第26話 父親になれなかった男たち
第26話 父親になれなかった男たち
臨時株主総会の翌朝、天城グループ本社の記者会見室には、報道陣が集まっていた。壇上には三つの椅子と長い机が置かれ、白いクロスの上には水のボトル、点字の資料、黒い小型の記録媒体が並んでいた。会場の隅には取材陣が食べ残した鮭のおにぎりと、ぬるくなった缶コーヒーが置かれていた。空調から乾いた風が流れ、カメラの照明で室内の温度は朝から上がっていた。
最初に壇上へ現れたのは宗一だった。石段から転落した際の負傷によって、右目の視力をほとんど失い、左目にも強い障害が残っていた。黒い眼鏡をかけ、濃紺のスーツの袖を妻に引かれながら、一歩ずつ演壇へ向かった。左手には白い杖を持ち、右手には病院で渡された小さな布袋を握っていた。
「前に椅子があります」妻が耳元で伝えた。
「机の端は、どこだ」
「右手を少し前へ出して」
「水は?」
「左側です。蓋は開けてあります」
「子ども扱いするな」
「見えないものを教えているだけです。嫌なら一人で座ってください」
「……ありがとう」
宗一は椅子へ座り、黒い眼鏡を外さず、正面へ顔を向けた。記者たちの顔は見えなかったが、カメラの作動音と、誰かが資料をめくる音は聞こえた。布袋から記録媒体を取り出し、机の上へ置いた。その角には、石段から転落した際についた傷が残っていた。
「本日は、黒瀬氏の出生と、天城グループにおける不正について、私から説明します」宗一は用意した文章を読まず、自分の言葉で話し始めた。
「黒瀬氏は、私の実の息子です」
「母親は誰ですか」
「三十年前、私が出張先で関係を持った女性です」
「当時、宗一さんは結婚していましたね」
「はい」
「子どもが生まれたことは知っていたのですか」
「手紙で知らされました。私は金だけを送り、会いに行きませんでした」
会場から複数の質問が飛んだ。宗一は声の方向へ顔を向けようとしたが、位置を正確につかめなかった。妻が机の下で宗一の手首へ触れ、質問者が左側にいることを伝えた。宗一は水を一口飲み、唇を湿らせた。
「なぜ、父親だと認めなかったのですか」
「家族と立場を失うことが怖かったからです」
「養育費は払っていたのでは?」
「金を払えば、父親にならずに済むと思っていました」
「黒瀬氏が天城へ入社したあと、便宜を図りましたか」
「図りました。息子だと公表する代わりに、役職と情報を与えました」
「黒瀬氏の犯罪に、あなたも関与したのですか」
「不正の全体は知りませんでした。しかし、問いただせば息子の存在が明らかになるため、疑わしい決裁を見逃しました」
宗一は机の上を手で探り、記録媒体へ指を置いた。黒瀬の側近が航の認証情報を使った記録、麗華と美冬へ異なる情報を流した音声、生活信用指数を操作した命令、征一郎を灰街へ運ぶ計画が保存されていた。自分の不倫と黒瀬の出生も含まれていたため、宗一は一度、この媒体を壊そうとした。だが、浴室の洗面台へ持っていった夜、妻が使った歯ブラシと自分の髭剃りが並んでいるのを見て、これ以上、家族へ隠し事を残せなかった。
「私は母子を捨てました。その罪を、黒瀬がしたことの理由に使うつもりはありません」
「黒瀬氏へ謝罪しますか」
「謝罪します。ただし、謝れば息子として戻ってくるとも、私を許すとも思っていません」
「父親として、何を望みますか」
「逃げずに、自分のしたことを認めてほしい。それを言う前に、私自身が認める必要がありました」
会見室の後方扉が開き、警備員に付き添われた黒瀬が入ってきた。株主総会で選任議案を否決されたあと、証拠隠滅を防ぐため職務を停止され、任意の事情聴取を受けていた。黒いスーツに銀色のネクタイを締め、手には何も持っていなかった。壇上の宗一を見ると、口元をわずかにゆがめた。
「ずいぶん立派な父親になったものですね」
「黒瀬、座って話を聞け」
「三十年遅いんですよ」
「分かっている」
「あなたは分かっていない。母が病気になったときも、家賃を払えなくなったときも、送られてきたのは振込通知だけでした」
「会いに行くべきだった」
「今さら過去形で話すな」
「では、何と言えばいい」
「何も言わないでください。あなたに父親の台詞を使う資格はない」
黒瀬は空いている椅子へ座らず、壇上の端に立った。会場の照明を受け、額に細かな汗が浮かんでいた。記者から一連の不正を認めるかと尋ねられると、黒瀬は自分が行ったのは、天城家と社会に奪われたものを取り戻す行為だったと答えた。
