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投稿しておいてなんですがあとで1-4直します(地の文が増えてもう少し後に向けた整合性をとります)2026/07/23.21:31

第四話 個人的な契約


「新しい選択肢だ」


 翌朝、社長はそう言った。


 ホテルから出勤したツキは、昨日と同じ時刻にCEO室へ入った。いつもの机には、昨夜まで使っていた端末と、今日処理する案件がすでに揃っている。火災に遭った社員の席という雰囲気はなかった。本人が負傷しておらず、業務上必要な物も失っていない以上、会社で特別扱いされる理由はないのだろう。


 ただ、足元に置く私物の鞄だけが少し重い。今朝ホテルへ届いた衣類と日用品の明細、管理会社からの連絡、保険会社へ提出する写真をひとまとめにしてある。昨日までなら存在しなかった仕事が、自分の生活から三つも発生していた。


 ホテルの朝食は、指定された時刻に部屋へ届いた。ツキは社長から確認される可能性を考え、写真を撮ってから、三十分近くかけて食べた。確認されるために食べるのも奇妙だったが、一人なら飲み物だけで済ませた可能性は高い。食べ終わってみれば、午前中の空腹を気にせずに済むことは便利だった。


 ツキが昨日持ち出した荷物は、まだホテルにある。濡れた部屋は乾燥と点検に少なくとも二週間、天井材の交換が必要なら一か月近くかかるかもしれないと、今朝になって管理会社から連絡が来た。


 ホテルの延長、短期賃貸、空きが出るまで別の宿泊施設へ移る。そのあたりが新しい選択肢だろうと考え、ツキは社長の次の言葉を待った。


 社長は自席から動いていない。正面の画面には朝一番の報告書、右には市場の数字、左には返信途中のメールが開かれている。新しい選択肢という言葉も、数ある業務判断の一つとして口にしたように聞こえた。


「私が寝泊まりしている建物に、使っていない部屋がある。お前はそこへ移れ」

「社長が寝泊まりしている……」

「わかりにくかったか? 私と同居しろと言っている」

「えっ」


 聞き間違いではないらしい。


「そんなにいいことがあっていいんですか」


 社長の指が止まった。


 朝から絶えず動いていた指だった。報告書を送り、メールを閉じ、次の資料を開こうとしていたところで、画面の上に置かれたまま動かない。


 社長が完全に動きを止めたところを、ツキはこの一週間でほとんど見ていない。誰かの返答を待つ間にも別の資料を読み、通話の保留中には手元の数字を直す人だった。止まったこと自体が、声を荒らげられるより明確な反応に思えた。


 何か間違ったらしい。


 けれど、どの部分が間違っていたのかはわからない。同居の意味は理解している。朝と夜に同じ場所へ戻り、会社にいない時間にも社長が近くにいる。食事を一緒に取ることもあるだろう。昨日のように、袖の上からではあっても触れられる可能性も増える。


 やはり、いいことだった。


「……いいこと?」

「はい」

「私は今、会社の代表者であり直属に近い上司でもある十八歳上の男と、私的な空間で同居するよう提案した。お前は費用も条件も、私が何を要求するかも聞いていない。その第一声が、それか?」

「詳細はこれから伺います」

「順番の問題を指摘している」

「ですが、社長と暮らせるという部分は、条件を伺っても変わらないかと」

「……」


 返答が途切れた。


 昨日、ホテルの部屋で別れた時から、社長はこの提案を用意していたはずだった。画面には、すでに契約書らしい文書も開かれている。その人が、ツキの一言で話す順番を見失ったように見えた。


 ツキにとっては、社長が自分の生活へ置く場所を考えたという事実だけでも十分だった。正しく査定するために近くへ置かれた時とは違う。今回は勤務時間の外側である。会社の利益だけでは説明できない時間へ、自分の分が用意されようとしている。


 その意味を恋愛へ結びつけるほど都合よくは考えなかった。社長は昨日の部屋を見て、修正しなければならない問題を見つけただけだろう。それでも、問題として見つけてもらえたことが嬉しい。


「わたしにとっては、かなりいいお話です」

「念を押すな。理解した」

「はい」

「いや、理解できていない。なぜお前の方が、私を安心させるような顔をしている?」


 どのような顔だったのかは、自分ではわからなかった。


 社長は浅く息を吐き、端末をツキの方へ回した。


 薄い画面の上には、昨夜作られたらしい文書が表示されていた。条番号だけでも十を超えている。頁の隅には更新時刻が残り、最後の修正は午前四時十二分だった。ホテルへ送った後、会社へ戻り、そのまま通常業務の間に作ったのだろう。


 思いつきで連れ込もうとしている人間の文書には見えなかった。


「これは草案だ。今ここで承諾させるつもりはない。私がお前へ与えるのは、専用の居室と鍵、食事、日常生活に必要な物品、住居が決まるまでの居住権だ。お前に家賃は求めない。雇用契約とは切り離し、異動、退職、解雇のいずれとも連動させない」

「わたしから提供するものは何でしょうか」

「ない」

「ない?」

「正確には、私がお前の生活を観察し、危険や不備を見つけた場合に改善を提案する機会を得る。ただし、提案を受け入れる義務はない。身体や私物へ触れる必要がある場合には、緊急時を除いて都度同意を取る。家事労働も業務補助も対価には含めない。勤務時間外に会社の仕事をさせるつもりもない」

「それでは、社長にあまり利益がないように思います」

「私の利益をお前が心配する必要はない」

「契約でしたら、双方の利益を確認する必要はあるのではないでしょうか」


 社長の眉がわずかに上がった。



「もっともだ。では説明してやろう。結論から言うとお前は私の監視下にあるべきだと判断した。理由は昨日同行した際の極めて理解し難い危機対応能力の薄弱さだ。お前は上階で火事があろうと水が降ってこようと、適切な避難行動をする光景は見えてこない。」

「ええと……? つまりはわたしの利益を述べられているようにしか聞こえませんが……」

「そして、私は、干渉することそのものが趣味だ。私に干渉をさせろ。以上」

「……???」


 すごく話が飛んだ気がする。


「ええと……。ええと……? よくわからないのですが」

「私には極めて厄介な欠点があり、それをお前に向けることを選んだ、ということだ」

「あんまり理解させるつもりで話してくれている感じはしませんが……」

「お前は基本的には賢いが、自分自身が関わると著しく機能が低下するな」

「いやこれは絶対わたしは悪くない気がします」

「理解させるつもりで話していないことは正解だ」

「会話してください?」

「それで? この理解不能な説明を聞いて、合意するのか」

「それは……はい。嬉しい、んですけど……?」

「……お前の反応をどう分類すればいいのか、いまだにわからないな」


 呆れたように言われたが、提案を撤回する様子はなかった。ツキはこの会話で強く困惑しているのはどうしても自分に責任があるとは思えず、首を傾げる。いいんでしょうか? つまりはなにやら、メリットもなしにすごく保護してくれるらしいのですが。趣味とは?


