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第22話 二人の女王

第22話 二人の女王


 天城グループ本社の最上階では、臨時取締役会を三日後に控え、次期グループCEOを巡る動きが始まっていた。会長室は征一郎が不在になってから閉鎖され、扉には警備会社の封印が貼られていた。廊下の窓からは朝の光が差し、清掃員が磨いた床には役員たちの黒い靴が映っていた。給湯室には誰かが残した冷めたコーヒーと、ひと口だけかじられたバタークッキーが置かれていた。


 麗華は赤いジャケットに黒いタイトスカートを合わせ、社長室の大きな机で取締役会の資料を読んでいた。征一郎から譲られた株式は、グループ全体の議決権の十八パーセントを占めていた。自分が長女であり、社交界や取引先に最も顔が利く以上、CEOになるのは当然だと考えていた。だが、取締役の一部は妹の美冬を支持し、麗華が命じたはずの人事異動まで保留にしていた。


「どうして美冬の承認が必要なの。社長は私でしょう」麗華は秘書が運んできた資料を机へ放った。

「美冬様が、会長代行として人事を再審査すると通知してきました」

「誰が会長代行にしたのよ」

「征一郎会長の療養中は、主要株主の合意で決めると定款にあります」

「主要株主なら私よ。美冬より先に生まれ、父の隣で何年も会社を見てきたの」

「美冬様も、同じ十八パーセントをお持ちです」

「同じであるはずがないでしょう」


 麗華は銀色のコーヒーポットを持ち上げたが、中身はすでに冷めていた。秘書へ新しいものを命じかけ、カップに残ったコーヒーをそのまま飲んだ。苦みが舌へ広がると、子どもの頃、美冬と同じ白いワンピースを着せられた日のことを思い出した。麗華が嫌がると、征一郎は姉妹が同じように見えるほうが美しいと言い、二人の違いを尋ねようとはしなかった。


「美冬へ伝えて。臨時取締役会で、私をグループCEOに指名する動議を出します」

「美冬様が反対した場合は?」

「反対させなければいいのよ。あの子の支持者へ、こちらの役職を渡しなさい」

「航様の調査で、役職を条件に議決権を集める行為が問題になっています」

「航は追放された人間よ。もう会社とは関係ありません」


 同じころ、美冬は本社から車で二十分ほど離れた会員制ホテルにいた。薄い水色のワンピースへ真珠の耳飾りを合わせ、窓際の席で黒瀬を待っていた。白いクロスの上には苺のタルトと紅茶が用意されていたが、美冬はタルトの苺だけをフォークで何度も転がしていた。窓の外では庭師が濡れた芝を刈り、青い草と紅茶の香りが開いた窓から入ってきた。


「お待たせしました」黒瀬は濃紺のスーツに銀色のネクタイを合わせ、美冬の向かいへ座った。

「十五分も待ったわ」

「麗華社長に気づかれないよう、裏口を使いました」

「お姉様の名前を、私の前で出さないで」

「失礼しました。今日は美冬さんの未来について、大切なお話があります」

「会社の話なら、取締役会でしてください」

「会社だけではありません。私たち二人の話です」


 黒瀬は小さな箱を取り出し、美冬の前へ置いた。中には大粒のダイヤモンドがついた指輪が入っていた。美冬はフォークを皿へ置き、箱へ手を伸ばしかけたが、すぐに指を引いた。黒瀬は急かさず、紅茶へ角砂糖を一つ入れてゆっくりかき混ぜた。


「私に結婚を申し込んでいるの?」

「はい。征一郎会長から正当に受け継いだものを、一緒に守りたいと思っています」

「会社を守りたいの。それとも、私の株が欲しいの?」

「結婚すれば、あなたの株と私が集めた議決権を統合できます。麗華社長に対抗し、あなたをCEOへ就けられます」

「私をCEOにして、あなたは何になるの?」

「夫として、経営を支える共同代表になります」

「共同代表なら、結局あなたも頂点に立つのでしょう」

「夫婦が同じ方向を見るのは、当然ではありませんか」


 美冬は指輪を箱から出さず、蓋だけを静かに閉じた。黒瀬から初めて食事へ誘われた夜、彼は美冬の話を最後まで聞き、麗華と比べなかった。征一郎から「姉より決断が遅い」と言われて育った美冬にとって、それだけで自分を理解してくれる人に見えた。しかし、結婚の話と議決権の話が同じテーブルへ並べられたことに、胸元の真珠を触る指が止まった。


「返事は、今でなくてもいいでしょう」

「もちろんです。ただ、臨時取締役会は三日後です」

「結局、急がせるのね」

「麗華社長は、あなたを取締役から外す準備をしています」

「証拠はあるの?」

「人事案の写しがあります」


 黒瀬は麗華が作成した取締役候補者一覧を見せた。美冬の名前には赤い線が引かれ、後任には麗華の側近が記されていた。黒瀬が意図的に修正した資料だったが、美冬には見分けられなかった。彼女は苺のタルトを一口も食べず、赤い線だけを見つめた。