「母は、妻子ある男を誘惑した女として町を追われました。私は父親の名前を書けないまま学校へ通い、古い服を着ているだけで笑われました」
「それが、灰街住民の個人情報を売った理由ですか」
「社会は、最初から人間を点数で分けています。私は、それを見える数字にしただけです」
「航さんを横領犯に仕立てたことは?」
「天城の名を持つ者が、どれほど簡単に地位を失うか教えました」
「麗華さんと美冬さんを争わせたのは?」
「あの二人は、何もしなくても株を与えられた。私が得られなかったものを、生まれただけで持っていた」
「征一郎さんを灰街へ捨てたのは?」
「自分が作った社会を、下から見せただけです」
黒瀬は宗一へ顔を向けた。宗一にはその表情が見えず、声の位置だけを追っていた。黒瀬は、自分が捨てられた社会へ復讐しただけであり、父親も天城家も同じことを何十年も続けてきたと主張した。誰かが自分だけを悪人として裁くことはできないと言い切った。
「確かに、私はお前を捨てた」宗一は机の縁を握った。
「だから私も、捨てる側へ回った。それだけです」
「お前の母親とお前にしたことは、私の罪だ」
「認めれば楽になりますか」
「ならない」
「社会は私たちを助けなかった」
「それでも、灰街の親子は、お前を捨てていない」
「私には関係のない人間です」
「お前と母親も、私がそう考えたから捨てられたんだ」
黒瀬の肩がわずかに動いた。宗一は息子の顔を見ることができなかったが、声が止まったことには気づいた。妻が宗一の前へ点字の資料を置いたものの、宗一は触れず、右手を記録媒体へ重ねたまま話を続けた。
「苦しめられた者が、次の人間を苦しめれば、同じ椅子へ座るだけだ。私は父親になれなかった。だからといって、お前が何をしてもよいことにはならない」
「父親らしい説教はやめろ」
「説教ではない。私がしたことと、お前がしたことを別々に認めるためだ」
「あなたが私を認めていれば、こうはならなかった」
「そうかもしれない。だが、航を陥れたのはお前だ」
「天城家が私を作った」
「最後に命令を出したのは、お前だ」
会場の脇にいた航が立ち上がった。配送員の制服ではなく、白いシャツに黒いジャケットを着ていた。手には、株主総会で公開した偽造記録の原本を持っていた。黒瀬と宗一の間へ割って入らず、自分の席から話した。
「僕も天城家で、自分の価値を数字で決められてきました」
「君は征一郎の孫として育った」黒瀬が答えた。
「だから、何をされても苦労ではないと言うのですか」
「私とは違う」
「違います。でも、苦しめられた経験を比べても、被害を受けた人は戻りません」
「君に私の何が分かる」
「分かりません。分からないから、あなたの過去を否定しない。それでも言います」
「何をだ」
「苦しめられた経験は、他人を苦しめる資格にはなりません」
航は偽造された送金記録を画面へ表示した。黒瀬の補佐役が航の認証情報を使い、横領記録を作った時刻が記されていた。続いて、宗一の記録媒体に残された音声が再生された。黒瀬は側近へ、航を追放したあと、麗華と美冬の議決権を集め、征一郎の判断能力低下を利用して会社を乗っ取ると話していた。
「苦しんだ者を救う計画ではありません」航は画面を指した。
「黒瀬さん自身が、天城の王になる計画です」
「会社を手に入れなければ、社会は変えられない」
「灰街の人たちへ、会社の利益を渡す計画はどこにありますか」
「経営権を取ったあとで考えるつもりだった」
「海外口座へ移した六百二十億円は、住民のためですか」
「必要な資金だった」
「会社が倒産したあと、工場を安く買うファンドも?」
「私は、奪われる側から奪う側へ移った。それの何が悪い」
「そこが、あなたと宗一さんが同じところです」
黒瀬は椅子の背へ手を置き、強く握った。父親に捨てられた子どもだったはずの自分が、いつの間にか人間を役に立つかどうかで選び、不要になれば灰街へ送っていた。母親が家賃を払えず困っていた夜を覚えていながら、紗江と悠斗の住居資格を指数一つで止めた。だが、その事実を認めれば、復讐という言葉で守ってきた自分の行為が、ただの支配へ変わってしまう。
会場の後方から、杖の音が聞こえた。征一郎が澪に付き添われ、薄い灰色のスーツと茶色い運動靴で入ってきた。認知症の症状があるため、森川医師も同席していた。征一郎は宗一の隣へ座らず、黒瀬と向かい合う席を選んだ。
「黒瀬、私はお前の野心を理解できる」征一郎が言った。
「味方をするつもりですか」澪が確認した。
