第一話 雑用係は記録にいない
# 第一話 雑用係は記録にいない
「さて、自己PRの時間だ」
エンジナザリ――堰司無去は、前置きもなくそう言った。
堰司無去。44歳。堰司グループの創業者であり、代表取締役CEO。紙面や百人を収めてもなお余裕のある会場では何度か見たことがあるが、二人きりで向かい合うのは初めてだった。
顔の側面を縁取るように分けられた黒髪には白が混じり、整えられた色の根元には、白がわずかに覗いている。生来白髪だったと以前読んだ記憶がある。彫りが深い顔は生まれつきかわからないクマがより神経質な印象を与えていた。淡い金色の目は、卓を挟んだツキをまっすぐに見ていた。椅子に腰掛けたままでも身体の厚みがわかり、公表されている183センチという身長の数字よりも崩れない姿勢と視線の方がずっと大きく感じられる。
怖い、と感じるべきなのだろう。ツキは自分の浮つきを抑えることに気を取られて予想しなかった言葉に返事が遅れてしまう。
「はい……?」
「今朝から、今までの業務内容を」
「……。はい」
堰司グループ本社、最上階。音を吸う絨毯と、余計な装飾のない壁と、街を見下ろす大きな窓に囲まれた代表執務室で、ツキ――玉月は応接卓を挟んで背筋を伸ばした。やや肩幅の合っていないジャケットが、その動きに少し遅れてついてくる。
呼び出しの理由は、まだ聞かされていない。仕事で大きな失敗をした覚えもなかったし、覚えがないだけで何かしていた可能性も考え、ここへ上がるエレベーターの中で今日一日の行動を洗い直してきたが、やはり思い当たらなかった。
自己PRという言葉をそのまま受け取るなら、改めて自己紹介から始めるべきかもしれない。たま、つき。ギョクゲツと書いて玉月。ビリヤードではない。26歳。状況を見て行動を決めることは、それなりの速度でできる自信があります。髪がちりちり、くるくるしてどうしても直らないので、お見苦しいのは申し訳ありませんが、それ以外でしたら何でも――。
頭の中でそこまで組み立てて、違うような気がして捨てた。もっとも、目の前の男は、失敗をした社員を一人ずつ呼びつけるような暇な役職ではない。しかし聞いたことがないだけでやらないとは言えなかった。この方は必要なことであれば通常では考えられないこともするという評判がある。呼びつけられた人は怖くて口外できないだけかもしれない。
それなのにツキには、恐怖より先に、やはり声がいいな、という場違いなものが浮かんでいた。現実逃避なのか、この状況を楽しんでいるのか、自分でも分類できない。少なくとも業務には関係がないので、口には出さない方がよかった。
けれど、やはり自己紹介くらいはした方がいいのではないだろうか。グループ全体なら一万人に近い社員がいる。その中の一人の顔と名前が一致しているとは限らないし、呼び出しそのものが何かの間違いという可能性も、まだ完全には消えていない。
「入社3年、玉月と申しま――」
「お前は、入社4年だ。お前より私の方がお前の公式データに詳しいことは理解した。今日の業務内容の口述に入れ」
「……はい」
人違いではないらしい。社長が何かを失敗したという話は聞いたことがなかったことを今思い出した。
ツキは膝の上で両手を重ね、朝からの予定を頭の中に並べ直した。問われたことへ過不足なく答えるのは仕事の基本だ。まず、正式な予定表と業務記録に残っているものから口にする。
「午前8時30分に出勤しました。8時40分から社内依頼窓口の未処理分を確認し、11件を担当部署へ振り分けました。9時25分から備品台帳の更新、10時から定例ミーティングに出席。終了後、議事録を作成して共有しています。11時15分から来月分の外部委託契約の――」
「8時37分」
低い声が、滑らかに割って入った。誤りを責めるというより、落とし物を持ち主へ返してやるような響きだった。
