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第23話 金の卵は誰のもの

第23話 金の卵は誰のもの


 黒瀬がグループCEOへ就任した翌朝、天城グループの公式サイトに「令和の金の卵育成制度」という採用計画が掲載された。地方の高校を卒業した若者を三年間で一万人採用し、社員寮へ住まわせながら、工場技術者として育てる計画だった。広告には白い作業服を着た若者たちが笑う写真と、「住居、食事、仕事をすべて会社が保障します」という言葉が並んでいた。閉鎖予定だった工場を再稼働できるうえ、人手不足も解消するとして、テレビや新聞は新しい雇用対策だと好意的に伝えた。


 灰街の「よりみち食堂」では、真鍋と早川が朝のニュースを見ていた。早川は灰色のポロシャツの上へ紺色の上着を羽織り、昨日から煮込んだ大根の味噌汁を飲んでいた。真鍋の皿にはアジの開きと麦飯があり、理恵は厨房で焦げた卵焼きの端を切り落としていた。画面に「金の卵」という文字が映ると、早川は箸を止めた。


「懐かしい言葉を持ち出したものだ」早川が言った。

「早川さんも、金の卵だったのですか」

「十五歳で青森から出てきた。集団就職列車に乗り、天城の前身だった工場へ入った」

「給料は?」

「今の金に直しても、ずいぶん安かった。寮費と食費を引かれ、残りの半分は実家へ送った」

「嫌ではなかったのですか」

「故郷では仕事がなかった。初めて自分で稼ぎ、家へ金を送れたことは誇らしかったよ」


 早川は味噌汁の底へ沈んだ大根を箸で割った。当時の寮では、六畳の部屋に四人が暮らし、冬でも湯の出ない洗面所で顔を洗った。昼間は工場で働き、夜は定時制高校へ通い、帰る頃には食堂の味噌汁が冷めていた。それでも仲間と一つの鍋を囲み、給料日に駅前であんパンを買うのが楽しみだった。


「会社に育ててもらったという気持ちもある」早川は続けた。

「では、黒瀬の制度へ賛成ですか」

「中身を見ずに、昔と同じ名前だから反対するつもりはない」

「中身を見たら?」

「寮費、食費、労働時間、退職の自由を確認する。私たちの頃は、それを聞く言葉さえ知らなかった」

「今の親が聞けば、モンスターペアレントと呼ばれますよ」

「子どもの給料や睡眠時間を尋ねる親まで怪物にしたら、会社のほうが化け物だ」


 黒瀬の制度で採用された第一陣は、すでに天城電子部品第一工場へ入っていた。十八歳の森川楓は、白い作業服に青い帽子をかぶり、午前七時から半導体部品の検査をしていた。社員寮の食堂で食べた朝食は、食パン一枚、ゆで卵、薄いコンソメスープだった。夜勤から日勤へ急に変更されたため、楓は三時間しか眠っておらず、検査機の緑色の光を見つめるたびに瞼が下がった。


「森川、また一個見落としたぞ」班長が不良品を作業台へ置いた。

「すみません。もう一度確認します」

「若いのに眠い顔をするな。俺たちの頃は二日くらい寝なくても働いた」

「昨夜は二時まで夜勤でした」

「人が足りないんだ。会社を再建するために協力しろ」

「寮へ戻ってもいいですか」

「今帰れば、研修評価を下げるぞ」


 昼休みの食堂には、鶏肉の照り焼き、キャベツの千切り、味噌汁が並んでいた。楓は箸を持ったまま机へ額をつけ、食事へ手をつけなかった。隣の席にいた同期の青年が肩を揺すると、楓は顔を上げようとして椅子から滑り落ちた。白い作業服の袖には朝にこぼしたコーヒーの染みが残り、ポケットから母親が持たせた苺柄のハンカチが落ちた。


「楓、大丈夫か」

「少し眠れば、戻れる」

「顔が白いぞ」

「研修評価を下げられたら、寮を出される」

「保健室へ行こう」

「お母さんには言わないで。心配して工場へ来るから」


 しかし同期は、楓の携帯電話から母親の美奈子へ連絡した。美奈子は地元のスーパーで総菜を作っていたが、仕事を早退し、電車を三本乗り継いで工場へ来た。桃色のブラウスに黒いパンツを着て、保冷バッグには楓の好物である鮭のおにぎりと、甘い卵焼きを入れていた。守衛室で面会を求めると、研修責任者は仕事中の社員へ家族を会わせられないと断った。


