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第二話 今度は私が見る

# 第二話 今度は私が見る


「それで、結局なんなんでしょうね、これ?」


 翌朝8時10分。始業前の業務支援部には、まだ電話も依頼通知も少なく、人の声がよく通った。


 篠宮が自分の端末を指差すと、近くにいた面々は、昨日から何度も開いた人事通知をもう一度覗き込んだ。画面を見直したところで内容が変わるわけではないが、見慣れた社員の名と、普段なら接点のない部署名が並んでいるのは、何度見ても座りが悪い。


 玉月。期間限定配置。配属先、CEO室特別補佐。期間、3か月。


「……検品的な?」

「つまり、社員の抜取り検査?」

「いつもながらに、社員のことを部品か何かだと考えていらっしゃる……」

「人間のことをもうちょっと信じてほしい」


 検査される本人を前に、好きなことを言っている。社長について憶測で話すことを恐れているというより、社内ではもう、あの人ならやりかねないという諦めが共有されていた。


 ツキの異動は正式には月曜からだが、今日は元の部署の引き継ぎ準備そのものをCEO室で行うよう命じられている。3か月後に戻る予定とはいえ、次にここで1日仕事をする時、机の配置も担当の分け方も、今とは変わっているかもしれない。


 惜しむほどの私物はなかった。それでも、毎朝同じ場所へ来て、同じ人たちの声を聞いてきた時間が一度途切れるのだと思うと、机だけが少し他人のものに見えた。


「玉さん、昨日は何を聞かれたの?」

「朝から行った業務を、すべてです。わたしが省いていたものも、社長の方で把握されていました」

「怖っ」

「弁当箱のこともご存じでした」

「なんで!?」


 篠宮が声を上げ、机の脇に置いた鞄を反射的に見た。その中には、昨日ツキが洗ったステンレス製の弁当箱が入っている。


「社内チャットはすべて監査対象とのことです」

「それは知ってるけど、あれまで社長に上がるの?」

「新品のようになって返ってきて怖い、と書いたので、異常として抽出されたのではないでしょうか」

「鏡面仕上げに近づけた玉さんが悪くない?」

「鏡面仕上げにはしていません」

「そうだけど、そうじゃないんだよな」

「はい?」

「うーん……がんばれ?」


 疑問形で送り出されてしまった。何を頑張れば正解なのかは、最後まで教えてもらえないらしい。


 ツキは机の中身を確かめた。文房具は会社の備品、引き継ぐ資料はすべて共有フォルダへ移してある。全てを用意しておくために身ひとつで来い、と昨日帰る直前にチャットで送られてきたため、元々数えるほどしかなかった私物は昨日持ち帰り済みだ。


「3か月も社長のそばって嫌じゃない? 息が詰まりそう」

「わたしからしたら雲の上の人なので、お側に行けるだけでも結構感動してしまいます……」


 声に出してから、少し素直に言いすぎたかもしれないと思った。仕事上の機会を光栄に思うという意味なら、社会人として不自然な発言ではないはずなのに、部署内には短い沈黙が落ちる。


 ツキの胸の内にあるものは、もう少し単純で、もう少し仕事から離れていた。けれど、それをどの言葉へ分類すればよいのかわからない。近くで声を聞けるなら嬉しい、というところまでは確かだった。


「たまちゃん、なんというか……見た目よりずっと神経太いよね」

「はい……?」

「あんまり心配しなくていいのかも。ちょっと安心」


 篠宮は気が抜けたように笑った。ツキもつられて笑う。なにかよかったらしい。


「困ったら連絡してね。組織図はちょっと変な会社だけど、CEO室を通さないコンプラの窓口もあるから」

「はい。昨日社長にも言われました。ありがとうございます」

「社長のこと崇拝してても言うこと全部飲んだらダメだよ」

「す、崇拝というほどでは」

「顔に書いてある」


 書いた覚えはなかった。ツキは頬へ触れてみたが、文字らしいものは当然見つからない。周囲から温度感の絶妙な笑顔をされたので、8時25分、予定より少し早く元の部署を出た。



 代表執務室へ入ると、社長は電話中だった。


 昨日は応接卓へ通され、正面にいる彼ばかりを見ていた。改めて仕事場として見ると、モニターの多い部屋である。中央上の数値とグラフは生産拠点の稼働状況だろうか。右の画面には国内外の株価が絶えず流れ、中央には今朝届いたらしい新しい資料、左にはメールが開かれている。