「一階受付で、入館証の読み取りに失敗していた保守業者に声をかけている。受付担当へ身元確認を依頼し、訪問先の設備管理部に連絡。再発行された臨時証を渡し、業者を搬入口まで案内した。所要12分」
ツキは一度、口を閉じた。それは出勤後の出来事ではあったが、業務内容として報告するものだとは考えていなかった。困っている人がいて、行き先がわかったので案内した。それだけのことである。
「……はい。対応しました」
「8時54分。六階の共有複合機に放置されていた、社外秘区分の書類を回収。印刷履歴から所有者を特定し、手渡している。書類の内容は見たか?」
「一枚目の表題だけ確認しました。印刷者を特定するために必要な範囲です。中身が見えないよう、裏返して保管しました」
「妥当だ。続けろ」
褒められてはいない。けれど少なくとも、今のところ責められてもいないらしい。短い返答ひとつで、不思議なほど呼吸が楽になった。
ツキは頭の中の時系列を、受付まで戻した。言われてみれば、その後にもいくつか予定表に入っていないことをしている。ただ、どこまでを彼が求めているのかはまだわからなかった。
「8時55分に、共有複合機に残されていた書類を印刷者へ返却しました。その後、社内依頼窓口の確認を再開し――」
「9時2分。物流管理部宛ての納品票に部門コードの欠落を見つけ、発行元へ照会。返送される前に修正させた」
「はい」
「9時7分。廊下で落とし物を拾った」
「社員証でしたので、総務へ届けました」
「それより先にお前は社内チャットで当人に声をかけているが無視されている。ちなみに彼は都合により急ぎ帰宅しているため、見ていないだけだろう。9時13分。給湯室の棚から水が漏れていると施設管理へ連絡。床を拭き、注意表示を置いた」
「転倒する方がいるかもしれなかったので」
「9時21分。開発三課の会議室予約が重複していることに気づき、双方のアシスタントへ連絡。空いていた別室を押さえ直した」
「開始時刻が迫っていました」
「私は理由を聞いていない。やったことを言え」
「……失礼いたしました」
「それから?」
理由をつけたのは、正当化しようとしたからではない。どれも自分の仕事ではなかったので、行動だけを並べると、なぜ手を出したのかわからない気がしたからだ。しかし社長にとっては、理由を聞く段階と事実を集める段階が明確に分かれているらしい。
ツキはわずかに考えた。会議室の変更を双方へ伝えた後は、確かに自分の机へ戻ったはずだった。
「9時25分から、備品台帳の更新を行いました」
社長の眉が、ごく浅く上がった。表情らしい表情ではなかったが、この短い時間で、正解ではない時の顔だとわかる程度には見慣れてきた。
「手間をかけさせるな。私は省略していいと言ったか?」
「ですが、業務というほどではなく……」
「仕事中に、会社に関係があることをして、業務ではない? ではなんだ。これもただのお喋りの時間だと思っているのか? 私はそこまで暇じゃない。お前の自己PRの時間だ、と私は言った。有効に使え」
「……。はい」
自己PRという言葉から一般に想定されるものと、だいぶ様子が違う。自分の長所をわかりやすくまとめる時間ではなく、自分が価値のないものとして省いた行動を、社長がひとつずつ拾い上げる時間になっている。
けれど、問われていることは明確になった。ツキは姿勢を整え、今度こそ、できるだけ何も省かずに答えることにした。
「9時20分、会議室変更の通知が利用者全員へ届いたことを確認しました。9時25分から備品台帳を更新。同じころ購買部から照会があり、昨年度の発注記録を検索して回答しました。10時から定例ミーティング。10時45分に終了し、55分までに議事録を作成。共有後、出席者へ確認を依頼しました」
「10時58分」
「営業企画部の方から、海外拠点向け資料の表現について相談を受けました。規程の英訳と意味がずれているように見えたため、法務の確認が必要だと伝え、担当者へ引き継ぎました。11時10分に、法務が受領したことを確認しています」