「何故お前が頷くのか理解出来ない。抵抗をしてみせろ。お前はお前が悪くはないことも理解させるつもりがない話し方をされていることも理解しているのに、何故最終的に頷いている?」

「理由がわからないのはともかくまあ……嬉しいです?」

「……」


 社長はぐっと目を閉じて、それから気を取り直したように言った。


「今日は業務終了後に現物を見せる。契約条件は、その後で第三者へ持ち出して確認しろ。私と同居したくないという結論になった場合は、ホテルを延長する。査定へは一切影響させない」

「承知しました」

「まだ内見を承諾しただけだ」

「はい」

「その顔をやめろ」

「どの顔でしょうか」

「遠足の日程が決まった子供のような顔だ」


 それは少し恥ずかしい。


 ツキは口元を引き締め、業務用端末へ視線を戻した。


 午前中は、昨日までと同じように記録外の仕事を拾った。契約書の押印漏れを一件、改定前の様式が使われている申請を二件、廃止された共有アドレスへ送られ続けていた通知を一件。気づき、調べ、担当者へ渡し、完了予定を記録する。


 処理の手順は変わらない。けれど、画面の隅に表示された時刻だけは、普段より頻繁に目へ入った。


 正午まであと二時間。午後六時まであと八時間。


「時計を見ても六時は早く来ないぞ」

「見ていません」

「今ので五回目だ」

「……業務の進行を確認していました」

「お前の本来業務は予定より進んでいる。内見のために処理を急いで事故を起こせば、今日は中止にする」

「通常の速度です」

「なら、そのまま続けろ」


 否定されたわけではない。浮かれていることだけは、すでに把握されてしまった。


 午後は慎重に仕事をした。急いでいると思われないよう、確認を一つ増やす。増やした確認が不要だったと気づき、普段の手順へ戻す。社長はそれ以上何も言わなかったが、ツキが時刻を見た六回目には、口元だけがわずかに動いた。


 午後六時、社長とともに会社を出た。


 車で十分ほど走り、大通りから一本入る。高い塀と植栽に囲まれた建物は、周囲から一階部分がほとんど見えなかった。門の内側へ車が入り、地下へ下りる。そこで運転手と別れ、社長の後についてエレベーターへ乗った。


 会社から近いのに、ツキが普段通る道からは外れている。窓の向こうで高層の建物が途切れ、低い街路樹と、塀の長い住宅が増えていった。社長は移動中も端末を見ていたが、会社へ戻る時ほど多くの連絡には出なかった。一本だけ届いた電話へ明朝までの報告を指示し、あとは画面を閉じた。


 内見のために仕事を止めたらしい。


 そう思うと、ツキは車内で正面を向いていることが少し難しくなった。窓の外を見る。ガラスへ自分の顔が薄く映っていた。遠足の日の子供と言われた顔がまだ残っていないか確かめたが、よくわからない。


「ここは、一棟すべて社長がお使いなんですか?」

「正確には私の所有会社が保有している。上の二層と地下の一部を私が使用し、残りは警備と設備管理の区画だ」

「会社に近いですね」

「移動時間は何も生まないからな」


 エレベーターを降りると、短い通路の先に扉が一つあった。社長が指紋と鍵で解錠する。中へ入ったところは、広い玄関だった。


 白に近い石の床。濃い色の壁。大きな窓の向こうに、夜の始まりかけた空が見える。花も絵も置かれていない。靴箱の上には鍵と端末を置くためらしい浅い盆だけがあり、生活する場所というより、誰かを迎えるために整えられた施設の入口に見えた。


 空調は動いているはずなのに、機械の音は聞こえない。床にも壁にも、昨日まで誰かがここで暮らしていたと訴えるものがなかった。靴箱の端に置き忘れた郵便物も、急いで脱いだ靴も、帰宅して気が緩んだ人間の痕跡もない。社長が会社から移動して、別の設備へ格納される場所のようだった。


 それでも、彼の指が触れた浅い盆には細かな傷があり、室内にはごく薄く、会社で近くを通った時と同じ香りが残っていた。完全に無人の施設ではない。社長が寝泊まりしているという説明だけが、急に現実味を持った。


 社長は扉を押さえ、ツキだけを先に入れた。


「そこに立て」


 玄関から数歩の場所を示される。


 ツキが言われた位置へ立つと、社長は一人で廊下の奥へ進んだ。昨日は転ばないよう腰へ手を添えていた人が、今度は意図的に十分な距離を取っている。


 手を伸ばしても届かない。玄関扉はツキのすぐ後ろにあり、鍵はかけられていない。外へ出るためには、社長の前を通る必要もなかった。


 どうしてそこまで離れるのかと考えかけて、すぐにわかった。これはツキのために作られた配置だった。広い廊下も、開いた扉も、互いの距離も、これから言うことが口先だけではないと示す材料へ変えられている。


 昨日の濡れた部屋では、社長の腕が近いことばかり気にしていた。今日は彼の方が、近づかないことへ神経を使っている。


 社長が振り返った。


「さて。ここには証言していただける第三者も、私たちの会話を保証する記録もない」


 声が、広い室内へ静かに通った。


「私はまず、お前がいつでもここから出られることを保証する。そして、この中で起きた事柄について、お前が虚偽を含めて外部にどのような訴えを行っても、それに抵抗しないことを誓う」


 今度は、ツキの方が言葉を失った。


 内見の説明としては、予想していたものとあまりに違った。部屋の広さや設備より先に、自分が逮捕される場合の話を始める人がいるとは思わない。


 社長は冗談を言っている顔ではなかった。契約条件を読み上げる時と同じ、聞き手が理解したかを見落とさない目をしている。その真面目さのせいで、ツキの頭にはまず、目の前の男が警察に連れていかれた後の会社が浮かんだ。


「虚偽を言う予定はありませんが……社長が捕まったりしたら、会社はどうなるんですか?」

「ここまで世界に食い込んだものは、頭が消えてもどうにでもなる。権利が散らばってしばらくすれば、弊社としては独占禁止法に頭を痛めずに済むだろう」

「それで済ませていい規模ではない気がします」

「お前が心配することではない。いささか強引ではあるが、これが私なりのフェア精神であり、お前が自覚しておくべき武器だ」


 社長は近づいてこなかった。


 会社では、彼が一つ命じれば複数の部署が動く。昨日はホテルを一室と言っただけで、ツキが自分では選ばない部屋と食事が用意された。目の前の扉も、建物も、おそらくその気になれば人の生活を丸ごと変えられる資産も、すべて社長の側にある。