 社長は電話の相手へ淀みなく返答しながら、資料を送り、2通のメールへ短い指示を返し、上がったばかりの報告書へ修正箇所を入れていた。手元には紙のノートもある。万年筆で書かれたそれは、ツキにはとても文字に見えなかったが、おそらく容易に読ませないための何らかの工夫なのだろう。正式な書類で見る彼の筆跡は、活字に近いほど美麗だった。


 複数の仕事を同時に処理しているというより、どれも一本の流れとして扱っているように見える。電話の相手が答えを探して黙る数秒で別の資料を読み、その数字を記憶したまま会話へ戻る。その時モニターに小さく絵文字だらけのメッセージが表示されたが、あまりにも他と様子が離れていたためツキは見間違いだと判断した。


 社長は一度もこちらを向かないまま、空いた方の手で窓際を示した。


 昨日まではなかった机が1台増えている。椅子、外部モニター、社用端末、内線電話。引き出しを開けてみると使用した形跡のない文房具まで収められ、机の高さも、ツキが使っていたものとほとんど変わらない。昨夜のうちに用意させたのだろう。


 自分がここへ来ることを前提に、新しい場所が作られている。単なる備品の配置だとわかっていても、胸の内側へ小さな熱が残った。


 ツキが机の前まで行く頃、最初の電話が終わった。


「3分早いな。座れ」

「遅刻ではないと思いますが」

「咎めてはいない」


 何を言っても責められているように聞こえるのは、声ではなく言葉の選び方のせいらしい。すぐに次の着信が入り、社長は表示された相手を一瞥して応答すると、別の言語で話し始めた。ふと時計を見ると、ぴったり30分から始まっている。おそらく予定通りの電話なのだろう。


 ツキは新しい机についた。端末へ社員証をかざすと、普段使用している業務環境の横に、見慣れない入力画面が開く。


 発見時刻。事象。判断。判断根拠。確認した権限。移管先。受領時刻。完了確認。所要時間。中断した本来業務。1件について10項目もある。


 昨日ツキが拾った社員証の記録が、見本として添えられていた。発見時刻、9時7分。6階東廊下。表面へ記載された所属から本人へ直接連絡せず、情報管理規程に従って総務へ移管。9時9分、総務担当者が受領。本日8時25分、本人への返却を確認。


 自分の中では、拾って届けた、で終わっていた出来事だった。こうして工程へ分けられると、選択したことと、しなかったことの両方が記録になる。


 電話を終えた社長が、モニターから目を離さずに言った。


「読んだか」

「はい。返却まで、わたしが確認するのでしょうか」

「途中で手を離したなら、どこから先を誰が引き受けたかを記録しろ。最後まで自分で行えという意味ではない。むしろ、お前がやるな。適切な担当者へ渡せ。渡した事実を消すな」

「気づいたものは、すべて入力しますか」

「会社に関係するのであればな。だが、もし50年記録に残っても後で悶絶しないのであれば好きなことを書くといい」


 たぶん比喩表現で、そういう心構えでも残したければということなのだろう。


 言葉の意味を考えていると、モニター越しに視線が上がる。自分の方を見ていないようで、考え込んだ時間まで測られていたらしい。


「何か不明な点でも?」

「入力対象の範囲を検討していました」

「なら、結論も言ってみるといい」

「はい。会社の設備、人員、契約、情報、安全、時間または費用に影響し、現在の担当が明確でないものを対象とします。担当者が存在する場合は、緊急性があるか、担当者が状況を認識していない場合のみ記録します」

「仮の基準としてはいいんじゃないか。始めろ」


 また電話が鳴る。社長はツキへ向けていた視線を外し、通話と同時に新しい資料を開いた。


 忙しい、という言葉では少し足りない気がした。最近は大きな発表の予定もなく、前期までの課題処理を中心とする整理期間だったはずだ。それで今がこの状態なら、前期はどのような速さで動いていたのだろう。


 電話は3分と空かず鳴り、話している間も株価と資料とメールの処理は止まらない。右端を流れる株価まで本当に見ているのか疑いたくなるが、時折、何の前触れもなく銘柄を切り替えているので、少なくとも意識には入っている。昨日の面談の時間をどこから作ったのか、不思議になる。