「ようやく学習したな。次」
社長は卓上の端末へ視線を落とさない。少なくとも、答え合わせのために画面を見てはいなかった。
すべて覚えているらしい。ツキの方は、自分でやったことなのに、ところどころ順番が怪しい。細かい時間は五分に丸めてしまっているが、それは咎められていないので続行する。なぜ社長は分刻みでわかるのだろう? 続きを考える間に、彼の指先が革張りの肘掛けを一度だけ叩いた。音はほとんどしなかったが、急かされていることだけはよく伝わった。
「11時15分から、外部委託契約の更新書類を確認しました。12時5分に一次確認を終え、担当者へ差し戻し事項を共有。12時10分、休憩に入りました」
「12時14分から21分まで、食堂前で派遣社員の相談を受けている」
「相談というほどではありません。勤怠申請の画面が見つからないとのことでしたので、社内ポータルの場所を――」
「7分を使用しておいて、業務ではないと?」
「休憩時間中です」
「相手は勤務中だ。お前が個人的な善意で助けたとしても、会社は相手の7分に給与を払っている。業務だ」
「……はい」
「12時24分。篠宮から残飯を与えられた」
急に表現がおかしくなった。そこまで時刻を把握されていることへの驚きより、食堂で起きたことを残飯の授受に分類されたことの方が気になってしまう。
ツキは、少しだけ迷ってから訂正した。
「篠宮さんが、お弁当に入れた副菜を食べきれないとのことでしたので、いただきました。おいしかったです」
「篠宮の記録には、『残り物を食べてもらっただけなのに、弁当箱が新品みたいになって返ってきて怖い』とある」
「新品というほどではありません」
「本人がそう表現している」
「社内チャットの雑談ですよね?」
「よく気づいたな」
「……常時表示していらっしゃるんですか?」
「入社時に説明した通り、業務用チャットはすべて監査対象だ。異常検知と要約を通して必要な情報は上がるし、調べられる。私はお前たちが勤務時間中、柿の種とピーナッツの個数について真剣に議論していることまで知っている」
ツキは返事に困った。柿の種の袋を三つ開け、商品ごとの差を検証したスレッドには、自分も二度ほど書き込んでいた。社長に届く重要情報へ分類された理由は不明だったが、少なくとも今後あのスレッドへ書き込む時には、金色の目がどこかで見ている可能性を考えてしまいそうだった。
「仲がいいのは結構なことだ。続ければいい。だが、ステンレス製弁当箱を鏡面仕上げに近づけるのは、社員間の良好な交流として適正な範囲か?」
「鏡面仕上げにはしていません」
「何分かけた?」
「……15分です」
「お前の水道前の使用時間は17分だが。昼食は」
「その前に食べました」
「何分で」
「7分ほどです」
「食事より、他人の弁当箱を磨く方に倍以上かけたわけだ」
「いただいたお礼です」
「副菜の原価は?」
「わかりません」
「一般的な惣菜と仮定して100円前後。お前の時間単価を最低限で見積もっても、17分の労力の方が高い。洗浄に使用した備品は会社のものだな」
「……はい。ですが個人の弁当類にも使っていいと聞いております」
「もちろんそれは構わないが。しかし休憩時間を大幅に使った、釣り合わない返礼だ。怯えられて当然だろう」
「怯えてはいないと思います」
「では、篠宮が嘘をついていると?」
「言葉の綾ではないでしょうか」
「お前の解釈は私より妥当性がある根拠は?」
返す言葉が見つからなかった。ツキにとって、譲ってもらった副菜より弁当箱を洗う手間の方が大きかったという計算は、そもそも比較の対象になっていなかった。洗い始めたら細かな曇りが気になり、落ちるところまで落としただけだ。備品の洗剤は常識の範囲でしか使用していない。篠宮が本気で怯えたわけではないことも、笑いながら受け取った顔を見ているので知っている。……多分。ツキが社交辞令や気遣いを社長より適切に判断できる自信はなかった。
