第28話 会社を壊せば終わりではない
第28話 会社を壊せば終わりではない
天城ホールディングスの上場廃止が決まった翌朝、灰街では介護施設へ届くはずの紙おむつが届かなかった。配送会社の社員は前月分の給与を受け取れず、燃料代を立て替えることもできなくなっていた。薄い水色の制服を着た介護士の佐伯は、残っている箱を数えながら、白い手袋の指を一本ずつ折った。
「今日の夜までは足ります。でも、明日の朝の交換分がありません」
施設長は何度も眼鏡を押し上げ、止まったままの発注端末をたたいた。食堂では朝食の粥が冷め、梅干しを箸で小さく崩していた老人たちが、職員の慌ただしい足音を目で追っていた。会社が倒れれば悪事も終わると思っていた者は多かったが、止まった端末の向こうには、食事や薬を待つ人間がいた。
「本社へ電話しても誰も出ません。倉庫の鍵は電子認証なので、私たちでは開けられないんです」
「では、自治体に連絡します。紙おむつだけではありません。酸素ボンベと経管栄養剤の在庫も確認してください」
同じ頃、天城医療センターでは、薬剤師たちが懐中電灯を持って地下倉庫を歩いていた。生活信用指数を管理していた中央システムが捜査機関に押収され、患者の資格確認だけでなく、薬品の搬入記録まで閲覧できなくなっていた。白衣の袖へ赤いボールペンの染みをつけた薬剤部長は、紙の帳面へ薬の名前を書き写しながら、若い職員へ顔を向けた。
「端末が動かないからといって、透析は止められない。古い納品書を探して、卸会社へ直接電話してくれ」
「代金は誰が払うんですか。病院の口座も凍結されると聞きました」
「それを決める人たちは、いま会議をしている。私たちは今日の患者を帰すわけにはいかない」
旧本社の社員食堂には、被害者、従業員、自治体、取引先の代表が集まっていた。役員会議室には盗聴器や改ざんされた端末が残っているため、澪がこの場所を選んだのである。テーブルには紙の資料、延長コード、食べかけの鮭おにぎりが並び、自動販売機から出した紙コップの珈琲は会議が始まる前に冷めていた。
「会社を守るための委員会ではありません」
紺色のパンツスーツを着た澪は、椅子へ座らずに出席者を見回した。目の下には薄いくまが残り、髪を束ねたゴムには、朝、事務所で見つけた輪ゴムを使っていた。会社を壊すだけなら裁判と捜査に任せればよいが、壊れた会社の下には、今日の給与を待つ社員と、今日の食事を待つ住民がいる。
「守るのは生活です。医療、介護、住宅、交通、決済を止めない。そのために、被害者と従業員と自治体が同じ数の議決権を持つ再建委員会を作ります」
「被害者と社員を同じ席に座らせるのですか」介護施設で母を亡くした遺族の男性が尋ねた。
「同じ席に座らなければ、補償する側とされる側が、また別々の数字にされます」
従業員代表の早川は、作業服の膝についた油汚れを手で隠した。二十六年間働いたあと一度は切り捨てられ、いまは臨時の配送班へ戻っている。被害者の前で雇用を守れと言えば、金を惜しんでいるように聞こえるのではないかと考え、持参した弁当の卵焼きにも手をつけていなかった。
「給与を優先すれば、補償が減る。それでは被害に遭った人が納得しないでしょう」
「給与を止めれば、被害者が増えます」澪は答えた。
「では、どちらを先にするんです」
「どちらかを捨てる決め方をやめます。生活に必要な事業は残し、役員報酬と広告費と不要な本社資産を先に削る。補償は基金から支払い、利益が出た年は一定割合を必ず基金へ入れます」
自治体の担当者は、赤鉛筆で資料へ線を引いた。市内には天城のシステムを使う診療所が三十二、介護施設が四十八あり、今日中に代替回線を用意しなければならなかった。窓の外では雨が上がり、清掃員が濡れた傘立ての下へ古新聞を敷いていた。
「再建委員会の議事録はすべて公開してください。以前のように、住民が知らない場所で生活を売買されては困ります」
「公開します。ただし、患者や入居者の個人情報は伏せます」
「生活信用指数は廃止できますか」
「廃止します。医療と介護を受ける権利を、購買履歴や借金の有無で決める仕組みは残しません」
昼を過ぎると、止まっていた配送車が一台ずつ動き始めた。自治体が燃料費を仮払いし、従業員が紙の伝票で荷物を管理したのである。佐伯は届いた紙おむつの箱を開け、段ボールから漂う乾いた紙の匂いを吸い込むと、朝から手をつけられなかった塩むすびを廊下の椅子でかじった。
「届いたよ。明日の朝の分もあるからね」