 そもそも、末端社員1人の監視は社長の仕事なのだろうか。堰司グループの組織図は一般的な企業と少し違うため、こうした横断業務を任せられる中間管理職が足りていない可能性もある。改善すべきは自分の仕事ではなく、人員配置の方ではないか。



 ツキは今日行う予定の引き継ぎ準備を開いた。共有窓口へ届いた依頼を分類する。明確な担当があるものは振り分け、過去の対応履歴と締切を添える。ここまでは昨日までと同じだった。


 8時41分。件名に部署名のない依頼が1通あった。


 地下2階の荷受室から、返却品の受け入れについて。提携研究機関から試験使用を終えた冷却板3枚が届いたが、添付された返却指示書と外箱の資産番号が一致しない。輸送業者の次の集荷は正午。開封して内容を確認すべきか、指示を求められている。発送の担当者は休暇だ。


 返却先の記載はあるが、問い合わせ先はない。箱の資産番号が正しいなら指示書が違い、指示書が正しいなら箱が違う。どちらにせよ、中身を見れば解決するとは限らなかった。確定する前に開けてしまえば新しいトラブルになりかねない。


 ツキは記録画面へ時刻を入れ、開封せず現状を保持するよう返信した。添付写真では封印と配送票の重なり方がよく見えない。配送のどの時点で番号がずれたのかを考えるには、現物を確認した方が早い。


 そう判断して席を立つと、社長も立った。


 電話の向こうへ数字を読み上げながら片手で薄い端末を取り、ツキより先に扉へ向かう。立ち上がる前にこちらを見た様子はなかった。椅子の動く音か、気配だけで判断したらしい。あるいは視野が360度以上あるか。社長の視力は今でも2.0あると去年の社内報でのインタビュー記事に小さな吹き出しで書いてあった。どこまで何が見えているのだろう。


「あの、社長もいらっしゃるんですか」


 彼は答えない。まだ通話中である。振り返って目が合う。さっさと来い、と目が言っている気がする。通話内容はところどころ単語が拾えても全体をほとんど推測できないものだった。


 カブトムシは、どのような文脈で出てくる単語なのだろう。比喩か、開発中の製品名か、まさか本当に虫の話なのか。社長の口から出る「カブトムシ」は、低く整った声のせいで、妙に重要な機密事項のように響いた。


 社長は廊下を歩きながら先方の質問へ答え、端末を操作している。もしかして、遠隔補助作業をしているのではないか、と根拠は薄いが推論立てた。カメラはつけられない通話先の何かをサポートしている? カブトムシはなんのトラブルに登場するのだろう……? ツキがエレベーターの前で止まると、その横で同じように止まった。距離は1歩半ほどで、そわそわしてしまう。早く慣れなければ。


 通話が切れる。


「地下2階です」

「知っている」

「監視とは、記録を確認することではないのでしょうか」

「記録を正確に行うかを見るために、記録だけを信じてどうする?」


 扉が開く。社長が先に乗り、「開」ボタンを押した。


「私は電話を続ける。早ければいま手を取られていることは15分ほどで済む。だが、現状での想定は45分だ。向こうでの説明は任せる」

「はい」


 扉が閉じると、本当に電話が鳴った。


 地下2階へ着くまでの間に、社長は再び電話を取り、同時にツキの記録画面を一度だけ確認した。それから別のスマホを取り出して何かを入力している。


 思った以上に忙しい人だ。それでもツキのことを監視してくれるらしい。会社のためとわかっていてもこの貴重な時間に震えてしまう。


 荷受室へ入った途端、室内の空気が固まった。CEOが電話をしながら現れれば、そうなるのも仕方がない。


「お、お疲れさまです」

「お疲れさまです。返却品を確認させてください。社長は、わたしの業務確認で同行されていますので、何か強い問題があるわけではありません。通常通りで大丈夫です」


 通常通りで大丈夫だと言われて通常通りにできる人は、あまりいないようだった。担当者は何度も社長の方を見た後、なるべく見ないようにするという不自然な努力を始めた。


 ツキは3つの外箱を確認した。封印に破損はない。返却指示書にある番号は3つとも連番だが、外箱だけが別の試験先へ貸し出した番号になっている。配送票は封印の上から後で貼られており、箱そのものを取り違えたのか、票だけを貼り違えたのかは外観では判断できない。


