第27話 帝国の終わり
第27話 帝国の終わり
黒瀬は任意聴取を終えた翌朝、都内のホテルから姿を消した。濃紺のスーツを脱ぎ、黒いパーカーと灰色のパンツへ着替え、眼鏡と帽子で顔を隠していた。部屋の机には食べかけの黒糖パンと、ぬるくなったコーヒーが残り、洗面所の床には切ったネクタイが落ちていた。捜査機関が逮捕状を請求している間に、偽名で用意した旅券を使って国外へ出るつもりだった。
空港の国際線ロビーには、旅行客の話し声と案内放送が響いていた。飲食店からは焼いたパンとコーヒーの匂いが流れ、夏休みの子どもが大きな鞄へ腰掛けて菓子を食べていた。黒瀬は機内持ち込み用の鞄だけを持ち、搭乗口へ続く保安検査場へ向かった。鞄の二重底には、暗号資産を管理する端末と、海外口座へ接続する認証鍵が隠されていた。
「お客様、少々お待ちください」係員が旅券を端末へかざした。
「何か問題がありますか」
「確認が必要です。こちらでお待ちください」
「搭乗時刻が迫っています」
「すぐに担当者が参ります」
「私は仕事で急いでいる。責任者を呼んでください」
「すでに呼んでおります」
黒瀬が後ろを振り返ると、私服の捜査員が三人、逃げ道を塞ぐように立っていた。黒瀬は旅券を返すよう求め、任意同行なら拒否すると告げた。先頭の捜査員は逮捕状を示し、個人情報保護法違反、業務上横領、私文書偽造、証拠隠滅などの容疑を読み上げた。周囲の旅行客が携帯電話を向けると、黒瀬は帽子を深くかぶった。
「これは天城家が仕組んだことです」
「詳しい話は取調べで聞きます」
「私は会社を立て直そうとした。横領ではありません」
「海外口座の資金についても確認します」
「弁護士へ連絡させてください」
「その権利は保障されます」
「カメラを止めろ。私は犯罪者ではない」
黒瀬の手に手錠がかけられた。鞄を押収した捜査員が、二重底から認証鍵を見つけた。搭乗券に記された行き先は、黒瀬の関連会社と投資ファンドが置かれている国だった。出発案内板から便名が消える前に、黒瀬は空港内の通路を連行された。
同じ日、麗華の自宅には捜索が入った。麗華は薄紫色のワンピースに白いカーディガンを羽織り、食堂の椅子へ座っていた。机には手をつけていないスクランブルエッグ、苺ジャムを塗ったパン、冷めた紅茶が並んでいた。美冬が倒れた日にジャムをこぼした白いクロスは処分されていたが、床の隙間には赤い染みが残っていた。
「妹の医療データを書き換えた事実を認めますか」捜査員が尋ねた。
「私は医療情報管理部へ、最近の様子を伝えただけです」
「存在しない診察記録を追加するよう指示したメールがあります」
「美冬は黒瀬に操られ、正常な判断ができなくなっていました」
「医師でもないあなたが、なぜ判断したのですか」
「姉だから分かるのです」
「入院させれば、取締役会へ出席できなくなることも分かっていましたね」
「会社を守るためでした」
捜査員は麗華の携帯端末、薬箱、消去されたメールの記録を押収した。妹が倒れたあと、救急要請まで九分間ためらった経緯についても尋ねた。麗華は、眠っているだけだと思ったと繰り返したが、薬包をゴミ箱の底へ隠したことは説明できなかった。白いハンカチの端を何度も折り、父親から教えられた方法に従っただけだと訴えた。
「お父様は、会社を守るためなら迷うなと言いました」
「妹さんの命と会社の地位を比べたのですか」
「そんなつもりではありません」
「救急要請をためらった間、何をしていましたか」
「薬を確認していました」
「不正が知られない方法を考えていたのでは?」
「私は長女です。天城を守る責任があったのです」
「その責任に、妹さんの医療記録を改ざんする権限は含まれません」
美冬は病院のリハビリ室で、事情聴取を受けた。白い寝衣の上へ黄色いカーディガンを羽織り、動かしにくい右手を膝へ載せていた。左手で文字入力端末を操作し、質問へ一文字ずつ答えた。窓辺には母親代わりの家政婦が洗ったタオルが干され、机には柔らかく煮た南瓜と、刻んだ鶏肉の昼食が置かれていた。
「介護施設の利用者を、生活信用指数によって選別した決裁を覚えていますか」調査官が尋ねた。
「覚えています」
「指数の低い人を退所させれば、行き場を失うと知っていましたか」
「新しい利用者を入れれば、施設の利益が増えると説明されました」
「反対意見も記録されています」
「職員から聞きました」
「それでも承認したのですね」
「姉より大きな利益を出したかった」
美冬は端末へ文字を入力するたび、左手を休めた。言葉を声にすることは難しく、画面の読み上げ機能が代わりに答えた。彼女が承認した退所者の中には、家族のいない高齢者や、医療費の支払いが遅れていた者がいた。施設から移された直後に体調を崩し、亡くなった利用者もいた。
「私は黒瀬に利用されました」端末が平らな声で読み上げた。
「黒瀬氏が不正なデータを渡したことは調べます。ただ、最終的に署名したのは美冬さんです」
「父は、勝った者が会社を継ぐと言いました」
「だから姉より利益を出そうとしたのですか」
「負ければ、父に捨てられると思いました」
「利用者を捨てれば、自分は捨てられないと考えたのですね」
「はい」