しかし、それを説明すれば、また理由ではなく事実を言えと返されそうだった。
そこで初めて、社長は卓上の端末へ触れた。薄い画面を回され、ツキの方へ向けられる。
表示されていたのは、今日の予定表ではなかった。縦に並んだ時刻。案件名。関係部署。対応者。完了の有無。正式な担当者の欄に玉月の名前はほとんどなく、備考欄や申し送り、短いチャットの断片にだけ、何度も「玉さん」「玉氏」「業務支援の玉月」と出ていた。
他人の会話の端に、自分の名前だけが繰り返し浮かんでいる。自分の一日を外側から見たことなどなかった。これは一人の社員の業務記録というより、社内のあちこちに落ちていた欠片を、無理に一本の線へしたものに見えた。
「今日、今までの分だけで1時間46分」
彼は歌うように言った。成果を告げる声ではなく、検査で見つけた異常値を楽しむような声だった。
「お前が『業務というほどではない』と捨てた時間だ。本来業務の遅延は平均4分。残業申請はない。処理自体も、権限を越えたものは今のところ一件もない」
「では、問題はないのではないでしょうか」
「問題はある」
即答だった。ツキの中では、誰にも迷惑をかけず、本来の仕事も終わっているなら、少なくとも会社の問題にはならないはずだった。
「お前が間に入った案件は、最初から円滑だったように記録される。受付の導線にも、書類管理にも、会議室の運用にも、不備があったという数字が残らない。担当者はお前が拾うことを前提にし始めても気づかない。お前の部署は1時間46分の稼働を失っているのに、原因を計上できない。お前自身の査定にも乗らない」
「評価していただくほどのことはしていません」
「それを決める権限はお前にない」
淡い金色の目が細くなった。声を荒らげることも、机を叩くこともないのに、追い詰められている気がする。
「自分の成果を大きく見せる人間は珍しくないが、小さく加工する人間も同じ程度に面倒だ。正確でないという一点では変わらない。善良なら数字を歪めても許されるとでも?」
「そのつもりはありません」
「だろうな。お前は何も考えていないだけだ」
さすがに、それには反論した方がいいように思えた。黙っていれば能力がないと認めることになるからではない。自分が誰かの仕事かもしれないものに手を出す時、少なくとも迷惑を増やさないかだけは見ている。
「必要性と権限は確認しています」
「ほう」
「すぐに対応しなければ損失が出るか、事故に繋がる可能性があるか、自分で処理してよい範囲かは判断しています。範囲外なら担当部署へ渡し、受領までは確認します。自分の作業を中断する場合も、締切に影響しない範囲です」
「考えている、と」
「はい」
「自分の利益以外は」
言葉に詰まった。問われると思っていなかったのではなく、何を答えにすればいいのかわからなかった。
仕事中に自分が損をしないかなど、考える必要があるのだろうか。会社からは給与を受け取っている。任された仕事が終わり、困っている人も減るなら、それで不足はないはずだった。
社長は、ようやく少し笑った。人を安心させる種類の笑みではない。こちらがどこで止まるかを確かめ、予想した場所で止まったことに満足した顔だった。
「能力の不足を問題にしているわけではない。むしろ逆だ。お前は便利な場所に現れ、適切なところまで処理し、責任者へ渡して消える。実に有用で、私はそういう働きが嫌いだ」
「嫌い、ですか」
「不具合を綺麗に隠すからな。壊れていたことが見えなければ、直せない。適正なデータこそが分析には欠かせないものだ」
嫌いだと言われたのに、ツキ自身を否定された気はしなかった。むしろ彼が見ているのは、自分が拾ったひとつひとつの仕事より、その仕事が発生した構造の方なのだろう。ツキには床へ落ちた水が見える。社長には、なぜそこから水が漏れたのかが見えている。
そして、おそらく彼にとっては、漏れ続けるものを誰かが黙って拭いている状態も不具合だった。