「娘は食堂で倒れたと聞きました」

「医務室で休んでいます。命に関わる状態ではありません」

「三時間しか眠っていないのに、作業を続けさせたのですか」

「本人が働きたいと希望しました」

「寮を追い出されると言われたからでしょう」

「会社の規律を守れない社員には、指導が必要です」

「娘に会わせてください」

「お母様が介入されると、本人の自立を妨げますよ」


 美奈子は保冷バッグの持ち手を強く握った。楓は高校を卒業するとき、自分で働いて母親を楽にすると言った。美奈子も、住居と食事が保障されるなら安心だと思い、天城の採用へ賛成した。だが寮費、食費、制服代、研修費を給料から差し引かれると、楓の手元には月に三万円ほどしか残らなかった。


「娘は十八歳です。会社の持ち物ではありません」

「成人した社員へ、親が口を出すのですか」

「成人したら、眠らせなくてもいいのですか」

「昔は若い社員も、会社のために夜通し働きました」

「昔の人が我慢したことを、なぜ娘も我慢しなければならないのです」

「こういう保護者が増えたから、若者が育たないのです」

「娘を守ろうとすると、モンスターペアレントですか」

「その言葉は使っていません」

「顔に書いてあります」


 美奈子は守衛室の椅子へ座り、楓へ会えるまで帰らないと告げた。保冷バッグの中では、鮭のおにぎりの海苔が湿り、卵焼きの表面に小さな水滴がついていた。守衛は困った顔で研修責任者を見たが、美奈子を追い出さなかった。彼にも同じ年頃の娘がいた。


 騒ぎを聞きつけた彩香は、経理資料を持って工場へ来た。水色のブラウスに紺色のスカートを合わせ、娘の授業参観へ行くため午後から休暇を取る予定だった。美奈子から事情を聞くと、新人社員の給与明細と寮費の徴収記録を確認した。研修費という名目で、最低賃金を下回る金額まで控除されていた。


「この研修費は、何に使われているのですか」彩香が責任者へ尋ねた。

「技術教育、生活指導、制服の貸与です」

「制服は返却させるのに、全額を社員へ負担させています」

「会社も経営が厳しいのです」

「だから、十八歳の給与から取るのですか」

「若いうちに苦労することは、本人の成長になります」

「苦労と搾取を、同じ言葉で包まないでください」


 責任者は顔を赤くし、彩香にも現場を知らない者が口を出すなと言った。彩香は自分の携帯電話を机へ置き、会話を記録していることを伝えた。美奈子も、楓を医療機関で診察させ、勤務記録と寮の契約書をすべて開示するよう求めた。二人の要求はその日のうちにSNSへ流れ、「モンスターペアレントが天城工場へ怒鳴り込み」という見出しで拡散された。


「十八歳の娘へ母親がついてくるな」

「昔の企業戦士は、親に泣きつかなかった」

「今の若者は三時間寝れば十分だろう」

「会社を潰したいのか」


 その一方で、楓の同期が撮影した寮の部屋も公開された。六畳の部屋に二段ベッドが三台置かれ、窓辺には乾かない作業服と靴下が重なっていた。夕食は冷めたコロッケ一個と千切りキャベツ、具のない味噌汁で、食費として月四万円が引かれていた。消灯後も作業の動画を見て報告書を提出させられ、提出しなければ生活信用指数が下がる仕組みだった。


 青葉総合医療センターで映像を見た征一郎は、病室の机へ古い社史を広げた。薄い青色の病衣の上へ灰色のカーディガンを羽織り、夕食の麦飯とサバの味噌煮を食べていた。社史には、昭和の集団就職で天城へ来た少年少女が、駅のホームで社旗を振る写真が掲載されていた。写真の下には「金の卵、我が社の未来」と書かれていた。


「私も、彼らが会社を支えたと教えられてきた」征一郎が言った。

「実際に支えたのでしょう」澪は白いブラウスに黒いパンツで、父の向かいへ座った。

「では、今の若者にも同じように働いてもらうことが、なぜ悪い」

「同じではありません。昔は終身雇用と年功序列があり、我慢すれば給与が上がり、家を持てるという約束がありました」

「今は約束がないのか」

「会社は三年契約で雇い、使えなくなれば寮からも出します。忠誠だけを昔と同じように求め、保障は外しています」

「昔の働き方も搾取だったと言う者がいる」

「搾取された部分はあります。でも、そこで技術を覚え、仲間を作り、暮らしを築いた人まで否定する必要はありません」

「では、何を残し、何をやめる」

「育てる責任を残し、黙って耐えろという命令をやめます」


 翌日、澪は楓、美奈子、早川、工場の若手社員を集め、公開の聞き取りを行った。会場は灰街の公民館で、天井の蛍光灯が一本だけ点滅していた。机には理恵が作った鮭のおにぎり、卵焼き、大根の味噌汁が並び、楓は白いシャツの上へ母親が持ってきた黄色いカーディガンを羽織っていた。美奈子は隣へ座ったが、娘の代わりに答えず、楓が話し始めるのを待った。