 写真を撮り直し、返却指示書にある契約番号を検索する。契約元はグループのリース会社。使用者は提携研究機関。製造番号上の所有者は堰司グループの試験設備管理部になっている。ただし、受領確認が終わるまでは使用者側の管理下とする条項があった。


 箱は目の前にあるのに、誰の物として扱うべきかは一つではない。技術的に中身を判別できる部署と、契約上開封を決められる会社も別だった。


 ツキはリース会社の契約管理へ照会し、返答を待つ間に、試験設備管理部へ経過と現状をまとめて送信する。今の段階で、内容物が戻ったとは断定しない。


 先に電話を返してきたのは、試験設備管理部だった。


『中を見れば、うちの物かどうかわかると思うんですけど』

「開封の権限は、現段階ではリース会社の契約管理にあると考えています。照会中ですので、少々お待ちください」

『でも、今日中に確認しないと困るんですよね』

「正午までに一次回答をいただけるよう依頼しています。10時30分までに返答がなければ、契約管理の責任者へ上げます」


 通話を終える。社長はまだ別の電話を続けていたが、ツキへ一瞬だけ目を向け、端末を持った手の人差し指を上げた。その目が何かを訴えている。


 一つ。不足していることが一つあるらしい。


 今の応答を頭の中で辿る。開封の権限がない。だから待ってほしい。けれど、自分が禁止を命じられるとは言っていない。よほどの緊急事態でない限り無断の越権行為を控えることも三ヶ月の教育計画に入っていた。


「わたしに、開封を禁止する権限はありません。本日は担当者と連絡が付かないので、承認はいただけないまま代理での対応となっています。ですので、確認が終わるまで現状を保存してほしいと依頼しました。強制はしていませんが、未確認のまま開封した場合のトラブルを想定しておりますので、ご理解いただけると幸いです」


 上げられていた指が下がった。電話の内容を聞きながら、こちらも聞いていたらしい。声を挟まず、答えそのものではなく、足りない数だけを示したのは、ツキが自分で気づくかを見るためだったのだろう。社長は適切な権限を持つ唯一の立場であるし、それを使えば早く丸く収まるのではないかとツキは思ったが、教育を受ける立場として不満はなかった。


 9時12分、契約管理から回答が届いた。出荷元で配送票を貼り違えていたことが判明し、未開封のまま正しい再生センターへ転送する指示が出た。輸送業者の再集荷も、リース会社側で手配される。


 9時26分、荷受室が転送指示を受領。9時38分、輸送業者から集荷時刻の連絡。


 代表執務室へ戻る間にも、社長は2本の電話へ出た。先ほどまで箱の横に立っていたことなどなかったように、部屋へ着くとすぐ自席へ戻り、株価と資料とメールの往復を再開する。ツキが1件を処理する間に、彼は別の場所でいくつの判断を終えたのかわからない。


 10時4分、試験設備管理部にも処理結果を共有する。ツキは最後の欄へ「対応完了」と入力した。


「終わっていない」


 社長は自席から、ツキの小さな文字で埋まった画面を見ていた。あれほど画面を見続けているのに、どうやら視力は今でもとてもいいらしい。


「転送されたことを確認していない。現時点では、転送の予定が決まっただけだ」

「集荷完了後に追記します」

「それから、この1件で見つかった不具合は?」


 ツキは並んだ記録を見直した。一つの貼り違いとして終わらせれば、次も同じ連絡が共有窓口へ来る。


「返却指示書に問い合わせ先の記載がありません。荷受室が共有窓口を知っていたので届きましたが、外部の拠点では、製造元へ直接連絡する可能性があります」

「もう一つ」

「……資産番号の照合が、発送時と受領時にしかありません。配送票を発行した時点で自動照合できれば、今回の貼り違いは出荷前に検知できます」

「それを別の案件として起票しろ」

「承知しました」


 社長はツキをほとんど見ていない。それでも入力内容も、通話も、立ち上がる気配さえ取りこぼさなかった。


 近くで声を聞けるのは嬉しいと思っていたが、想定していたよりもずっと近く、そして逃げ場がない。声をかけられるまで見つめられるのではなく、何気ない動作のすべてが最初から把握されている。