社長は端末をもう一度操作し、新しい文書を開いた。
表題は、期間限定配置に関する同意確認書。配属先――CEO室、特別補佐。期間――三か月。
「月曜から、ここへ来い」
ツキは画面と社長の顔を見比べた。見間違いではなく、自分の名前が記載されている。
「異動、でしょうか」
「隔離と観察だ。栄転だと思って浮かれるな」
「浮かれては……」
いない、とは続けられなかった。少しは浮かれていたかもしれない。雲の上にいると思っていた人のすぐそばで仕事をすることになる。それをただの人事配置として受け取るには、気持ちが軽くなりすぎていた。
「三か月、お前が気づいたもの、判断したこと、渡した相手、その結果をすべて記録する。お前がいることで利益が出るなら仕事として定義し、報酬へ反映する。お前が勝手に穴を埋めるせいで不具合が温存されているなら、穴の方を塞ぐ」
「今後は、担当外のことへ手を出さない方がよろしいですか」
「いや。今まで通りにしろ。行動を変えられたら観察にならない。ただし記録しろ。私の視界から勝手に消すな」
「同じ事象が繰り返される場合は、個別対応ではなく、運用の変更を提案しても?」
「当然だ。その質問が出ないなら配置を撤回していた」
「現在の部署の業務は、どなたへ引き継ぐことになりますか」
「二名へ分割する。お前が片手間でやれるのだから一人で足りる、と言いたいところだが、すでに隠れた業務が混ざっている可能性が高い。引き継ぎ自体も記録対象だ」
ツキは文書を上から順に読んだ。手当。評価者。残業の扱い。期間終了後の部署への復帰。配置を断った場合も査定上の不利益はないこと。業務上必要な端末と権限の範囲。観察という穏当でない言葉を使った割に、書類からは攻撃性が見られない。条件は曖昧にされていなかった。
説明を聞いたその場で断りにくいことも想定されている。返答の猶予は最長三日。人事部門とコンプライアンス部門への独立した相談先。配置期間中に問題が起きた場合、社長を経由せず申し立てられる手順。意地の悪い言い方をする人と、意地の悪い条件を出す人は、同じではないらしい。
「確認に、どれくらい必要だ」
「二点、質問をしてもよろしいでしょうか」
「言え」
「観察結果は、わたし個人の適性評価だけでなく、関係部署の業務改善へ使用されますか」
「当たり前だろう。次」
「記録上、わたしが対応したことで他の方の成果を奪う可能性は」
「この三ヶ月はお前が他人の評価を気にすること自体が越権行為だ、ということを教育する期間だ。懸念のことについては事案に応じたことになる」
「……。わかりました。お引き受けします」
社長は口を閉じた。先ほどより、明確に疑う目を向けられた。自分で提示しておきながら、この場で即答されることは想定していなかったらしい。
「早いな」
「質問にはご回答いただきました。条件にも問題はありません」
「私はお前を三か月、手元へ置いて監視すると言っている」
「業務上、必要な範囲であれば」
「CEOという肩書は、安全性の証明書ではないぞ。直属に近い配置には相応の圧力が生じる。私が今こうして、不愉快な人間だということは理解しただろう」
不愉快。ツキは改めて、目の前の男について考えた。
言葉はかなり悪い。人があえて避けているところへ靴の先を入れ、隠したものが見えるまで広げるような聞き方もする。ツキが考える時間を長く取れば指先一つで急かし、言葉を濁せば、その曖昧さをすぐに拾う。
けれど、返答を急がせる一方で、断る権利は先に文書へ入っていた。ツキが省いた仕事を本人以上に細かく拾い、時間と金額と評価へ戻そうとしている。少なくとも今、危険だと判断する材料はなかった。
それとは別に、近くで見るとやはり目が綺麗だった。これだけ長く見つめられているのに、視線を逸らしたいとは思わない。これは本当に業務と関係がない。明らかに浮ついている。教育期間で悪化しないだろうか?