 ツキが持っているのは、外へ続く開いた扉だけだった。


 だから、その扉を社長自身が塞がずに置き、自分の地位を壊せる権利まで武器として差し出しているのだろう。


 そこまで理解しても、怖くはならなかった。むしろ、自分では数えたこともなかった不利を一つずつ数え、社長の側から均そうとしてくれていることに、妙な律儀さを感じた。親切というには物々しく、優しさというには脅しに近い。それでも、ツキのために用意されたものではあった。


「私は会社における権限、資産、年齢、体格のすべてでお前より優位にある。二人きりの場所へ入れば、私が自制するという前提に安全を預けることになる。だから、私がお前を害した場合に失うものは、先に私が差し出す。私の社会的地位や会社への影響を考慮して黙るな。それをすれば、この場で提示した条件をお前自身が無効にすることになる」

「……はい」

「理解したのなら、靴を脱いでそこの室内靴を履け。もちろん、理解した上で出ていく選択肢もある」


 玄関の端には、ツキの足に合いそうな室内靴が用意されていた。


 ツキは靴を脱いだ。


 片足を抜き、石の床へ靴下の裏をつける。まだ社長は遠くにいる。止める声も、急かす声もなかった。


 考えなかったわけではない。彼が挙げた危険を、すべて想像の外へ追い出したわけでもない。ただ、その危険は社長が口にする前から存在していた。それを聞かないふりで部屋へ入れるのではなく、ツキの手へ渡してから選ばせた。その事実は、入らない理由より強かった。


 用意された室内靴は、踵まできちんと収まった。借り物の大きな履き物の中で足を遊ばせる感覚がない。昨日まで存在しなかった自分の寸法が、この場所の一角にもう組み込まれている。


「……少しくらい迷ったらどうだ?」

「考えました」

「私が一息つくより短い時間で?」

「社長のおっしゃる危険と、わたしが今ここへ入りたいことは、同時に成立します」

「ほう」

「わたしは、社長と一緒に暮らしたいです」


 淡い金色の目が、ツキを見た。


 怒ってはいない。喜んでもいないように見える。ただ、予測にない数値を測定した時のように、しばらく動かなかった。


 その目に見られている間も、ツキは後悔しなかった。もっと適切な言い方があった気はする。安全性を評価した、契約の草案に納得した、会社への通勤にも便利だ。社会人らしい理由をいくつか並べることはできた。


 けれど、それらを言えば、社長は正確な答えを探せと言うだろう。


 一緒に暮らしたい。それが一番短く、最も正確だった。


「……いいだろう。入れ」


 室内靴へ足を入れ、一歩進む。


 社長はようやく距離を詰め、廊下の先へ歩き始めた。


 玄関の扉が静かに閉じた。鍵がかかる小さな音がしたが、先ほどまでのような閉じ込められる想像は浮かばなかった。必要なら自分で開けられることを、もう知っている。


 建物の中は広かったが、使われている場所はわかりやすかった。


 大きな居間には、壁の一面を使った画面と、複数の端末が置かれている。書斎にも同じような設備があり、長い机の上へ読みかけの資料が積まれていた。寝室には大きなベッドがあるが、枕元にも端末と内線がある。


「社長室がもう一つあります」

「会社でなければ扱えない情報を除き、ここでも処理できるようにしてある」

「こちらでは、どのくらいお仕事を?」

「寝ていない時間だ」

「生活する場所では?」

「仕事をし、食事をし、身体を洗い、必要な時間だけ目を閉じる。生活の定義を満たしているだろう」


 水浸しになる前のツキの部屋を見た人へ、生活の定義について意見する資格はないかもしれなかった。


 それでも、社長が寝泊まりしている場所も、あまり生活の形をしていない。


 寝室のベッドは大きいが、布団にはほとんど乱れがない。枕元に置かれた水も、飲みかけではなく未開封だった。脱いだ服を一晩だけ掛けておく場所も見当たらず、起きてから寝るまでに人間が残すはずの途中経過が、どこにもない。


 ツキの部屋は、物を持たないせいで生活が見えなかった。こちらは物も設備も十分にあるのに、すべてが完了した状態で並び、やはり生活の途中が見えない。


 似ていると思うには、かかっている金額が違いすぎる。それでも、使わないものを持たず、必要と判断したことだけを繰り返している点では、少し近いのかもしれなかった。


 冷蔵庫には食材が入っていた。けれど、日付と用途が一つずつ管理され、調理済みの料理が同じ容器で並んでいる。衣類はあるが、すべて同じ方向を向いていた。物が少ないのではなく、使用目的から外れた物が一つもない。


 社長本人の趣味らしいものは、書斎の論文と市場を映す画面くらいだった。その二つも、ツキには仕事との境目がわからない。くつろぐためだけの椅子も、意味もなく置かれた菓子も、誰かにもらって捨てられずにいる物もない。


 この場所へ自分の段ボール箱を持ち込めば、初めて用途の曖昧な物が増えるのかもしれない。そう考えると、箱の中の卒業アルバムまで急に大げさな存在へ思えた。


「お前に言われたくはないが、何か?」

「まだ何も申し上げていません」

「顔に書いてある」


 篠宮にも同じことを言われた気がする。ツキの顔は、本人が思うより情報量が多いらしい。


 廊下の反対側に、扉が三つあった。その一番奥を開けられる。


「ここがお前の居室になる」


 ホテルより少し狭く、元の部屋よりはずっと広い。ベッド、机、ソファ、収納。窓際には小さな丸い卓と椅子がある。隣には専用の浴室があり、廊下へ出ずに使えるようになっていた。


 室内には、すでに新しい寝具が整えられている。机の上には鍵が二本、充電器、建物の避難経路図、設備の使用方法をまとめた薄いファイルが置かれていた。


 寝具には、まだ誰も使っていない布の匂いがする。机の高さも椅子の位置も、ホテルのように誰にでも使える寸法ではある。それなのに、充電器の端子はツキのスマートフォンに合うものだった。室内靴と同じように、昨日見た情報から選んだのだろう。


 自分の物ではない部屋へ、自分が使える物だけが先回りして置かれている。歓迎されていると考えるのは単純すぎる気がしたが、少なくとも来る可能性を真面目に想定されていた。


 窓の外には、会社の上層階が見えた。徒歩でも通えそうな距離である。朝、同じ場所から出て、同じ会社へ向かい、夜にはまたここへ戻る。その繰り返しを想像すると、まだ署名もしていないのに胸の奥が落ち着かなくなった。