 けれど業務上、何の問題もないはずだった。問題がないなら、この落ち着かないほどの嬉しさも、あえて分類しなくていい。


 10時17分。ツキは返却指示書の様式改定と、配送票発行時の番号照合について、それぞれ担当部署を調べて改善案件を起票した。片方は物流管理、もう片方はリース会社のシステム部門が受領した。


 10時41分。引き継ぎ資料へ戻る。


 宛先不明の請求書を、発注番号から担当部署へ割り振る作業。毎週金曜、ツキが行っていたものだった。依頼として届いた時にたまたま調べ、翌週も同じものが来たのでまた調べ、そのうち金曜の確認作業として定着した。正式な手順書はない。


 引き継ぎ先の欄へ誰の名を書くか考え、手が止まる。業務支援部の誰かへ渡せば、これまでと同じようには続けられる。ただし、それは担当を決めたことではなく、ツキの代わりを1人作るだけである。


「何を隠そうとしている」

「隠していません」

「手が止まった」

「引き継ぎ先が存在しない業務を見つけました」

「なら、なぜ記録しない」

「今、誰へ渡すべきか考えていました」

「順番が逆だ。担当不在という不具合を記録し、その後に考えろ。お前に決める権限が与えられているのか? 請求書については経理から差し戻すのが通常のフローのはずだ。そうして溜まった記録が全体の最適化につながる。いつから抜き取って処理していた? お前の頭の中で解決してから出せば、検討過程がまた消える」


 昨日と同じことをしていたらしい。問題を見つけ、誰にも渡さず、自分の中で処理できる形にしてから差し出そうとした。


 ツキは新しい記録を開いた。今度は、担当者を決めるより先に、担当不在と入力する。


「過去3か月分を確認します」

「なぜ」

「件数と発生原因に偏りがあるか調べます。単発なら都度、経理へ確認する手順で足ります。繰り返しなら、請求書の受領時点で自動的に振り分ける方が適切です。今まで処理していた分を突然経理の方々に流すと、向こうの業務の目安が崩れてしまうので、やれることはやりたいからです」

「私の話を聞いた上での行動というわけか。勝手なことをするなと教える期間でもあるわけだが、お前1人で抱えずに記録に残るなら構わない。やれ」


 19件。うち15件は、発注申請者と請求書の送付先が異なる取引だった。残り4件は、発注番号そのものがない。


 ツキは経理の支払管理へ記録ごと渡し、発注番号から申請者へ自動通知する案を添えた。番号のない請求書については、取引先へ記載を求める運用も必要になる。これまで1件ずつ調べていた時より、まとまった数字にした方が、問題の形がはっきり見えた。


「これまで、支払遅延は?」

「ありません」

「お前が毎週拾っていたからだな」

「はい」

「なぜ、今まで改善を提案しなかった」

「わたしが確認すれば、十分に間に合っていましたので」

「お前がいなくなる可能性は計算に入れなかったのか?」

「休暇の場合は、前日に確認していました」

「退職、異動、傷病、事故」

「……そこまでは」

「お前は自分を恒久設備だと思っているらしいな。随分と保守性の低い設備だ」


 人間に対しての言い方ではない。しかし、会社の工程へ自分を組み込んでいたことは事実だった。休む日だけ前倒しすればよいと思っていたのは、自分が翌週も同じ机にいることを無意識に前提としていたからだ。


 機械なら壊れる前提で点検日を決め、交換部品を用意する。自分だけは、いなくなる場合を考えなかった。それを保守性が低いと呼ぶなら、確かに反論しづらい。


「申し訳ありません。今後、担当の定まっていない定期作業は、発見時点で記録します」

「よし。属人性はなるべく速やかに排除するべきだと覚えろ」


 褒められた。今のは、たぶん褒められたと思う。言葉は犬への指示のようだったが、悪い気はしなかった。


 社長の顔を見れば、嬉しくなったことまで読み取られそうだった。ツキは画面から目を離さず、次の資料を開く。


「12時だ」


 開いたばかりの資料を閉じた。


「休憩へ入ります」

「ここで食べろ」

「はい?」

「昨日のお前は、昼食を7分で処理した。監視対象だ」


 机の端へ、いつの間にか2つの盆が置かれていた。秘書が運び入れたはずだが、ツキは作業に集中していて気づかなかった。


 焼き魚。煮物。青菜。味噌汁。白米。食堂の定食より少し品数が多く、どれもまだ湯気が立っている。昨日の夕食を推奨された時には食堂の利用だけを確認されたが、今日は逃げ道ごと机へ運ばれてきたらしい。