「違う。私は、貧しい家から天城を大きくし、誰にも命令されない場所へ上がろうとした」
「あなたは最初から天城家の人間だった」黒瀬が答えた。
「今ほど大きな会社ではなかった。失敗すれば家も土地も失うと思い、家族より会社を優先した」
「それで王になった」
「ああ。そして、下にいる者の顔が見えなくなった」
「私は、あなたから学んだんですよ」
黒瀬は初めて椅子へ座った。濃紺のスーツの膝には、白い埃がついていた。会見前に何も食べていなかったのか、机の隅に残された鮭のおにぎりへ一度だけ目を向けた。征一郎もその視線に気づき、皿を黒瀬の前へ押した。
「食べろ」
「父親の真似ですか」
「私はお前の父親ではない」
「では、なぜ食べ物を出す」
「腹が減っている人間へ、食べ物を渡すことに役職はいらない」
「灰街で教わったのですか」
「百円パンを半分もらった」
「それで善人になったつもりですか」
「なっていない。善人になるために証言しているのでもない」
黒瀬はおにぎりを取らなかった。征一郎は手を引き、自分の膝へ戻した。会場には鮭と海苔の匂いがわずかに漂い、記者たちも声を挟まず二人を見ていた。
「お前の手本が私だったのなら、私は自分が何を作ったか見なければならない」征一郎は言った。
「私を否定すれば、自分も否定することになりますよ」
「だから否定しない。お前の中に、私と同じものがあると認める」
「ならば、私を理解できるでしょう」
「理解することと、許すことは別だ」
「澪さんと同じことを言う」
「私は娘から教わった」
「王様が、勘当した娘から?」
「王様ではなくなったから、ようやく聞けた」
宗一が守った記録媒体の解析結果が、会場の画面へ映された。偽造記録だけではなく、黒瀬が海外ファンドへ送った契約書、麗華と美冬の医療情報を利用した記録、征一郎を一時滞在先から連れ出した車両の手配、証拠を持つ宗一を乗っ取り犯に仕立てる指示が残っていた。記録の時刻と電子署名は、外部機関の鑑定によって一致していた。
「この記録を裁判所と捜査機関へ提出します」片桐弁護士が告げた。
「違法に集められた記録だ」黒瀬が言った。
「会社の監査用保管領域へ、自動的に保存されたものです」
「宗一が改ざんした」
「記録が作成された時刻、宗一さんは別の取締役会へ出席していました」
「私の側近が勝手にした」
「あなたの電子署名があります」
「盗まれたんだ」
「その主張も含めて、法廷で説明してください」
会場の外で待っていた捜査員が入り、黒瀬へ任意同行を求めた。黒瀬は立ち上がらず、机の上の鮭のおにぎりを見た。宗一が息子の名を呼ぶと、黒瀬は初めて父親の方向へ顔を向けた。
「私を助けるのですか」
「証拠を隠して助けることは、もうしない」
「母へは、何と説明する」
「私が会いに行く。追い返されても、扉の前で自分のしたことを話す」
「それで母が許すと思うのか」
「思わない」
「ならば、なぜ行く」
「許されるために謝るのではないからだ」
黒瀬は机の上のおにぎりを手に取り、包装を開けずにポケットへ入れた。捜査員に付き添われ、会見室の出口へ向かった。扉の前で一度立ち止まったが、宗一を父とは呼ばなかった。宗一も息子へ帰ってこいとは言わなかった。
会見が終わると、宗一は妻の腕を借りて立ち上がった。机に残された記録媒体を片桐へ渡し、自分の手元には置かなかった。これを守ったことで父親になれるわけではないが、息子の罪を隠さず、自分の不倫と放棄も公表した。宗一にできるのは、そこから逃げないことだけだった。
「兄さん、帰るのか」征一郎が声をかけた。
「黒瀬の母親へ会いに行く」
「私も行こうか」
「お前が行けば、また会社の話になる」
「では、一人で行け」
「妻が一緒だ」
「そうか」
「お前も澪さんに送ってもらえ」
「私は一人で歩ける」
「杖を忘れているぞ」
征一郎は椅子へ立てかけた杖を探し、澪から手渡された。宗一は白い杖で床を確かめ、妻と並んで会見室を出た。廊下には報道陣の食べ残した弁当が積まれ、焼き鮭や卵焼きが手つかずのまま残っていた。宗一の妻は一つずつ蓋を閉め、捨てるなら灰街の食堂へ届けられないかと係員へ尋ねた。
父親になれなかった男たちは、金や会社や役職を渡せば家族を守れると思っていた。宗一は息子へ金だけを送り、征一郎は娘たちへ株だけを与えた。黒瀬は二人の背中を見て、人間との関係まで支配と取引で手に入れようとした。しかし、宗一が最後まで守った小さな記録媒体は、父親として息子を救う道具ではなく、息子と自分の罪を同時に明らかにする証拠となった。