「この部屋へ私が入る時は、事前に許可を取る。室内側には物理式の補助錠があり、通常の管理用権限では開かない。火災その他の緊急時だけは、非常解錠装置が作動する。鍵の一本はこの部屋、もう一本は建物の出入口用だ。出入りに私の許可はいらない」

「帰宅時間の報告は必要でしょうか」

「契約上の義務にはしない。ただし、食事の用意と防犯の都合がある。遅くなる時には連絡しろ。私も同じようにする」

「社長もですか」

「共同生活で一方だけが所在を通知するのは、監視と呼ばれても仕方がないからな」


 ツキはファイルを開いた。


 避難経路は二系統。寝室と廊下に火災報知器。窓際には避難用設備が収納され、充電機器は机の耐熱性のある場所でのみ使うこと。モバイルバッテリーは専用の袋に入れ、使用しない時は廊下の保管庫へ置くこと。


 細かいが、理由はわかる。


「一つ、確認する」

「はい」

「この建物で火災警報が鳴ったら、どうする?」

「火元を確認して、必要な物を持ってから、最寄りの避難経路へ――」

「不正解だ。火元を確認するな。今持っている物はそのままでいい。新たに何かを探したり、取りに戻ったりせず、最寄りの避難経路から外へ出ろ」


 答えの途中で切られた。


 それまで設備を案内していた声とは違った。音量は上がっていない。それでも一語ずつが固く、こちらの解釈で意味を緩める余地を残さない。


 昨日の部屋でも、社長は火だけを危険と呼ぶなと言った。漏電も、天井の落下もある。布団が乾くことと安全は関係がない。あの時はツキの判断を呆れていたはずなのに、今は呆れより先に、正しい行動を確実に入れようとしている。


「スマートフォンを持っている場合は?」

「そのまま持て。連絡にも使える。持っていないなら取りに戻るな」

「社長の居場所も、確認しなくていいんですか?」

「するな。私の生存確認は警備担当の仕事だ」

「同じ建物にいるとわかっていても?」

「なおさら探すな。私が自力で動けない状態なら、お前一人に運べる重量ではない。偶然見つけた場合は位置と状態を警備へ伝え、そのまま避難しろ。救助のために戻るな」

「ですが――」

「お前は、他人が残っていると知れば戻るつもりだな?」

「状況によります」

「戻ると答えたに等しい。状況判断は避難後に専門家がする。お前は外へ出る。それだけをしろ」


 声が、契約を説明していた時より低くなっている。


 ツキは、自分が昨日の火災に在宅していた場合を考えた。


 上の階で物音がして、警報が鳴る。廊下へ出て、どの部屋かを確かめる。誰かが困っていれば声をかける。スマートフォンと仕事用の鞄くらいは持ちたいと思うだろう。火がまだ見えなければ、一度戻っても大丈夫だと考えるかもしれない。


 社長が想像しているのも、おそらく同じ行動だった。


 昨日、濡れた部屋と中身の少ない冷蔵庫を見たことだけが、同居を決めた理由ではないのだろう。火も水も来ていない段階なら、自分はその場に残る。住めると言い張った時のように、危険をできるだけ小さく解釈する。社長はそれを確信して、ホテルより近い場所へ置こうとしている。


 その結論は少し失礼で、かなり正確だった。


「復唱」

「今持っている物だけを持ち、火元や社長を探さず、最寄りの避難経路から外へ出ます」

「煙がある場合は?」

「姿勢を低くします。エレベーターは使用しません」

「防火扉は閉められる範囲で閉めろ。ただし、閉めるために戻るな。外へ出た後は?」

「警備の方へ連絡し、指示された場所で待機します」

「よし」


 社長は避難経路図を閉じなかった。そのままツキを廊下の端まで連れていき、通常使う出入口とは別の扉を開けさせた。解錠方法、非常灯の位置、階段へ入った後の経路。外へ出た場合の集合場所まで、実際の方向を指して確認する。


 非常口の扉は重かった。ツキが押すのを見て、社長は手を貸さず、開け切れることを確かめた。階段へ続く照明は普段より暗く、足元の誘導灯だけが緑色に光っている。ここから外へ下りるまで、何度曲がり、どの扉を通るか。ファイルの平面図で見るより、実際の距離は長かった。


 社長は一度説明した後、ツキを居室まで戻し、今度は先に立たずに同じ扉へ行かせた。途中で別の廊下へ曲がりかけると、無言で見られた。自分で気づいて戻るまで、正解を教えない。


 二度目には迷わず辿り着いた。


 地震や不審者への対応もファイルには書かれている。けれど、社長が一つずつ回答させたのは、火災についてだけだった。


 何か理由があるのだろうとは思った。尋ねれば答える人でも、答えたくない時に誤魔化す人でもない。ただ、今聞けば、ツキ自身の避難より彼の事情へ意識が移る。社長はそれを望まない気がした。


 だから、質問はしなかった。


「忘れるな」

「はい」

「お前の『はい』は、他人の安全については信用できる。自分のことになると著しく信用が落ちる。今の回答は、自分の命についての指示だと理解しろ」

「承知しました」


 社長はようやく避難経路図を閉じた。


「この室内靴も、わたしのためにご用意されたんですか?」

「他に誰が履く?」

「昨日の今日で、サイズまでよくわかりましたね」

「昨日、濡れた部屋でお前の靴を二度も見た。必要なら調べれば済む」


 そこまでしてもらったことが嬉しくて、ツキは室内靴の爪先を見た。


 濡れた部屋で、社長はツキの足元を見ていた。転ばないかを確かめ、靴の大きさまで覚えていた。彼にとっては必要な情報を収集しただけなのだろうが、記憶の中へ自分の寸法が残ったと思えば、それで十分だった。


「今日は内見だけだ。ホテルへ戻れ」

「今日からではないんですか?」


 社長が横目で見る。


「今朝、適正な手続きをすると言ったはずだ。お前に独立した確認先を渡し、契約書をコンプライアンスへ開示し、私の指揮命令権から生活上の合意を切り離す。早くとも二日はかかる」

「そうですか……」

「なぜ残念そうなんだ」

「楽しみでしたので」

「二日くらい待て」


 待てば本当に暮らしていいらしい。


 その日はホテルへ戻った。


 車で送られる間、社長は再び仕事へ戻った。内見中に止めていた連絡がまとめて届いているらしく、画面には次々と通知が積まれていく。ツキのために空けられていた時間が終わり、社長が通常の速度へ戻っていく。