「社長も、こちらで召し上がるんですか」

「食事が用意されている人間の行動として、他に何がある?」

「お忙しいので、お仕事をされながらかと」

「脳は適切に休ませる必要がある。先に言っておくが、食後私は15分ほど睡眠を取る。静かにさえしていれば、お前の休憩時間はここにいてもいなくてもいい。好きにしろ」

「はい」


 社長は3つの画面を閉じ、端末を伏せた。朝から途切れなかった電話も鳴らない。偶然静かになったのではなく、昼食のための時間だけ、初めから予定を空けていたらしい。


 仕事をしながら食べる方が時間を使わずに済むはずなのに、彼はそれをしない。自分には7分で食べるなと言いながら社長だけが食事を省略するようなら少しは反論できたのだが、その隙もなかった。


 応接卓へ盆を移し、向かい合って食事を始める。代表執務室でCEOと2人きりの昼食という状況は、よく考えるとかなり特殊だった。けれど、よく考えなければ、職場の人と昼食を取っているだけとも言える。


 ツキは、よく考えないことにした。


「寝ているのか?」

「すみません」

「箸を動かす前に15秒止まっていた」

「考え事をしていました」

「食事中に仕事を考えるな」

「仕事ではありません」

「なら、何を考えていた」


 社長と2人で食事をしていることについてです、とは言いにくい。正確な答えを探せと昨日言われたばかりだが、正確さにも使用してよい場所がある。


「食べる速度について、考えていました」

「今作った答えだな」

「……はい」

「確かにこれ以上踏み込む関係でもないか。食べろ」


 見抜かれたのに、追及はされなかった。答えない自由を認められたことへ安心するより、少しだけ残念だと思った自分の方が、ツキには理解しにくかった。


 社長は、食事の速度まで一定だった。一口の量も、噛む時間も、次へ箸を伸ばす間隔も、おそらく毎回ほとんど変わらない。しかしツキが半分ほど食べたところで、彼も同じ程度まで進んでいた。


 合わせられている、と途中で気づいた。こちらが考え事をして止まれば、味噌汁へ手を伸ばす。食べる速度を上げれば、彼もわずかに次の間隔を縮める。機械のように一定なのではなく、ツキから一定に見えるよう調整している。


「わたしが食べ終わるまで、お付き合いいただかなくても大丈夫です」

「お前は1人にすると短縮するだろう」

「努力します」

「信用がない。詳細に触れると支障のある事柄なため理由は割愛するが、私は、お前の食事には支援が必要だと判断した」

「はい……お手数をおかけします……」


 23分かけて食べ終えた。これほど長く昼食へ時間を使ったのは、いつ以来かわからない。量そのものは食べきれないほど多くなかったが、急がずに噛んだせいか、いつもの昼食より腹に残る感覚がある。


 社長は湯呑みへ口をつけ、伏せていた端末には触れないままツキを見た。


「午前が終わったな。これは雑談だが、何か言いたいことは?」

「これは社長の業務なのでしょうか? 社長に何か強いご心配をおかけしているようで心苦しくはありますが、部長や課長を飛び越えているような気がします……」

「先日は二つ返事だったのに今更なんだ? 想像より息苦しさでも感じたか。私の会社で私がやることに文句をつけられる奴はそういないから、他人は気にする必要がない」

「……」


 それはそうなのでしょうけれども、とツキは声にせず思った。会社の制度として正しいかを聞いたつもりが、社長本人の権限の話に置き換えられている。事実ではあるので、正面から返す言葉がない。


 社長は話を終えると、本当に15分だけ目を閉じた。椅子へ深く座り、腕を組む。眠ったのかどうかはわからない。このまま不躾に眺めていてもおかしくなってしまう気がしてお手洗いに出る。顔を洗って少し頭も冷やそう。休憩の開始と終了まで、なにからなにまで業務報告のようだった。


 けれど不思議と、取り調べを受けている気はしなかった。見張られているのに、自分だけが疑われている感覚がない。社長はツキを逃がさない代わりに、自分の方も同じ時間の中へ置いている。


