第29話 父の会社は継ぎません
第29話 父の会社は継ぎません
一年後、天城スマートシティの中央公民館では、住民、従業員、自治体職員による月例会議が開かれていた。かつて天城ホールディングスの新商品を宣伝していた壁の大型画面には、医療、介護、交通、物流の収支が一円単位で表示されている。会場には紺色の背広を着た職員だけでなく、買い物袋から葱をのぞかせた老女や、夜勤明けの白衣にカーディガンを羽織った看護師も座っていた。三丁目の住民が、病院へ向かう乗り合いバスを増やしてほしいと手を挙げると、議長は運転手の人数と燃料費を画面へ出した。
「朝の便だけでは、午後の診察に間に合わないんです。帰りにスーパーへ寄れる時間の便も欲しいです」
「買い物も生活に必要な用事です。利用者数を一か月調べ、来月の会議で増便を決めましょう」
以前なら、運行本数は天城の管理部門が住民へ知らせずに決めていた。生活信用指数の低い地域は採算が悪いとされ、減便されても意見を述べる場所さえなかった。今は要望した者の名前ではなく、要望の内容と回答が議事録へ残り、会議に来られない住民にも紙で配られている。会場の隅では子どもたちが色鉛筆で街の地図を描き、病院とパン屋の間に大きなキリンを描いた男の子が胸を張った。
「動物園へ行くバスも作って。病院へ行くだけが、お出かけじゃないよ」
「それは大事な意見だね。遊びに行くための交通についても、議題へ入れましょう」
生活信用指数を管理していた施設は、無料相談所と地域資料室へ変わっていた。入口には住民が持ち寄った朝顔の鉢が並び、受付の机には麦茶の水差しと、湿気て少し曲がった塩煎餅が置かれている。借金や病歴、買い物の内容を一つの点数へ変える仕組みは廃止され、家賃を滞納した住民には追い出し通知ではなく、福祉制度や分割払いの案内が届くようになった。相談員の奈々は海苔弁当の空箱を片づけながら、一日に受けた相談件数を帳面へ書き込んだ。
「点数をなくしたら、家賃を払わない人ばかりになると言われました。でも、払えない理由を調べたほうが、滞納は減りましたね」
「数字なら一秒で人を切れますが、事情を聞くには時間がかかります。その時間を惜しまない街にするための再建です」
「では、相談員を二人増やしてください。一人で三百世帯を担当したら、今度は私たちが倒れます」
「その要求も議事録へ残します。働く人を使い潰して成り立つ制度には戻しません」
物流会社の倉庫では、航が従業員たちと昼食を取っていた。紺色の配送制服には新しい会社名の布札が縫いつけられ、天城の紋章を外した場所には小さな針穴が残っている。食堂には鶏の照り焼き、ひじきの煮物、豆腐の味噌汁が並び、夜勤を終えた社員は七味を入れすぎて何度もくしゃみをした。労働者代表となった航は、冷めかけた照り焼きを食べながら、繁忙期の勤務表を一行ずつ確認した。
「この配送量では、来月は全員が三時間残業しても間に合いません」
「それなら荷主と配達期限を交渉します。送料無料を守るために、運転手が無料で残業する仕組みへは戻しません」
「客から苦情が来ますよ」
「苦情は私も受けます。荷物が半日遅れることと、運転手が毎晩家へ帰れないことを、同じ重さにはできません」
窓際にいた早川は、弁当箱から焦げ目のついた卵焼きを一切れ取り、航の皿へ載せた。以前は子どもが起きる前に出勤し、家族が眠ったあとに帰っていた早川も、今では妻が寝坊して卵焼きを焦がしたことまで知っている。会社を再建するとは建物や売上を戻すことだけではなく、働く者が夕食の時間に帰れる暮らしを取り戻すことでもあった。航が卵焼きを口へ入れると、早川は使い込んだ水筒の蓋を閉めながら笑った。
「代表だからって、珈琲だけで働くなよ。昔の俺たちの悪いところまで継ぐ必要はない」
「では卵焼きはいただきます。その代わり、早川さんも来週の健康診断から逃げないでください」
「注射が嫌なんだ」
「子どもみたいなことを言わないでください」
麗華、美冬、宗一の時間も、一年前のまま止まってはいなかった。麗華は医療データの改ざんと救急要請を遅らせた責任を問われ、刑事施設で判決に従っていた。薄い作業着を着て洗濯物を畳みながら、美冬へ何度も手紙を書いたが、封筒が戻ってこないことだけが返事になっていた。それでも麗華は便箋を捨てず、自分が何を命じ、なぜ救急車をすぐ呼ばなかったのかを、言い訳を消しながら書き直していた。
「お父様に勝てと言われたから、私は勝とうとした。黒瀬にだまされたから、美冬を止めようとした。そう書けば、また誰かのせいになるわね」