 それでも、ホテルの入口へ着く前に一度だけ画面を閉じた。


「契約書は今夜送る。わからない条項があれば、私ではなく先に指定の確認先へ聞け」

「社長へ聞いてはいけないんですか?」

「聞いてもいい。だが、私の説明だけで納得するな。お前が私の意図を好意的に解釈する傾向は、もう把握している」

「そんなにでしょうか」

「この二日で自覚できなければ、やはり観察が必要だな」


 同居を勧める人から、同居を勧める自分の言葉を信用するなと言われている。奇妙ではあったが、反論はできなかった。


 その夜に届いた契約書は、朝見た草案より頁が増えていた。変更履歴も添付され、どの条項が誰の指摘で直されたかまで残っている。難しい部分を飛ばして署名できる作りではなかった。


 ツキはホテルの机で、端から読んだ。雇用関係と生活上の契約が混ざらないこと。社長がツキの退去を命じられる条件が極端に限定されていること。ツキの側は理由を示さず解除できること。生活費の扱い、私物と個人情報、居室へ入る場合、緊急時の例外。


 一度読んで、わからない言葉を調べ、もう一度読む。確認先へ三点を送り、翌日の昼までに回答を受けた。その回答と社長の説明が一致することも確かめた。


 二日の間、CEO室ではいつも通り仕事をした。社長も、内見の感想や契約の進み具合を尋ねなかった。ツキが時計を見ると気づくくせに、署名を急かす気配だけはない。


 内見した部屋は空いたまま、室内靴も置かれたまま待っている。


 待たされているのではなく、自分で確認するための時間を与えられている。そう理解していても、二日は思っていたより長かった。


 二日後、契約書の確認が終わった。


 雇用契約とは独立していること。ツキ専用の居室と鍵を用意すること。居住費、食事、日常生活に必要な物品の費用は社長が負担すること。家事労働、秘書業務、夜間の業務対応を対価として求めないこと。私生活上の介入は、生命に差し迫った危険がある場合を除き、ツキが都度拒否できること。契約はいつでも解除でき、解除後も三か月間は同等の住居を保障すること。社内と社外に、それぞれ社長を経由しない相談先があること。


 ツキは端から読み、いくつか質問した。


 署名の場は社長が寝泊まりする建物ではなく、会社の小会議室だった。扉には大きな窓があり、廊下から中が見える。社長はツキの隣ではなく、机を挟んだ正面に座っている。


 玄関で距離を取った時と同じだった。必要な条件を、言葉だけでなく場所と配置でも整えている。


「退職後も三か月間有効という条項は、わたしから退職した場合も含みますか」

「含む。会社に残るため住居を失う危険を受け入れた、と後から評価される余地をなくす」

「生活費の負担は、税務上どのように処理されますか」

「契約に基づく実費と、個人からお前への利益供与を分けて記録する。課税対象になるものは私の側で追加負担する。お前の手取りを減らすつもりはない」

「契約期間中に、わたしが別の住居を借りることは」

「自由だ。ここを使わなくても違約にはならない」

「承知しました」


 最後の頁へ署名する。


 社長はその様子を見ていた。


 ペン先が紙を擦る音が、静かな室内へ残る。名前を書き終え、日付を入れたところで、ツキはようやく自分が本当に社長と暮らすのだと実感した。


 同居に必要なのは、もっと個人的な約束だと思っていた。鍵を渡され、今日からここへ帰るようにと言われるだけでも、ツキなら頷いただろう。実際には、頁を重ねた契約と、確認のための二日と、いつでも出ていける権利が先に置かれた。


 社長は人を信用しない。その代わり、信頼がなくても関係を始められるよう、仕組みを作る人なのかもしれなかった。


「今度は早いと言わないんですね」

「条件を読み、質問し、外部の確認も受けた。これ以上、何を待つ?」

「では、適切な早さですか?」

「契約についてはな。お前が私と暮らすこと自体を喜んでいる理由は、まだ何一つ説明されていない」

「社長は、わたしと暮らすのは嫌ですか?」

「嫌な相手へ、自分からこれほど面倒な契約書を用意すると思うのか?」

「では、よかったです」

「また説明から逃げたな」


 逃げたつもりはなかった。


 その日の夕方、ホテルに置いてあった荷物が運び込まれた。


 衣類の袋と、段ボール箱が二つ。仕事用の鞄。ホテルで受け取った日用品。移動は二十分もかからず終わった。


 運び込まれた荷物は、広い玄関の隅へ置くとさらに少なく見えた。人ひとりの生活を移したというより、出張から戻った荷物のようである。


 社長はそれを見ても、今回は何も言わなかった。もう昨日までの部屋で十分に言ったからか、ここから増やすつもりだからかはわからない。衣類の袋だけを持ち、ツキの居室の前まで運ぶと、床へ静かに置いた。


「荷解きは自分でできます」

「やれ。ここはお前の領域だ。私は入らない」


 社長は居室の入口から一歩も中へ入らなかった。


 この部屋を用意したのも、寝具や充電器を選んだのも彼である。それでも、契約が始まった瞬間から、境目の内側はツキの領域として扱うらしい。開いた扉の前に立つ大きな身体が、敷居を越えないことの方が、玄関での長い宣言よりわかりやすかった。


「それから、会社以外ではツキと呼ぶ」

「わたしをですか?」

「他に誰がいる。玉では、就寝場所にまで社員を持ち込んだようで気分が悪い」

「わたしは、社長のままでしょうか」

「好きに呼べ。ただし、仕事中に混同しない自信があるならな」


 ナザリ、と頭の中で呼んでみる。


 口から出すには、まだ少し近すぎた。


 名字でも、社内で呼ばれている短い呼び方でもない。施設でも学校でも会社でも呼ばれてきた、自分の名前だった。社長の声で呼ばれると、これまでより音の輪郭がはっきりする。


 勤務時間の外では、社員ではないツキを置く。その区別を彼の方から作ってくれたことが、呼び方以上に嬉しかった。


「当面は、社長とお呼びします」

「妥当だな。荷解きが済んだら食事にする」

「はい」


 箱を開けても、置く物はほとんどない。卒業アルバムと書類は机の下へ収め、服を収納へ入れる。大きすぎる服ばかりが広い収納の一角へ並んだ。


 私物をすべて入れても、部屋は内見した時とほとんど変わらなかった。


 空いた棚が多い。机の引き出しも、ベッド脇の小さな台も、何かを入れられる状態のまま残った。これまでなら、空いていることを便利だと思うだけだった。今は、ここへ先の時間を入れてもいいと言われているように見える。


