第24話 姉が妹へ贈った薬
第24話 姉が妹へ贈った薬
午前六時、美冬は会員制ホテルの一室で、黒瀬から渡された指輪を机へ置いた。白いブラウスに紺色のパンツを着て、髪を後ろで一つに束ねていた。机には冷めた紅茶、半分残したハムサンド、黒瀬の署名が入った議決権委任状の写しが並んでいた。窓の外では細かな雨が降り、向かいのビルに干された白いタオルが風に揺れていた。
美冬は一晩かけて、黒瀬の携帯端末から複製した記録を確認していた。黒瀬が自分へ結婚を持ちかけた日、同じ時刻に麗華へ共同経営を約束した音声が残っていた。二人から議決権を預かったあと、自分をグループCEOに選任する計画も記録されていた。美冬は指輪の箱を閉じ、証拠を保存した記録媒体を化粧ポーチの底へ入れた。
「私を愛していたのではなく、私の株が必要だったのね」
黒瀬へ電話をかけると、呼び出し音が三度鳴ったあと、本人が出た。受話口から車の走る音が聞こえ、その向こうでは側近らしい男が会議資料について話していた。美冬が今すぐ会いたいと告げると、黒瀬は昼まで予定が詰まっていると答えた。以前なら、その言葉を有能な人だから仕方がないと受け入れていた。
「お姉様にも、私と同じ日に会っていたのね」
「何の話ですか」
「共同経営を約束し、議決権を預からせた」
「麗華さんとは、会社のために話しただけです」
「私との結婚も、会社のためだったの?」
「朝から興奮していますね。少し休んだほうがいい」
「また、私を不安定な女にするのね」
「美冬さん、今どこにいますか」
「取締役会で会いましょう。あなたが私たちへ何をしたか、全員に聞いてもらいます」
美冬は電話を切り、証拠を取締役全員へ送る準備を始めた。しかし送信ボタンを押す直前、ホテルの内線電話が鳴った。フロントから、家族の依頼を受けた医師と看護師が来ていると告げられた。美冬は診察など頼んでいないと答え、客室の扉へ鍵をかけた。
「天城美冬さん、青藍メンタルケアセンターの者です」廊下から男の声がした。
「ご家族から、強い混乱と被害妄想があると連絡を受けました」
「帰ってください。私は取締役会へ行きます」
「医療記録によると、服薬を中断されています。安全のため、扉を開けてください」
「私はその病院へ通っていません」
「昨夜も『黒瀬さんに命を狙われている』と話した記録があります」
「そんなことは話していません!」
美冬は携帯端末で自分の医療記録を開いた。そこには通院した覚えのない診療記録と、興奮、妄想、攻撃行動という言葉が追加されていた。最終更新者は、天城グループの医療情報管理部門になっていた。美冬は麗華へ電話をかけた。
「お姉様、私の医療記録を触った?」
「朝から何を言っているの」
「存在しない診察記録が入っているわ。病院の人間が迎えに来ている」
「あなたが治療を拒んでいるからでしょう」
「やはり、お姉様なのね」
「美冬、黒瀬に捨てられたからといって、会社を巻き込まないで」
「黒瀬にだまされたのは、お姉様も同じよ」
「私はあなたとは違う」
「証拠があるの。麗華お姉様も、ただ利用されただけよ」
麗華はしばらく黙った。美冬が取締役会へ証拠を出せば、黒瀬の不正だけでなく、自分が妹を排除するために医療データを書き換えたことまで明らかになる。電話の向こうでは、麗華が朝食に使っていたらしい銀の匙が皿へ触れる音がした。焼いたパンとコーヒーの匂いが漂う自宅の食堂で、麗華は妹を助けるより、自分の名前を守る方法を考えていた。
「その記録媒体を私へ渡しなさい」麗華が言った。
「取締役会へ提出するわ」
「そんなことをすれば、あなたの不安定さを自分で証明することになる」
「証拠を出すと病人にされるの?」
「おとなしく診察を受ければ、入院は短くて済むわ」
「最初から入院させるつもりだったのね」
「あなたを守るためよ」
「その言葉、お父様と同じね」
客室の電子錠が外から解除される音がした。美冬は化粧ポーチと上着をつかみ、隣室へ続く非常用扉から廊下へ出た。薄い革靴で非常階段を駆け下り、地下の従業員通路からホテルを抜けた。雨の中を走ったため、白いブラウスは肌へ張りつき、紺色のパンツの裾には泥がはねた。
美冬が向かったのは麗華の自宅だった。姉なら医療記録を元へ戻せると考えたのではない。取締役会へ行く前に、黒瀬の記録を直接聞かせ、どちらが敵なのか理解させたかった。玄関の呼び鈴を何度も押すと、麗華は薄紫色の部屋着に白いカーディガンを羽織って現れた。
「その格好で来たの?」
「誰のせいだと思っているの」
「病院の人が捜しているわ」
「証拠を聞いて。黒瀬は私たち二人から議決権を取ったの」
「まず着替えなさい。床が濡れるでしょう」
「お姉様は、まだ床の心配をするのね」