 昼食を含めて1時間の休憩が終わり、業務を再開した。午後、ツキは12件を記録する。


 その間も、社長の仕事は途切れなかった。画面越しの会議を3件、電話を11本。パソコンの画面は都度切り替わっていたし、ノートは何度か捲られていた。あれはやはりメモであっているのだろう。ツキへ声をかけるのは、そのどれかが切り替わる数秒の間だけだった。


 それでもツキが席を立てば、彼の視線だけは必ず上がる。資料を取りに行く時も、水を汲む時も、初めの2度は行き先を告げ忘れ、そのたびに名前を呼ばれた。3度目からは、椅子を引く前に口にするようになった。


 備品の発注先が旧社名のままになっていたもの。退職者へ通知が送られ続けていた共有フォルダ。来客用資料と社内用資料で異なっていた緊急連絡先。


 そのうち3件は、何もしなかった。担当者がすでに把握し、期限内の修正予定を立てていたからだ。ツキは状況を確認し、担当者と完了予定日だけを記録した。


「手を出さない判断もできるんだな」

「必要がありませんでしたので」

「何にでも飛びつくと思っていた」

「社長は、わたしをどのように評価していたんですか」

「評価するためにもここへ置いている。現時点では、不審な働き者だ。水槽に自然発生したタニシといったところだな。水質は保つが、私の水質管理には組み込まれていなかったものだ」

「不審なタニシ……」

「安心しろ。無能とは思っていない」

「安心していい評価でしょうか」

「私の査定に注文をつけるには早いな」


 不審なタニシは、褒め言葉ではないはずだった。それでも「水質は保つ」と「無能とは思っていない」の部分だけを拾えば、昨日より評価は進んでいる。都合のよいところだけ受け取るなと言われそうなので、口には出さなかった。


 17時48分。午前中の返却品が転送先へ到着したと連絡が入った。


 ツキは最後の欄へ受領時刻を追記し、今度こそ「完了」とした。朝に目の前で見た箱が、自分の手を離れた後も複数の人間を経て、正しい場所へ着いた。記録の線がそこまで繋がり、ようやく案件が閉じる。5分刻みではなく、細かい時間の刻み方にも慣れてきた。


 社長が自席から立ち、ツキの机まで来た。朝からほとんど座ったままだったため、隣へ立たれると改めて大きい。ツキも165センチあるが、座ったまま見上げると、画面の端まで彼の影に入った。


 社長は1日の記録を上から下まで眺め、いくつかの欄を開いた。ツキの肩越しに手を伸ばすことはせず、机の脇から操作する。その程度の距離は保つらしい。


「18件。うち、既存の担当がいないものが7件。運用上の変更が必要なものが4件。お前が直接処理すべきだったものは2件」

「多いでしょうか」

「異常だな」

「すみません」

「なぜ謝る。お前が発生させたのか?」

「見つけました」

「見つけたことを謝罪する必要はない」

「はい」


 社長の指が、所要時間の合計欄を示した。


「2時間13分。本来業務の遅延は、今日もほぼない」

「引き継ぎ資料は予定分まで終わっています」

「それも確認した。お前は処理が速い。だが、速いから余った時間を無償で配っていいことにはならない」


 無償で配ったつもりはなかった。勤務時間中に見つけ、必要だから行った。会社から給与を受け取っている時間を、会社のために使っている。それだけだ。


 おそらく、その考え方自体を問題にされている。昨日言われたことを理解したつもりでも、ツキの中では、使われなかった時間を自分の利益として数える感覚がまだなかった。


「仕事というのは、勤務時間内で社のためにやれることを見つけ次第、処理すべきものなのでは……」

「いいや。この会社はそうじゃない。お前の教育係はもう辞めているので、どのような教育だったかは把握できていないが、私の組み上げたフローを、私の監視できる範囲で行うことだ。私の想定内にいることを求めている」