 鍵を机の上から取り、手の中で一度確かめる。会社の社員証より小さく、ホテルのカードキーより重い。社長の許可がなくても開けられる、自分の帰る場所の鍵だった。


 まだ帰るという言葉を使うには落ち着かなかった。けれど、鞄へ入れて見えなくするのも惜しく、仕事用の鍵とは別の場所へ収めた。


 居間へ戻ると、食卓に夕食が用意されていた。人の姿はない。聞けば、決まった時間に調理済みのものが届き、保温設備へ収められるらしい。


 主菜は鶏肉と野菜の煮込みで、温かいパンと、酸味のある葉物のサラダが添えられていた。会社の昼食と同じく、何をどれだけ食べるか考えなくても一食として成立する量である。ツキ一人なら、パンだけ先に食べ、残りは明日でいいと判断したかもしれない。


 社長は二人分を食卓へ運び、ツキの方へ少し小さな器を置いた。量を減らされたのではなく、食べ切れる量から始め、必要なら足せるようにしているらしい。水の入ったグラスも、ツキが座る側へ先に置かれた。


 昼食を一週間見ただけで、すでに食べる速度と量を調整されている。観察結果を使うのが早い。


 社長と向かい合って食べる。


 会社の昼食と違い、目の前に端末はない。電話も鳴らない。二人とも仕事の話をしなかったため、しばらく食器の音だけが続いた。


 静かではあるが、ホテルで一人で食べる時の静けさとは違う。向かいでカトラリーが皿へ触れる。ツキが水へ手を伸ばすと、少し遅れて社長もグラスを取る。互いに何も言わなくても、二人分の時間が同じ速度で進んでいる。


 ツキは何度か顔を上げた。


 会社で見る社長は、何かを読み、話し、決めている。今は食事だけをしている。視線も手も一つのことにしか使われていない。それが珍しく、見てはいけないものを見ているようでもあり、もっと見ていたいようでもあった。


「何か話したいことは?」

「これは、会話が必要な時間でしょうか」

「必要ではない。お前が先ほどから何度もこちらを見ているから聞いた」

「一緒に暮らしている感じがするなと思っていました」

「実際に暮らし始めたところだ」

「はい」


 その事実を口にすると、また嬉しくなった。


 社長は返事をした後、煮込みを一口食べた。特別な表情はない。けれど、一緒に暮らしているという言葉を否定も、契約上はと訂正もしなかった。


 ツキは残っていた分を、少し時間をかけて食べた。


 食事が終わり、社長が立つ。ツキも食器を重ねて立ち上がった。


 用意してもらい、同じ食卓で食べ、何もしないまま部屋へ戻るのは落ち着かない。相手が社長だからというだけではなく、他人から何かを受け取った後には、別の形でも返しておく方が収まりがいい。


 ホテルなら費用を払う。会社なら仕事をする。ここでは何を返せばいいのか、まだ決まっていない。契約書には何も求めないと書かれていたが、本当に何もしないことには慣れていなかった。


「それは置け」

「流しへ運びます」

「置け」


 言われた通り、食卓へ戻す。


「わたしって、もしかして家政婦も兼任……ではないんですよね?」

「契約書を読んだだろう。やりたければやればいいが……」


 社長はツキの手と、重ねられた食器を見た。


 その目は、濡れた部屋の石鹸、冷蔵庫、大きすぎる服を順番に思い出しているように見えた。許可を出しかけた人の顔ではない。


「……いや。掃除が堪能には欠片も見えない。やめろ。清掃、掃除、洗浄……いや、それだけでは足りないな。皿や風呂、服を洗うことも、すべて禁止する」

「ぼろぼろに言われている……」

「適性を判断しているに過ぎない。お前は自分の持ち物だと思えば軽んじ、他人のものだと思えば労力をかけすぎる。仕事だと分類されれば多少は普通の情熱を傾けられるらしいが、私的な分野になると両極端だ。清掃業務に慣れているわけでもない。時間効率として最悪だと判断した」

「食器を流しへ運ぶくらいはできます」

「残飯を与えられた礼として、ステンレス製弁当箱を十七分かけて磨く人間が言っても信用はない」

「あの件、いつまで査定資料に残るんですか?」

「お前の労力配分を端的に示す事例として優秀だからな。長く引用するつもりだ」


 弁当箱一つが、生活全般の適性判断にまで使われている。反論したかったが、社長の食器へ触れれば、汚れが残っていないか気になって長く洗うだろうという予想はできた。


 自分の食器なら、表面に何もついていなければ終わりにする。その差を、社長はもう知っている。


 社長は食器を食洗機へ収めた。日常的な清掃は自動設備が行い、隔週で契約しているハウスキーパーが入る。衣類は種類ごとに、洗濯設備かクリーニングへ回す。寝具や浴室の清掃も契約に含まれているらしい。


 食器を並べる手に迷いはない。家事をしないのではなく、日常の工程を把握し、自分がする必要のない部分だけを外へ渡している。ツキのように、汚れた時に考え、手元にあるものでどうにかする方法とは違った。


 誰が、いつ、どの品質で行うかが決められている以上、ツキが善意で割り込む方が工程を乱す。その説明なら、何もしないことも怠惰ではなくなる。


「お前が洗っていいのは仕事と自分の身体だけだ」

「仕事も洗うんですか?」

「粗を洗い出すだろう」

「なるほど」

「納得するところか?」


 社長は食洗機を閉めた。


「加えて、当面は調理器具、火気、刃物の使用を禁止する。この台所に裸火の出る設備はないが、加熱設備はすべて火気と同様に扱え。湯が必要なら電気ケトル、簡単な加熱は電子レンジを使え。使用方法がわからない設備には触るな」

「包丁もですか?」

「必要な食事は用意される。趣味として料理をしたいなら、設備とお前の技能を確認してからだ」

「趣味というほどではありません」

「なら問題はないな」


 火気という言葉だけ、また説明が細かい。


 この台所にはガスの炎が出る設備はない。加熱面へ手を触れない限り、ツキにも危険そうには見えなかった。それでも社長は、電源の位置、使用後に表示が消えたことの確認、異常な臭いがした場合に触れずに離れることまで言い添えた。


 昨日の火災が理由なのだろうか。自社で熱を扱う設備を作っているからかもしれない。どちらにせよ、適当に返事をすれば最初から説明される気配があったため、ツキは一つずつ頷いた。


 家事をしないことに、罪悪感がないわけではない。けれど、社長自身もほとんどしておらず、専門の相手へ費用を支払っている。ツキが割り込めば、仕事を奪うことになるのかもしれない。


「わかりました。何もしません」

「極端な結論へ逃げるな。自分の荷物を片づけ、使用した物を元へ戻し、食べ、入浴し、眠れ。それだけで当面は十分な仕事だ」

「生活って、仕事なんですか?」

「お前にとっては研修項目だな」


 共同生活初日に、生活能力を研修対象へ分類されてしまった。


 それでも、何もしなくていいと言われるよりは理解しやすい。


 食べることも、眠ることも、自分だけのためだと思えば後回しにできる。社長が確認する研修だと分類されれば、決められた通りに実行しなければならない。彼はそれを見抜いた上で、ツキが従いやすい言葉へ置き換えたのだろう。