「私は、自分で天城へ入りました」楓は両手で湯飲みを包んだ。

「お母さんに無理やり入れられたのではありません」

「会社を辞めたいですか」澪が尋ねた。

「分かりません。検査の仕事は好きです。同期のみんなとも離れたくありません」

「では、何を変えてほしいですか」

「眠りたいです。給料から何が引かれているのか知りたいです。具のある味噌汁を食べたいです」

「それだけでいいの?」

「残業を断っても、寮を追い出さないでほしいです」


 会場の後ろで、早川が手を挙げた。十五歳で天城へ入ったときの寮生活を話し、厳しかったが、先輩が仕事を教え、夜学の授業料を会社が出したことも説明した。仕事中に手をけがした仲間を、寮母が毎日病院へ連れていったことも覚えていた。昔のすべてがよかったわけでも、すべてが悪かったわけでもなかった。


「私たちは、我慢するしかないと思っていた」早川は楓を見た。

「今の若い人が声を上げると、根性がないように見えることもある」

「やはり、私たちは弱いですか」

「違う。声を上げられるなら、上げたほうがいい。私の仲間には、声を上げないまま工場を去った者もいる」

「母が来たことは、恥ずかしいです」

「親に来てもらえるのは、悪いことではない。ただし、自分の希望は自分で話しなさい」

「はい」

「お母さんも、娘さんが話している間は待てますか」

「待ちます。でも、倒れたと聞いたら、また来ます」美奈子が答えた。

「それは仕方ない。私でも来る」


 会場に小さな笑いが起きた。美奈子は保冷バッグから卵焼きを取り出し、楓だけでなく同期の若者へも分けた。少し甘い味つけで、端の部分だけ焦げていた。楓は一口食べ、子どもの頃から同じ味だと笑った。


 天城の新人制度は見直されることになった。研修費と制服代の不当な控除を返還し、寮費と食費を実費まで下げ、夜勤と日勤の間には十分な休息時間を設ける。残業を断ったことや家族が問い合わせたことを理由に、生活信用指数や人事評価を下げることは禁止された。若者だけでなく、家族、寮の職員、現場の先輩が参加する委員会も作られた。


「親が会社へ口を出す時代になったのですね」研修責任者が征一郎へ不満を述べた。

「昔も、親は子どもを心配しただろう」

「会社へ怒鳴り込む親はいませんでした」

「電話も交通費もなかっただけかもしれん」

「モンスターペアレントへ譲歩すれば、要求が増えます」

「要求の中身を聞け。寝かせろ、賃金を説明しろ、倒れた娘に会わせろ。それは怪物の要求か」

「会社の規律が保てません」

「人を壊さなければ保てない規律なら、先に規律を変えろ」


 征一郎は社史の「金の卵」という頁へ付箋を貼った。若者を金の卵と呼びながら、会社が欲しかったのは卵を産む人間ではなく、安く働き続ける手だったのかもしれない。だが、早川が得た技術や仲間まで、搾取という一言で消すこともできなかった。働いた人の誇りと、会社が奪った時間は、同じ人生の中に両方残っていた。


 夕方、楓は母親と社員寮へ戻った。部屋の窓を開け、乾かなかった作業服を外へ干し直した。美奈子は床に落ちた靴下を拾い、洗濯籠へ入れようとしたが、楓が自分で洗うと言って受け取った。母親が何でも代わりにするのではなく、会社にも何でも命じさせない暮らしを、二人で考えることにした。


「お母さん、もう会社へ怒鳴り込まなくていいよ」

「怒鳴ってはいないわ。少し声が大きくなっただけ」

「守衛さんが耳を押さえていたよ」

「次は普通の声で話します」

「次も来るつもりなの?」

「あなたが自分で話せるなら、入口で待っています」

「では、卵焼きだけ持ってきて」

「鮭のおにぎりもつけます」


 金の卵は、会社が自由に割って使うものではなかった。若者には会社を辞める自由も、眠る時間も、家族へ助けを求める権利もあった。親の要求がすべて正しいわけではないが、会社が嫌がる要求のすべてを怪物の声として片づけることもできない。子どもを働かせるなら、会社にも育て、守り、いつか外へ送り出す責任があった。



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