「委任状へ署名していただければ、私が議決権を行使し、美冬さんを守ります」

「結婚の返事より先に、署名が欲しいの?」

「手続きを先にしておかなければ、間に合いません」

「私を裏切らないと約束できる?」

「私は、あなたを一人にしません」

「お父様も、家族を守ると言いながら、最後には株しか渡さなかった」

「私は違います」


 黒瀬が万年筆を差し出すと、美冬は委任状を読んだ。議決権の代理行使だけでなく、取締役の選任、定款変更、合併や資産売却にも同意できる内容だった。しかし難しい文言が何頁も続き、黒瀬は取締役会に必要な形式的書類だと説明した。美冬は指輪の箱へ一度触れたあと、最後の頁へ署名した。


「これで、私はCEOになれるのね」

「必ず、お守りします」

「指輪は、取締役会が終わるまで預けておくわ」

「慎重なところも、あなたの魅力です」

「お姉様には、何も言わないで」

「もちろんです。二人だけの約束です」


 黒瀬は委任状を革の鞄へ入れ、美冬の手へ口づけた。美冬が席を立つと、彼は食べ残された苺のタルトを見た。苺はフォークで何度も転がされ、表面の艶が一部剥がれていた。黒瀬は店員へ下げるよう命じ、自分の紅茶を最後まで飲んだ。


 その日の夕方、黒瀬は麗華の社長室を訪れた。麗華は白いブラウスへ着替え、赤いジャケットを椅子の背へ掛けていた。机には昼食に出されたサンドイッチが残り、胡瓜の端が乾いて反り返っていた。黒瀬は美冬との面会には触れず、取締役会で麗華をCEOへ推薦すると告げた。


「あなたは美冬に近いと思っていたわ」

「私は、強い経営者へ従います」

「それが私だと?」

「麗華社長には、決断力と人脈があります。ただし、単独で議決権の過半数を集めるのは難しい」

「あなたは何票持っているの?」

「私個人と協力株主を合わせて十五パーセントです」

「私の十八パーセントと合わせても、過半数には届かないわ」

「残りは私が集めます。そのために、麗華社長の議決権を預けていただきたいのです」


 黒瀬は別の委任状を机へ置いた。美冬へ渡したものと同じ内容だったが、表紙には「共同経営に関する合意書」と書かれていた。麗華は最初の数頁を読み、黒瀬へ疑いの目を向けた。黒瀬は社長室の窓から見える本社ビル群を指し、自分には会社を奪う理由がないと説明した。


「私は天城家の人間ではありません。単独でCEOになれば、社員も取引先も反発します」

「だから私を表へ立て、裏で会社を動かすつもり?」

「裏ではありません。麗華さんがCEO、私がCOOとして共同経営します」

「私の命令へ従うのね」

「経営方針は尊重します」

「尊重では足りないわ」

「最終的な対外判断は、CEOである麗華さんに委ねます」


 麗華は椅子から立ち、閉鎖された会長室の扉を見た。幼い頃から、あの部屋へ入るには征一郎の許可が必要だった。自分がCEOになれば、扉の封印を外し、父が使っていた黒檀の机へ座ることができる。美冬より先にそこへ入ることが、会社の将来より大切なことのように思えた。


「委任の期限は?」

「次回の株主総会までです。その後は更新できます」

「私の許可なく、資産を売却しないでしょうね」

「麗華さんの利益に反することはしません」

「美冬を取締役から外せる?」

「議決権が集まれば可能です」

「なら、やりなさい」


 麗華は高価な万年筆を取り出し、委任状の最後へ署名した。インクが乾く前に書類を重ねようとすると、黒瀬が吸取紙を差し出した。麗華はその気遣いを忠誠心だと受け取り、明日の夕食会へ黒瀬を招いた。美冬を外したあとの役員人事を、二人で相談するためだった。


「黒瀬、あなたを信じていいのね」

「信じられる者がいなければ、王座には座れません」

「私が天城の女王になるわ」

「ええ。そのために、すべて整えます」


 黒瀬が社長室を出ると、麗華は冷めたサンドイッチを一つ取り、乾いた胡瓜ごと口へ入れた。味はほとんどしなかったが、昼から何も食べていなかった腹には十分だった。机の引き出しには、美冬と同じ白いワンピースを着た幼少期の写真が入っていた。麗華は写真を裏返し、次期CEOの人事案を開いた。


 黒瀬は地下駐車場へ下り、自分の車の後部座席へ座った。革の鞄から二通の委任状を取り出し、麗華と美冬の署名を確認した。麗華の十八パーセント、美冬の十八パーセント、黒瀬自身と協力株主の十五パーセントを合わせれば、議決権は五十一パーセントになる。二人の姉妹は自分が女王になると思っていたが、王座の鍵はすでに黒瀬の手へ渡っていた。