 少し悔しいが、効果はあった。


 専用の浴室へ入ると、棚には用途の違う容器が並んでいた。シャンプー、コンディショナー、身体用の洗浄料、洗顔料。どれも未開封で、使う順番が小さな紙へ書かれている。手洗い用の固形石鹸はなかった。


 髪へ使うものと身体へ使うものが別々にある。それ自体は知っていたが、切らした後も買わずに済ませていた期間を思うと、棚の数が多く見えた。説明通りに使い、湯を浴びる。洗った後の髪は、普段より指が通った。


 浴室を出ると、肌に塗るものまで二本置かれていた。今日はそこまで研修項目に含まれていないことにして、一本だけ手へ取り、少量を腕へ伸ばした。


 自分のためだけに用意された物を使うたび、少し落ち着かない。使わなければ減らず、長く持つのにと思う。それでも、空になれば社長はまた用意するのだろう。減らすことまで、この場所では正しい使用なのかもしれなかった。


 入浴を済ませ、午後十一時前に自分の部屋へ入った。


 寝具は軽く、温かかった。枕もホテルのものより頭に合う。室内は静かで、廊下の物音もほとんど聞こえない。


 照明を消すと、窓の端から街の明かりだけが入った。元の部屋なら、隣室の水音や道路を走る車の音が壁越しに聞こえた。ここでは空調の風さえ意識しなければわからず、目を閉じると部屋の広さまで消えてしまう。


 新しい寝具からは、洗われた布の匂いがする。身体を横へ向けても壁へ当たらない。足を伸ばしても余るほどなのに、ツキはベッドの中央ではなく、いつもの布団と同じ幅だけを使っていた。


 それでも、なかなか眠れなかった。


 知らない場所だからではない。壁を隔てたどこかに社長がいることを考えると、落ち着かないというより、少し楽しくなってしまう。


 同じ建物に住む人はこれまでにもいた。施設では同じ屋根の下に大勢が眠り、集合住宅では壁の向こうに知らない生活が続いていた。けれど、互いに帰宅を伝え、同じ食卓を使い、明日の朝も顔を合わせる相手として誰かを意識するのは初めてだった。


 まして、その相手が社長である。


 昼間なら数歩先にいることにも少し慣れた。けれど、勤務時間が終わり、名前の呼び方まで変えた後も近くにいるという事実には、まだ受け取り方がわからない。嬉しい、と考えるたびに胸の内側が浮き、眠るために落ち着かせる必要が出てくる。


 十分ほど横になり、喉が渇いたことにして起き上がった。


 実際に少しは渇いていた。水を飲めば戻る理由になる。社長の様子を見るために部屋を出るのではなく、生活に必要な行動の途中で、たまたま見えるだけである。


 自分に対する説明としても、あまり精度は高くなかった。


 居間へ出る。


 壁の画面は消えていたが、書斎から明かりが漏れている。覗くと、社長は机に座り、電話を耳へ当てていた。片方の画面には海外の市場、別の画面には英語の論文、その上へメールが開かれている。


 夕食の時には外していた上着を再び着ている。襟元まで昼間と変わらず、食事を挟んで会社の続きを始めたというより、仕事の途中に生活を短く差し込んだようだった。


 通話の声は低く、早い。ツキには一部の単語しか拾えない言語だったが、相手の返答を待つ間にも目は論文の行を追い、空いた手がメールを閉じていく。CEO室で見ていた動作が、そのまま書斎へ移されていた。


 目が合う。


 社長は通話を続けたまま、廊下の給水設備を指差した。


 何をしに来たのか聞く必要もないらしい。ツキは指示された場所でグラスを取り、水を注いだ。飲んでいる間も、社長の視線は一度画面へ戻り、ツキが部屋へ向きを変える時にまた上がった。


 ツキは水を一杯飲み、自分の部屋へ戻った。


 見に来たことは、たぶん知られている。


 恥ずかしくなりながら布団へ入り直したが、社長が仕事をしているとわかったことで、かえって眠りにくくなった。明かりも音も届かない。それでも、壁の向こうでは画面が光り、電話が続いている。


 午前零時を過ぎても眠れず、もう一度出る。


 社長は同じ場所にいた。電話の相手は変わっている。市場の画面は別の国へ移り、論文には書き込みが増えていた。


 一時間前との違いは、机の端に空の水の容器が増えたことくらいだった。肩が落ちることも、欠伸をすることもない。ただ、目の下にある薄い影だけが、照明の角度によって少し深く見える。


 会社では、夜の社長を知らなかった。遅い時間にも指示が届くという話は聞いていたが、その時もこうして起きているのだとは考えていなかった。自動で処理される仕組みの奥に、結局この人が座っている。


「眠れないのか?」


 通話を終えた社長が聞いた。


「少しだけ。社長は、まだお仕事ですか?」

「見ればわかることを聞くな」

「何時頃お休みになるのでしょうか」

「先ほど十五分、目を閉じた」

「いつですか?」

「お前が入浴している間だ」

「それは睡眠に数えるものですか?」

「三時間ごとに十五分、九時間ごとに一時間半ほど目を閉じている。必要量は確保している」

「合計しても、かなり少なくありませんか?」

「役員として就いた者に労働基準法はない」

「あれ、そういう法律でしたっけ?」

「そうだ。……ふむ? 社内教育が足りていないな」


 多分、違う。


 言い切られると一瞬そういう規定だった気がするが、労働基準法は睡眠時間を削る許可証ではないはずだった。社長本人がその説明で納得していることの方が問題である。


 三時間ごとに十五分。九時間ごとに一時間半。人間の睡眠というより、設備の定期停止に近い。必要な回数だけ目を閉じ、最低限の性能を維持して、また稼働する。


「それに、株価を見ることと論文を読むことは仕事ではない。私の趣味だ」

「お仕事の画面と一緒に開いています」

「切り替える時間が惜しい」

「電話はお仕事ですよね」

「今夜のものは、引き継ぎの途中だ。いつでも私へ聞ける状態では、対応部署の胆力が育たない。段階的に切っている」

「でも、今は出ています」

「番号ごと廃止する前の教育期間だからな」


 言っていることは理解できる。


 それでも、同じ建物で暮らし始めた人が、自分の眠っている間ずっと画面の前にいると思うと気になった。


 これまでなら、社長がいつ眠るかはツキの生活に関係がなかった。深夜まで働いていると知っても、雲の上の人の逸話として受け取れた。今は同じ廊下の先にいる。朝、向かいで食事をするかもしれない相手が、夜を丸ごと仕事へ渡そうとしている。