美冬の左目から雫が落ち、黄色いカーディガンの袖へ吸い込まれた。彼女は自分の後遺症を理由に、過去の決裁まで免除してほしいとは言わなかった。調査官へ、介護施設の全記録を開示し、退所させた利用者と家族へ説明してほしいと入力した。自分もリハビリを続け、可能になれば直接謝罪すると付け加えた。
青葉総合医療センターでは、征一郎が二人の娘への捜査について説明を受けていた。薄い青色の病衣の上へ灰色のカーディガンを羽織り、朝食の麦飯と焼き鮭を食べ終えたところだった。机には麗華の医療データ改ざん記録と、美冬が介護施設で署名した決裁書が置かれていた。征一郎は老眼鏡をかけ直し、同じ頁へ何度も戻りながら読んだ。
「二人とも、私に教えられたと話しているそうだな」
「はい」澪が白いブラウスの袖を整えた。
「お父さんは、姉妹を競わせました」
「私は強くなってほしかった」
「負けた者は価値がないとも教えました」
「経営者には競争が必要だ」
「競争相手が妹でも、利用者でも、倒せば勝ちだと二人は受け取ったのです」
「私は、薬を隠せとも、高齢者を追い出せとも言っていない」
「具体的な行為は二人自身の責任です。でも、その考え方を育てた責任は、あなたにもあります」
征一郎は焼き鮭の皮だけが残った皿を見た。麗華が幼い頃、妹より試験の点が高ければ、新しい服を買い与えた。美冬が姉より多く寄付を集めれば、夕食の席で褒めた。一方が勝つたび、もう一方の椅子を自分から少し遠ざけた。
「父親として、平等に扱ったつもりだった」
「同じ数の株を渡すことが、平等だと思ったのですね」
「違うのか」
「二人が何を恐れ、何を望んでいるか、聞きましたか」
「会社を継ぎたいと思っていた」
「あなたに認められたいと思っていたのです」
「そのために、人を傷つけたのか」
「二人の罪です。でも、あなたの教育が無関係だったとも言わせません」
征一郎は杖を取り、病室の窓辺まで歩いた。外では職員が白いシーツを取り込み、物干し台の車輪を押していた。向かいの建物に掲げられていた天城ホールディングスの広告看板は外され、鉄骨だけが残っていた。風が吹くたび、緩んだ金具が小さな音を立てた。
「私は娘たちへ、支配する者が勝者だと教えた」征一郎は窓へ向いたまま言った。
「はい」
「家族を守るとは、従わせることだと思っていた」
「はい」
「その結果、麗華は美冬を病人にし、美冬は利用者を数字で捨てた」
「行為の責任は、本人たちが負います」
「私が代わりに罰を受けることはできないのか」
「できません。親が責任を認めても、成人した娘の罪は消えません」
「では、父親に何ができる」
「自分の責任を娘のせいにせず、娘の責任も代わりに奪わないことです」
その日の午後、証券取引所は天城ホールディングスの上場廃止を決定した。財務報告の虚偽、個人情報の違法売買、経営陣による資金流出が重なり、市場の信頼を維持できないと判断された。取引最終日、株価は以前の二十分の一まで下がった。電光掲示板から「天城」の名前が消える瞬間を、社員、株主、元社員がそれぞれの場所で見つめた。
「これで帝国は終わりですね」航が法律事務所の画面を消した。
「会社そのものは、まだ終われません」澪は答えた。
「介護施設、交通端末、住宅認証、地域の決済システムが天城へ依存しています」
「上場廃止で銀行融資が止まれば、維持費を払えない」
「黒瀬が海外へ移した金を回収するまで、時間がかかります」
「都市を止めないため、国へ支援を求めますか」
「天城家や株主を救う支援ではありません。生活基盤を切り離し、利用者と職員を守るための支援です」
夕方、灰街の集合住宅では、玄関の認証端末が一斉に停止した。買い物から戻った住民が家へ入れず、廊下には野菜や牛乳の入った袋が並んだ。赤いランドセルを背負った悠斗は、母親の紗江と一緒に端末の復旧を待っていた。買い物袋から豆腐を取り出し、傷む前に食堂へ持っていこうと提案した。
「会社がなくなったら、ずっと家に入れないの?」
「会社がなくなっても、家は私たちが暮らす場所よ」
「でも、端末が開けてくれない」
「今日は管理人さんが鍵を持ってくる。これからは、会社が止まっても開けられる仕組みに変えてもらうの」
「誰に言えばいい?」
「今度は、住んでいる人も決める会議に入れるそうよ」
「ぼくも言っていい?」
「子どもの意見も聞いてもらいましょう」
真鍋と早川は、よりみち食堂の米と味噌汁を集合住宅へ運んだ。理恵は大きな鍋で大根と油揚げを煮て、紙コップへ分けた。住民は廊下へ新聞紙を敷き、冷める前に味噌汁を飲んだ。天城の認証システムが止まっても、人々は自分たちの手で食事と鍵を運んだ。
夜、征一郎は病室のテレビで、その様子を見た。帝国の終わりとして、黒瀬の逮捕、姉妹への捜査、上場廃止がまとめて報道されていた。だが、画面の隅には、止まった端末の前で味噌汁を配る人々が映っていた。征一郎は冷めた番茶を飲み、ノートへ新しい一行を書いた。
「天城家が終わっても、都市で暮らす人の一日は終わらない」
天城ホールディングスという帝国は、市場から姿を消した。しかし、その会社が握っていた水、住居、介護、交通、決済まで消すことはできなかった。王と二人の女王と、王座を奪おうとした男のためではなく、そこで朝食を作り、子どもを学校へ送り、夜には家へ帰る人々のために、都市を動かし続ける仕事が残っていた。