玄関には麗華が朝に脱いだ室内履きがそろえられ、傘立てには未使用の傘が何本も並んでいた。食堂にはスクランブルエッグ、焼いたソーセージ、苺ジャムを塗ったパンが残っていた。麗華は濡れた妹へタオルを渡し、温かい紅茶を淹れた。美冬は椅子へ座ったが、両手の震えが止まらず、カップを持てなかった。
「これを飲みなさい。少し落ち着くから」麗華は小さな薬包を机へ置いた。
「病院の薬?」
「以前、あなたが眠れないと言ったときに用意したものよ」
「私の医療記録を書き換えた人から、薬をもらえと言うの?」
「疑うなら飲まなくていいわ」
「頭が痛いの。いつもの頭痛薬はない?」
「薬箱に入っているから、自分で探して」
美冬は食器棚の下にある薬箱を開けた。中には麗華の胃薬、ビタミン剤、頭痛薬、医師から処方された強い鎮静薬が入っていた。どれも白い薬包へ入れられ、名前は小さな文字で印刷されていた。雨で眼鏡を落とした美冬は、麗華から渡された薬包を頭痛薬と思い込み、水と一緒に飲んだ。
「飲んだの?」麗華が振り返った。
「お姉様が出したのでしょう」
「私は、今すぐ飲めとは言っていない」
「何の薬なの」
「夜に飲む薬よ。横になれば大丈夫」
「取締役会へ行かなければ……」
「今日は休みなさい」
美冬は化粧ポーチから記録媒体を取り出そうとしたが、指に力が入らなかった。椅子から立ち上がると足元が揺れ、食卓へ手をついた。苺ジャムの瓶が倒れ、白いクロスへ赤い染みが広がった。美冬は姉の名前を呼び、そのまま床へ崩れた。
「美冬、ふざけないで」麗華は妹の肩を揺すった。
「薬を一包飲んだだけでしょう。起きなさい」
「……お姉、さま」
「取締役会へ行かせないための芝居なの?」
美冬の呼吸は浅くなり、唇の色が変わり始めた。麗華は携帯電話を手にしたが、救急要請の番号を押せなかった。救急隊が来れば、薬箱を確認される。美冬の医療記録を書き換え、入院させようとしたことも調べられる。麗華は先に薬包を拾い、ゴミ箱の底へ押し込んだ。
「少し眠れば戻るわ。そうでしょう」
壁の時計が進み、食卓のスクランブルエッグから湯気が消えた。美冬は呼びかけに反応しなくなり、指先まで冷たくなっていった。麗華は水を飲ませようとしたが、唇からこぼれて部屋着の襟を濡らした。ようやく救急要請をしたとき、倒れてから九分が過ぎていた。
「妹が薬を取り違えました。呼吸が弱いんです」
「意識はありますか」
「ありません」
「呼吸を確認してください。救急隊が到着するまで、指示どおりに動いてください」
「家族の薬を間違えて飲んだだけです。私が渡したのではありません」
「今は経緯より救命が先です」
救急隊が到着すると、麗華は玄関で何度も同じ説明を繰り返した。隊員は床に倒れた美冬へ処置を行い、薬箱と空の薬包を確認した。ゴミ箱の底から見つかった薬包を示されると、麗華は美冬が自分で捨てたのだと答えた。食卓には赤いジャムの染みが残り、冷めた紅茶から薄い香りが漂っていた。
美冬は病院へ運ばれ、一命を取り留めた。しかし呼吸が弱い状態が続いたため、脳へ十分な酸素が届かない時間が生じていた。数日後に意識を取り戻しても、右半身を思うように動かせず、言葉を発することも難しかった。医師は、今後も長いリハビリが必要であり、どこまで回復するかは分からないと説明した。
「救急要請が、あと数分早ければ結果は違ったのですか」病院の相談室で、麗華が尋ねた。
「断定はできません。ただ、呼吸が弱くなった時点で、すぐ要請するべきでした」
「私には眠っているように見えました」
「唇の色が変わり、呼びかけへ反応しなかったのでしょう」
「薬を一包飲んだだけだったんです」
「何を飲んだか分からないからこそ、待ってはいけません」
麗華は膝の上で、白いハンカチの角を何度も折った。薄紫色のワンピースへ着替えていたが、袖口には苺ジャムの赤い染みが残っていた。美冬を入院させれば、取締役会へ証拠を出せなくなると考えた。だが、妹が床へ倒れたあとも自分の不正が知られることを恐れ、その数分を救命より優先した。
病室では、美冬が白い寝衣を着て横になっていた。右手は動かず、左手の指だけがシーツの上をゆっくり動いた。麗華が近づくと、美冬は顔を反対側へ向けようとしたが、首にも十分な力が入らなかった。枕元には、看護師が水を含ませるために使った小さなスポンジと、家族が持ってきた黄色い花が飾られていた。
「美冬、私よ」麗華は椅子へ座った。
「薬を取り違えたのは事故だったの。私は、あなたが眠っているだけだと思った」
「……」
「医療記録のことも、あなたを守るつもりだった」
「……う、そ」
「今、何と言ったの?」
「う……そ」
美冬の左目から雫がこぼれ、枕の白い布へ吸い込まれた。麗華は妹の左手へ触れようとしたが、美冬はわずかに指を引いた。九分前に電話をかけていれば、その手は証拠を持ち、取締役会の扉を開いていたかもしれない。麗華が妹へ贈った薬は、二人を争わせた黒瀬ではなく、姉自身が越えてはならない線を越えた証拠になった。