「はい……」

「だが」


 社長は画面からツキへ視線を移した。夕方の光の中でも、淡い金色だけは色を失わない。


「お前は今まで通り、会社を見てもいい」


 まっすぐ向けられた目から、逃げる理由はなかった。


「今度は私がお前の挙動を想定内に組み込む」


 監視を宣言されている。本来なら、もう少し嫌がった方がいいのかもしれない。自分の働き方を認められたと受け取るには、ずいぶん所有を主張するような言い方だった。


 けれどツキの胸にあるものは、嫌悪とは程遠い。今まで誰も数えなかった行動を、この人だけが見落とさずに拾う。その視界へ入れてもらえることを、喜んでしまっている。


「承知しました」

「……随分と素直だな」

「業務命令ですので」

「今のは命令ではない。私の方針決定だ」

「では……よろしくお願いいたします」


 社長は少し黙った。答えに困ったようには見えない。ただ、自分が用意していなかった反応を受け取ると、彼は一度だけ沈黙するらしい。その短い停止を見つけたことが、ツキには少し嬉しかった。


「18時だ。帰れ」

「あと5分ほどで、明日の――」

「帰れ。残りは明日、最初にやれ。今日の業務は終了した」

「承知しました」


 ツキは端末を閉じた。今朝と同じように一礼し、今度は一度も呼び止められずに部屋を出る。


 扉が閉じた後も、背中には視線の感覚が残っていた。明日からは席を立つたびに行き先を言い、昼食には20分以上かけ、見つけたことを全部記録する。面倒なはずの規則が増えたのに、足取りは朝より軽かった。


 *


 扉が閉じる。


 ナザリは、ツキの残した記録をもう一度開いた。最初の返却品は実在の案件であり、本日担当は休暇だということも承知で着日を指定し、ツキのいる共有窓口へ意図的に回したものだった。


 試験のためだけに不具合を作るほど暇ではない。担当が複数社へ跨がり、所有と技術判断が分離しているため、以前から処理の遅れが出やすかった案件である。権限を持たない人間ほど、中を見ればわかると開けたがる。


 ツキは開けなかった。内容を知らないまま放置もしなかった。判断に必要な契約だけを調べ、権限者へ渡し、輸送の終了まで確認した。自分に決定権がないことを指摘される前に言えなかった点は減点だが、一度示せば修正できた。


 試験としては十分である。


 問題は、残り17件だった。


 ナザリが用意したものではない。彼女はただ机に座り、元の業務をしていただけで、それだけの継ぎ目を見つけた。


 特別なことは何もしていない。必要な規程を読む。過去の履歴を調べる。相手へ聞く。答えがなければ、答えられる者まで上げる。渡した後も結果を見る。他の部署で進行中の作業ログを手隙の間に把握する。社内にはほとんど開かれているから、誰にでもできる。


 誰も、毎回はやらない。


 彼女の速さは、単に手を動かす速度ではなかった。何を自分で決め、何を他人へ渡すべきかの判断が早い。反面、自分で処理できると判断したものは、組織上の欠落ごと抱え込む。止めなければ、会社にとって有用であるほど、本人の記録からは消えていく。


 さらに不思議なのは、あの女が監視を嫌がらないことだった。


 権力者から目をつけられれば、普通は警戒する。能力を正当に評価されることを喜ぶにしても、帰宅を命じられ、食事を見張られてまで嬉しそうにする理由はない。タニシと言われて反感を持つような顔もしなかった。


 本人は、業務命令だからと説明した。命令ではないと訂正すると、よろしくお願いします、ときた。拒否の機会を与えるほど、むしろ近づいてくる。


「不審だな」


 口にすると、妙に正確な評価に思えた。


 ナザリは記録画面の設定を開いた。所要時間、本来業務、完了確認。現状でも業務の査定には十分である。


 そこへ新しく5つの項目を加える。休憩開始。食事内容。水分摂取。体調。退勤時刻。


 近くで見ると、あの女の栄養状態には強い疑いが持たれる。身長は低くない。縦に長い骨格へ肉が足りず、その上から横幅の合わない服をかぶっているため、衣服の中で身体だけが泳いで見える。手首の内側は青白く、あれでよく荷物を支障なく運べるものだと感心すらした。


 身体について直接指摘することは、業務上の指導であっても慎重に扱う必要がある。本人の健康記録をどこまで確認するか、何を本人の同意なく項目へ入れられるかは、通常の業務評価より線引きが難しい。


 人材を正確に評価し、継続的に働ける状態へ保つためには必要な情報だ。観察を続ける価値はある。


 私情ではない。


 ナザリはその結論を確認し、明日の昼食を2人分手配した。


 電話が鳴る。時差を考えれば、ここからがナザリの業務の本番と言えた。ツキを18時に帰した部屋で、右端の市場だけはまだ動き続けている。


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