「どちらをCEOへ推薦しますか」運転席の側近が尋ねた。

「どちらも推薦しない」

「麗華社長には共同経営を約束したのでは?」

「美冬には結婚を約束した」

「では、どちらかを裏切るのですか」

「二人とも、自分から議決権を預けたんだ。私は使い道を選ぶだけだ」

「結婚指輪はどうします」

「返してもらう必要はない。あれは会社の経費ではなく、私個人の投資だからね」


 車内には革張りの座席と、黒瀬が使う香水の匂いがこもっていた。ドリンクホルダーには飲みかけの水と、コンビニで買った黒糖パンが置かれていた。黒瀬は包装を開け、一口かじりながら二通の委任状を金庫付きの鞄へしまった。高価な指輪より、二人の署名のほうがはるかに大きな財産だった。


 翌朝、麗華と美冬は役員専用の廊下で顔を合わせた。麗華は赤いスーツ、美冬は白いジャケットと水色のスカートを着ていた。二人は同じエレベーターへ乗ろうとせず、互いの服装を上から下まで眺めた。廊下の窓辺には清掃員が持参した小さな弁当箱が置かれ、中には海苔を巻いたおにぎりと卵焼きが入っていた。


「ずいぶん早いのね、美冬」

「取締役会の準備がありますから」

「あなたに準備することがあるの?」

「お姉様こそ、社長室を片づけておいたほうがよいのではなくて?」

「どういう意味かしら」

「三日後には、使う人が変わるかもしれません」

「誰が座るというの?」

「私よ」


 麗華は一歩近づき、美冬の胸元に見慣れないダイヤモンドの首飾りがあることに気づいた。指輪と同じ店の箱に入っていた品を、美冬が鎖へ通して身につけていた。麗華が誰から贈られたのか尋ねると、美冬は首飾りを掌で隠し、姉には関係ないと答えた。二人の間を社員が通ろうとしたが、鋭い声に足を止め、別の廊下へ回った。


「あなたにCEOなど務まらないわ」

「お父様の言葉を、そのまま使うのね」

「私は長女よ」

「先に生まれただけで、会社が経営できるの?」

「少なくとも、男に助けてもらわなければ株も使えないあなたよりましよ」

「お姉様だって、黒瀬さんと共同経営するのでしょう」

「なぜ、それを知っているの」


 二人は同時に口を閉じた。麗華は美冬が黒瀬の名を親しげに呼んだことを聞き逃さず、美冬は姉の顔色が変わったことに気づいた。黒瀬が両方へ近づいている可能性が、初めて頭へ浮かんだ。しかし、ここで相手へ事情を話せば、自分が黒瀬を頼ったことまで知られてしまう。二人は問いただす代わりに、さらに相手を疑った。


「黒瀬に何を吹き込んだの」

「それは、こちらの台詞よ」

「私の議決権は、私が使うわ」

「もう遅いのではなくて?」

「何ですって?」

「取締役会で分かります」


 美冬は踵を返し、別のエレベーターへ乗った。麗華も社長室へ戻り、すぐに黒瀬へ電話をかけたが、応答はなかった。机には秘書が用意した朝食のクロワッサンと、温かいカフェオレが置かれていた。麗華はクロワッサンを握ったまま、何度も発信ボタンを押した。


 三日後の臨時取締役会で、黒瀬は二通の委任状を提出した。麗華と美冬が同時に立ち上がり、自分の議決権だと主張したが、委任状には代理人が判断して行使できると明記されていた。黒瀬は両者の票を使い、自分をグループCEOへ選任する動議を提出した。五十一パーセントの賛成で、動議は可決された。


「話が違うわ!」麗華は机を両手でたたいた。

「あなたは私をCEOにすると約束したでしょう」美冬も首飾りを握りしめた。

「私は、お二人を守ると申し上げました」

「これのどこが守ることなの」

「会社を争いから守りました。お二人は互いを排除することしか考えていなかった」

「委任を取り消すわ」

「取締役会の決議は、すでに成立しています」

「結婚の約束はどうするの」

「美冬、結婚ですって?」麗華が妹を振り返った。

「お姉様には関係ないわ」

「黒瀬、私には共同経営と言ったわね」

「必要な協力をお願いしただけです」


 取締役たちは目を伏せ、誰も姉妹を助けなかった。机には会議用の弁当が置かれ、焼き鮭、煮物、卵焼きが手つかずのまま冷めていた。麗華と美冬は初めて同じ方向を見たが、黒瀬の前にはすでにCEOと記された名札が置かれていた。二人の女王が互いの王冠を奪おうとしている間に、国そのものが黒瀬の手へ渡っていた。



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