年かけて覚えた技術も入っています」

「天城があなた方へ安い価格を押しつけてきたことも聞いています」

「それでも、仕事そのものをなくしてほしいとは思いません」

「適正な価格で契約し直せば、続けてくれますか」

「続けたいです。社員はみんな、この町で家を借り、子どもを学校へ通わせていますから」


 午後、工場の社員と取引先の代表は、澪たちとのオンライン会議へ参加した。病室の壁へ大きな画面を置き、征一郎も椅子へ座って話を聞いた。澪は白いブラウスに紺色のパンツを合わせ、奈々は黒いワンピースの上へ茶色いカーディガンを羽織っていた。机には工場の査定書、雇用者名簿、取引先一覧が広げられ、奈々が買ってきた豆大福が紙袋に入っていた。


「全部売らなければ、賠償金が足りません」奈々が問題を示した。

「全部売れば、今度は現在の社員が被害者になります」山根が答えた。

「では、被害者へ支払いを諦めてもらいますか」

「それも違います」

「工場を残しながら、金を作る方法を出してください」

「私たちは生産できます。設備を動かせば利益を出せます」

「これまでのように安い賃金と無償残業で、ではないでしょうね」

「残業代と安全費を払ったあとでも、年間三十八億円の利益が見込めます」


 山根は新しい事業計画を提示した。工場を土地ごと売るのではなく、土地と建物を賠償基金の所有へ移し、事業会社が適正な賃料を払って使い続ける。賃料は賠償へ回り、工場で生まれた利益の一部も基金へ支払う。社員と取引先の仕事を残しながら、二十年間で売却額を上回る金を生み出す計画だった。


「二十年後まで工場が存続する保証はない」征一郎が言った。

「今すぐ八十億円で売れば、二十年後どころか来月の仕事もありません」山根が答えた。

「設備が古くなれば、更新費用も必要だ」

「利益から先に安全と設備へ投資し、残りを賠償へ回します」

「それでは支払いが遅い」

「工場を止め、二千人が失業すれば、税金も社会保険料も入らず、生活支援の費用が増えます」

「会社の賠償と、国の費用を混ぜるな」

「暮らす人にとっては、同じ財布から出ていく金です」


 征一郎は黙って査定書を見た。工場を売れば八十億円が一度だけ入る。操業を続ければ、賃料と利益から二十年間で四百億円近くを賠償基金へ払える可能性があった。だが、そのためには設備投資、社員の給与、取引先への適正な支払いを先に認めなければならない。以前の征一郎なら、それらを削って利益を増やせと命じていた。


「社員が工場を管理するのか」

「社員、取引先、被害者基金から理事を出します」澪が答えた。

「素人を経営へ入れるなと言いたいところだ」

「会長と役員だけで経営した結果を、忘れましたか」

「忘れてはいない」

「認知症の症状があるから、ノートへ書いているのでしょう」

「そういう意味で言ったのではない」

「では、最後まで話を聞いてください」


 奈々は豆大福の袋を開け、半分に切った。病院の許可を得た征一郎の分は四分の一だけだった。柔らかい餅から餡の甘い匂いが広がり、征一郎は小さすぎると文句を言いかけたが、そのまま口へ入れた。画面の向こうでは、夜勤明けの社員が冷めた味噌汁をすすっていた。


「被害者側は、工場を残す案へ賛成するのですか」西村が奈々へ尋ねた。

「賠償が遅れることには、すぐ賛成できません」

「娘が学校をやめても、工場を売れと言いますか」

「そうは言いません。でも、私の母も何年も兄を待ちました」

「どちらを選ぶのですか」

「どちらかを選ばせない案が、本当に実行できるか確かめます」

「信用してくれますか」

「今はまだ信用ではありません。契約と監査で確かめます」


 すべての工場を同じ方法で残せるわけではなかった。設備が壊れ、受注もなく、再開すれば損失だけが増える工場もあった。その場合は、ただ閉鎖するのではなく、社員の転職、職業訓練、取引先の事業転換、地域の再利用計画を先に決める。土地を売った金は賠償だけへ回さず、そこで働いていた者の次の暮らしを作る費用にも使うことになった。


「被害者の金を、解雇される社員へ使うのですか」奈々が尋ねた。

「売却によって生じる新しい被害を防ぐ費用です」澪が答えた。

「そうすると、私たちへの支払いはまた減ります」

「一時的には減ります。でも、何万人も失業すれば、会社の利益も税収も消え、長期賠償そのものが不可能になります」

「先のために、また待てというのですね」

「はい。簡単な答えではありません」

「いつまで待てばいい」

「緊急補償は先に払います。残額は工場ごとの収益を公開し、支払い予定を毎年見直します」

「予定どおり払えなかったら?」

「理由を公開し、経営陣の報酬を先に削ります。社員の給与を先に削ることは禁止します」


 征一郎はノートへ「売る工場」「残す工場」「作り替える工場」と三つの欄を作った。だが、自分一人で工場名を書き込むことはしなかった。現場の社員、取引先、被害者、地域の代表が資料を確認し、工場ごとに判断することになった。時間はかかるが、全部売却という一行の命令で町ごと消すより必要な時間だった。


 その夜、北関東工場では久しぶりに一部の機械が動いた。油と熱せられた金属の匂いが建物へ戻り、青い作業服を着た社員が安全確認を行った。西村は休憩室で妻が作った梅のおにぎりを食べ、看護学校へ通う娘から届いた写真を見た。娘は白衣の実習着を着て、病院の廊下で笑っていた。


「工場、なくならないの?」娘から電話がかかってきた。

「まだ分からない。でも、全部を売る話はいったん止まった」

「学校を続けてもいい?」

「続けなさい。そのために、父さんも話し合う」

「夜勤、増やすの?」

「増やさない。前みたいに体を壊したら、またお前に怒られる」

「ちゃんと夕飯も食べてね」

「今日はお母さんのおにぎりを二個食べた」

「野菜も食べなきゃ駄目だよ」


 西村は電話を切り、弁当箱に残ったほうれん草の胡麻和えを口へ入れた。工場を全部売れば、帳簿には大きな現金が入り、賠償の一部をすぐ支払える。しかし、機械と土地だけでなく、そこで働く人の家、子どもの学校、食堂へ食材を運ぶ店、部品を作る小さな工場まで失われる。売却額には、その暮らしの値段が含まれていなかった。


 青葉総合医療センターの病室で、征一郎は三つの欄があるノートを開いていた。窓辺には洗った病衣が掛けられ、夕食の焼き魚と大根おろしの匂いが残っていた。全部売却という文字へ一本の線を引き、その下へ「使える工場は、働いて返す」と書いた。


「それでも賠償が終わらなかったら、どうするのです」澪が尋ねた。

「会社が続く限り払い続ける」

「会社を残すことが、また目的になりませんか」

「残すのは王の城ではない。働く場所と、返し続ける力だ」

「言葉だけなら、以前と同じです」

「だから、私に決定権を戻さない契約にする」

「本当に戻れなくなりますよ」

「全部売って何も残らないより、私が戻れない会社を残す」


 会社の不動産と工場をすべて売れば、征一郎の王国は確かに消えた。しかし同時に、賠償を払い続ける利益も、何万人もの仕事も、町の食堂や学校を支える金も消える。必要なのは、売れるものを急いで現金へ変えることではなかった。誰かの城としてしか役に立たない資産は売り、働く場所として価値を生む工場は、所有と経営を変えて残すことだった。



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