車椅子の老人は佐伯の袖をつまみ、聞こえたのかどうか分からないまま口を動かした。厨房では遅れて届いた豆腐が味噌汁へ入れられ、調理員が少し萎れた葱を刻んでいた。大きな会社の崩壊は新聞の見出しになったが、施設にいた人々にとって大事なのは、夕食の味噌汁が予定どおり出ることだった。
その日の夕方、澪は第三者医療機関の四人部屋を訪れた。征一郎は窓際の寝台で、薄い灰色の病衣を着ていた。向かいの寝台では老人がテレビの相撲中継を眺め、隣では見舞いに来た女性が、皮をむいた梨を小さな容器へ並べていた。
「再建委員会が発足しました。医療と介護の緊急配送も再開しています」
「会社は残るのか」
「天城という名前が残るかは分かりません。必要な仕事と雇用は、できる限り残します」
「私の会社だ」
「もう、あなた一人の会社ではありません」
征一郎は病衣の胸元を直し、寝台脇の封筒へ手を伸ばした。腕時計は外され、指には結婚指輪の跡だけが白く残っていた。封筒の中には、自宅以外の不動産、保有株、絵画、預金の明細が入っており、金額の横には震える字で印がつけられていた。
「残っている私の資産だ。すべて補償基金へ入れる」
「住む場所と治療費は残してください」
「いらん」
「それでは、あとで公費に頼ることになります。最後まで自分で暮らす費用を残すことも、責任の一つです」
「娘にそんな心配をされる資格はない」
「資格の話はしていません。基金の制度を作る者が、見栄で計画を崩してはいけないと言っています」
征一郎は封筒を引き戻し、明細の端を指でそろえた。以前なら自分の決定に口を挟んだ者を部屋から追い出していたが、今は看護師が配った夕食の蓋さえ一人では開けにくかった。盆の上には軟らかく煮た鶏肉、ほうれん草のおひたし、湯気の消えた味噌汁が載っていた。
「では、治療と小さな部屋を借りる分だけ残す。それ以外は渡す」
「専門家に査定してもらいます。差し出した金の使い道も、あなたが決めることはできません」
「私の金だぞ」
「基金へ入れた瞬間から、被害を受けた人たちのためのお金です」
「最後まで容赦がないな」
「あなたが作った基金ではありませんから」
向かいの寝台から、相撲を見ていた老人の笑い声が聞こえた。力士が土俵から落ちたらしく、テレビの実況が部屋へ響いていた。征一郎は味噌汁を一口すすったが、塩分を抑えた味に眉を寄せ、椀を盆へ戻した。
「昔なら、こんな味噌汁は作り直させた」
「その作り直させた味噌汁を、誰が捨てていたか覚えていますか」
「覚えていない」
「では、これからは覚えてください。食べられないなら、理由を看護師さんへ伝える。黙って残して当然だと思わない」
「味が薄い」
「それは血圧のためです。文句を言う前に、おひたしも食べてください」
征一郎は箸でほうれん草をつまみ、時間をかけて飲み込んだ。澪は折り畳み椅子へ座り、持ってきた資料を鞄へ戻した。窓の外では、病院の職員が屋上の物干し場から白いシーツを取り込み、まだ湿った端を二人で引っ張っていた。
「澪」
「何ですか」
「もう一度、謝らせてくれ」
「何度でも言うことはできます。でも、言った回数で何かが戻るわけではありません」
「分かっている。それでも、私はお前を捨てた。直人の死を隠し、社員を数字で切り、麗華と美冬には勝つことだけを教えた。自分が倒れて初めて、助けてくれる者の顔を見た」
征一郎は膝の上で両手を重ねたが、右手の震えを左手で押さえることはできなかった。隣の患者の梨から甘い匂いが漂い、廊下では夕食の食器を載せた台車が、車輪をきしませながら遠ざかっていった。澪は父が言い終わるまで待ち、その手へ自分の手を重ねた。
「すまなかった」
「はい」
「許してくれるのか」
「許したとは言いません」
征一郎の指が、澪の手の下でわずかに動いた。澪は手を離さず、補償基金の書類をもう一度封筒へ入れた。謝罪を受け取ることと、過去をなかったことにすることは違うので、答えを急いで父を安心させるつもりはなかった。
「これからの行動を見ます。明日も、明後日も、その先もです」
「私に、その先がどれだけあるか分からん」
「短いなら、短い時間でしてください。今日、資産を差し出すと決めたことも、その一つです」
「見ていてくれるのか」
「見届けます。ただし、娘としてだけではありません。被害を受けた人たちの代理人だった者として、あなたが最後まで逃げないかを見ます」
征一郎は小さくうなずき、冷めた味噌汁の椀をもう一度持ち上げた。窓の外では配送車が病院の裏口へ入り、紙の伝票を抱えた作業員が薬品の箱を運び出していた。会社を壊しただけでは、失われた命も、止まりかけた暮らしも戻らない。残された者たちは、誰か一人を新しい王にするのではなく、互いの顔と名前を確かめながら、明日の仕事を一つずつ始めていた。