麗華は鉛筆を置き、洗い立ての靴下を左右そろえて重ねた。面会室の時計は正午を示し、廊下からは昼食の麦飯を運ぶ台車の音が近づいていた。麗華は新しい便箋を取り出し、最初の一行へ「私がしたことです」と書いた。
美冬は右手と右足に後遺症が残り、杖と装具を使ってリハビリ施設で暮らしていた。薄紫色のカーディガンを着て、左手で介護事業の検証委員会へ提出する意見書を打っている。机には冷めたクリームシチューと小さく切られたパンが置かれていたが、自分が退所させた利用者の記録を一人ずつ確認するまでは、スプーンを持とうとしなかった。療法士が時計を指し、今日はもう休むよう告げると、美冬は時間をかけて言葉をつないだ。
「あと、一人。黒瀬に、言われた。でも、署名したのは、私」
「明日も調べられます。今日は指を休めましょう」
「名前だけ、紙に書いて。忘れないように、明日、続ける」
宗一は白杖を使う訓練を続けながら、捜査と裁判へ協力していた。自分で湯を注いだ即席味噌汁をこぼすこともあったが、以前のように誰かを呼びつけず、布巾の場所を手で探して机を拭いた。黒瀬から届いた手紙も支援員に読み上げてもらい、返事を書くかどうかを毎回自分で決めた。父親と名乗るには遅すぎても、聞きたくない言葉から逃げれば、母子を捨てた日と同じことを繰り返すと分かっていた。
「今日の手紙には、あなたを許さないと書かれています」
「その先も読んでください」
「二度と父親の顔をするな、とあります」
「分かりました。それでも、最後まで聞きます。あの子が書いた言葉を、今度は私が途中で捨ててはいけない」
冬の午後、澪は蜜柑の入った紙袋を提げ、征一郎のいる病院を訪れた。灰色のコートのポケットには住民会議の議事録が入っていたが、今日は父へ見せるつもりはなかった。四人部屋へ入ると、向かいの寝台では患者の妻が赤い毛糸で靴下を編み、隣の患者は昼食に出た林檎を半分残して眠っていた。征一郎は病衣の上へ紺色の毛糸の上着を重ね、膝に茶色い毛布を掛けて窓の外を眺めていた。
「こんにちは。今日は風が冷たいですね」
「誰だ」
「澪です」
「澪……弁護士だったな。会社を継ぎに来たのか」
征一郎は眼鏡をかけ、澪の顔を近くから見直した。名前を思い出せない日は、この半年で増えていたが、会社と後継者の話だけは古い帳面の染みのように残っていた。征一郎は毛布の下から手を出し、そこにない万年筆を探すように指を動かした。澪は折り畳み椅子を寝台の横へ運び、紙袋から丸い蜜柑を一つ取り出した。
「会社は継ぎません。今日は、あなたとミカンを食べに来ました」
「会社より蜜柑を優先するのか」
「今日はそうします。会社は私がいなくても、住民と従業員が話し合って動かしています」
「私の許可もなくか」
「もう、誰か一人の許可だけで街を動かすことはありません」
澪が皮へ親指を入れると、青い皮と甘い果汁の匂いが病室へ広がった。白い筋を外して一房渡すと、征一郎は薄皮を歯で破り、時間をかけて飲み込んだ。向かいの寝台から転がってきた赤い毛糸玉を澪が拾う間に、征一郎は残りの蜜柑を不ぞろいな房へ分けた。震える指から一房が落ちそうになったため、澪は下から手を添えた。
「昔、娘たちにも蜜柑を食べさせた。早く食べた者を褒めた」
「食べる速さまで競わせたのですか」
「勝つ者を育てたかった」
「食べ物くらい、自分の速さで食べればいいんです」
「お前は、勝ちたくないのか」
「誰かを負かさなければ得られない席には、座りたくありません」
窓の外を、青い乗り合いバスが走っていった。病院帰りの老人、買い物袋を持った女性、動物の絵がついた鞄を背負う子どもが同じ車内に座っている。そのバスは天城家の命令ではなく、住民会議で決めた時刻表に従い、商店街と病院と動物園を結んでいた。征一郎はバスが見えなくなるまで目で追い、最後の一房を澪の掌へ載せた。
「私の会社は、誰が継いだ」
「誰も継いでいません。必要な仕事を、それぞれの場所で働く人が引き継ぎました」
「それで街は動くのか」
「動いています。話し合いに時間はかかりますし、意見がまとまらない日もあります。でも、一人が間違えただけで、全員の暮らしが壊れる街には戻しません」
「お前の名前は……」
「澪です。明日忘れたら、また名乗ります」
征一郎は澪の名前を口の中で繰り返し、蜜柑で濡れた指を紙ナプキンで拭いた。澪は父の会社も、会長室も、誰かを従わせるための椅子も継がなかった。代わりに、働く人へ給与が届き、介護を必要とする人が点数で追い出されず、子どもが家族と動物園へ行ける街を、住民たちと作る道を選んだ。誰か一人が王にならなくても、夕方になればバスは走り、倉庫から荷物が届き、家々の台所では味噌汁の湯気が上がっていた。