「現時点では、問題ないと判断しています」
「現時点では」
「はい。あの……これくらい、社長命令でしたら、わたしに同意を取る必要もないことだと思います。ここまでご丁寧にしていただいて驚きましたが、不満はありません」
彼は片眉を上げた。心外だとでも言うようにため息を吐く。
「相応の手間をかけるだけの価値を、私は全ての雇用者に感じている」
「……。」
ツキは何かを考えようとしたが、言い難い感動にやはり、浮ついていた。
「さて、最低限は読めているらしい」
「すべて拝見しました」
「では、最後にひとつ」
「はい」
「会社に必要とされたから、以外の理由は?」
「この配置を受ける理由ですか」
「自己PRの時間だと言ったはずだ。お前自身に何の利益がある」
新しい仕事を学べる。全社的な業務の流れを知れる。これまで曖昧だった働きを、正式な評価に繋げられる。答えはいくつも作れたし、どれも嘘ではなかった。
ただ、どれも一番ではない。正確な答えを求められているのはわかっていたが、本当に正確なものをそのまま口に出していい場面とも思えなかった。ツキは、仕事中の自分が口にしてよい形を選んだ。
「社長のお側で仕事を拝見できることを、光栄に思います」
「ひどく模範的だな」
「申し訳ありません」
「なぜ謝る?」
「あまり面白い返答が出来ず」
「気に入る答えを探すな。正確な答えを探せ」
「……善処します」
「期待している」
「はい」
言葉だけなら、ずいぶん一方的だった。それなのに、ツキは不思議と嫌ではない。嫌ではないどころか、明日からもここへ来るのだと思うと、少しくらくらしてきてしまう。
自分は案外、偉い人に弱いのかもしれない。それはあまりよくない気がしたが、これほど偉い人と二人きりになる機会など今までなかったので、事前に知りようがなかった。
「明日、8時30分。正式な配置は月曜からだが、準備を始める」
「承知しました」
「遅れるなよ、玉」
「はい、社長」
一礼し、扉へ向かう。苗字を呼ばれたことが、なぜか耳に残った。
「それから」
呼び止められて振り返る。社長はすでに端末へ視線を戻していた。
「今日は食堂で、夕食を取ってから帰れ。業務命令ではないが、推奨だ」
「……なぜでしょうか」
「お前が昼に摂取したものが、米と卵焼き一切れと、篠宮の副菜だけだからだ」
「そこまでわかるんですか」
「わからないと思える根拠を、明日までに用意しておけ」
用意できる気はしなかった。柿の種とピーナッツの個数まで把握している相手に対し、自分の昼食だけは例外だと主張できる材料など、どこにもない。
「承知しました。失礼いたします」
扉が閉じるまで、ツキは社会人として適切な速度で歩いた。背中を見られている気がしたので、曲がり角を過ぎるまで姿勢も崩さなかった。
廊下へ出て、人のいないことを確認してから、少しだけ足が速くなる。
叱られた。たぶん、相当に面倒な人だった。明日も呼ばれている。ツキは考えて、落ち込もうとした。無理だった。
信じられない。社長とこんな長時間話してしまった。
明日もあるのだ。三ヶ月。信じられない。
*
扉の向こうから足音が消えると、ナザリは端末を自分の側へ戻した。画面には、玉月という一社員の名を軸に集めさせた記録が並んでいる。
42のチャットスレッド。19の案件。7つの部署。正式な担当は、ほぼゼロだった。
誰かが困っていた、という曖昧な起点から現れ、調べ、繋ぎ、完了を見て、消える。本人が働いた形跡より、助けられた側の短い礼や申し送りの方に名が残る。その上、本人は自分から報告しない。
有用ではある。
だが、本人の説明を聞いても、特別な技能は何一つ出てこなかった。規程を確認する。担当者を探す。返答が届いたかを見る。必要なら調べる。どれも、仕事をする人間なら当然やるべきことだ。
当然のことを、毎回、最後までやる人間がほとんどいないだけである。
ナザリは人事記録を開いた。入社四年という勤続年数を本人が間違えたのは冗談かと思ったが、顔を見る限り、本当に三年だと思っていたらしい。仕事へ必要な情報の正確さとは、明らかな差がある。
自己評価は毎年、実績に対して低い。上司の評価は高いが、具体例が少ない。同僚からの評価だけが妙に多く、文面には「助かった」「いつの間にか終わっていた」「何でも知っている」が並ぶ。便利だという印象だけが共有され、その便利さを構成する行動は誰も数えていない。
健康指導欄には、食事、体重、休養、自己管理。入社以来、同じ項目が一度も消えていなかった。改善がないのか、指導が形だけで終わっているのか、その両方か。今日見た限りでは、本人に問題として受け取られていない可能性が高い。
「なるほど」
本人が何も申告しないのなら、近くへ置いて見るほかない。上司を通して報告させれば、そこでまた本人の基準による省略が起きる。
別に、興味本位ではない。記録に残らない労働を捕捉し、会社の仕組みを直すためだ。社員一人へ社長が直接かける手間として釣り合わない可能性はあるが、どの程度釣り合わないかも、観察しなければ算定できない。
ナザリはその結論を一度確認し、社員食堂の利用状況を要約項目へ加えた。昼食の内容を問い詰められても、玉月は不快そうにするより、知られていることに妙な喜びを見せた。あれも含めて、判断材料が足りない。
明日からは、見える。