 自分の食事を七分で終えることは止められた。なら、社長が睡眠を十五分で終えることも、気にしていいのではないか。


「同じ家にいる人が、夜に寝ていないのは気になります」


 社長が黙った。


 ツキの言葉遣いが少し崩れたことより、内容を検討しているように見えた。


 仕事中なら、同じ建物ではなく居住を共にする者、夜に寝ていないではなく睡眠時間が不足している、と言い直したかもしれない。今は、そのまま口から出た。


 社長の顔から、通話相手へ向けていた鋭さが少し抜ける。断る理由を探しているのではなく、ツキが気にするという事実を、どの項目へ置くか考えているようだった。


「……ふむ」

「もし眠れないようでしたら、ホットミルクでも作りましょうか」

「おやおや。可愛い従業員が寝かしつけてくれるのか」


 可愛い、と言われた。


 聞き間違いではないか確認したかったが、確認して訂正されると困る。


 社長は意地の悪い言い方をした時にも声を荒らげない。今の言葉も同じ調子だったが、ツキの中ではそこだけが不自然に長く残った。従業員という後半より、可愛いという前半ばかりが聞こえる。


 顔へ出るとまた指摘される。ツキはできるだけ業務上の提案を続ける顔をした。


「同居人としてです」

「契約初日から職務範囲を拡張するとは熱心だな。私のこれは、お前の娯楽に溶かす夜ではなく仕事なんだが」

「ホットミルクを飲む時間くらいは、休憩にできませんか?」

「懇願されるのは案外気分がいいな。寝かしつけられても構わない気分になってきた」

「では、作ってきます」

「待て。コンロを使うな。火を使うな。電子レンジを使用しろ。使っていいカップは棚の右側だ。牛乳は冷蔵庫の二段目、奥にある。加熱は六百ワットで一分二十秒から始めろ」

「はい。寝かしつけます」


 台所へ向かい、言われた通りのカップを出した。


 白いカップは持ち手が大きく、社長の手でも持ちやすそうだった。棚の左側には薄い器もあったが、使っていいものを指定された以上、迷う必要はない。


 牛乳を注ぎ、電子レンジへ入れる。指定された時間では少しぬるかったため、十秒ずつ二度追加する。ちょうど飲みやすい温度になった。


 加熱中は、その場を離れなかった。表示が消えたことを確かめ、扉を開け、湯気の量を見る。初日に火災時の復唱をさせられ、加熱設備の扱いを説明された直後である。ここで牛乳を吹きこぼせば、電子レンジまで使用禁止になる気がした。


 温度を確かめるため、自分用の匙へ一滴だけ取った。熱すぎず、ぬるすぎない。ホットミルクとしての適温を社長がどう定義するかはわからないが、少なくとも口を火傷することはない。


 誰かを眠らせるために飲み物を用意するのは初めてだった。牛乳を温めただけなのに、運ぶ時には妙な達成感があった。


「できました。ベッドまで持っていきますので、片づけて寝ていてください」

「……ベッドまで?」

「寝かしつけるので」


 社長はツキとカップを見比べた。


 初めて彼の返答が一拍遅れた。


 ツキは自分の言葉を振り返る。飲み物を渡して、仕事を片づけさせ、寝室まで連れていく。それ以上のことは何も考えていなかったはずなのに、社長の口からベッドという言葉を返されると、急に別の意味が混ざった気がした。


 今さら取り消せば、そちらの意味を意識したと認めることになる。カップを両手で持ち、何もおかしくない顔を続けた。


「いいだろう。三十分だ。それで眠れなければ、私は仕事へ戻る」

「承知しました」


 社長の寝室へ入るのは、内見に続いて二度目だった。


 昼間に見た時は、設備の一つとして眺めた。夜になり、照明が落とされ、社長本人が入ると、同じ部屋がまったく違って見える。


 枕元には端末が二つ、充電中の腕時計、未開封の水。ベッドの上に余計な物はない。眠る支度というものを省略し、横になればすぐ目を閉じられるように整えられている。


 彼は枕元の端末を伏せ、照明を落とした。上着を脱ぎ、シャツの一番上だけを外してベッドへ入る。ツキはカップを渡し、飲み終わるまで脇に立っていた。


 上着がなくなるだけで、会社にいる時より肩の線が近く見えた。シャツの袖は手首まで下りたままで、完全に眠る服装ではない。三十分後には起きて、そのまま書斎へ戻るつもりなのだろう。


 社長はカップを受け取り、温度を確かめるように一口飲んだ。何も言わず、残りも飲む。合格だったらしい。


 空のカップを受け取る。寝かしつけると宣言したものの、ここから何をすればいいのかは考えていなかった。目を閉じてくださいと命じるのもおかしい。子供へするように布団を叩く姿は、さらに想像できない。


「それで?」

「それで、とは」

「お前はそこで三十分、直立しているつもりか?」

「椅子をお借りしてもよろしいでしょうか」

「遠いな」


 社長が片手を差し出した。


 照明を落とした部屋の中で、その手だけがツキの方へ伸びている。昨日は転びかけた身体を止めるため、今日は玄関で距離を作るために使われた手だった。


 今は、危険も契約上の必要もない。


「来い」


 意味を考えている間に、手首を掴まれた。


 指は温かく、力はほとんど入っていない。引くというより、ここへ来る選択肢の場所を示されているだけだった。


「ここへ横になれ」

「わたしもですか?」

「同じ家の人間が寝ていないと気になるのだろう。なら、お前も寝ればいい」

「それは、寝かしつけというより添い寝では……」

「分類に不満があるなら、手を離す。自分の部屋へ戻れ」


 掴む力は強くなかった。手を引けば、簡単に外せそうだった。


「嫌なら今言え。契約書に署名して一日も経っていないうちから、拒否権を忘れたとは言わせないぞ」

「嫌ではありません」


 社長の指が、手首を一周している。


 脈が触れている気がした。速いことまで知られるのではないかと思ったが、手を離してほしいとは感じなかった。


 玄関で渡された武器を、使わない自由もある。嫌ではないという言葉は、社長の機嫌を取るためでも、住居を失わないためでもない。ツキ自身が、この手を振りほどきたくないと思っている。


 それを区別するために、契約書と二日があったのかもしれない。


「では、横になってもよろしいでしょうか」

「許可した。来い」


 ベッドの端へ膝をつく。身体を横たえる前に手を引かれ、そのまま布団の中へ収められた。


 背中へ腕が回る。


 昨日、濡れた床で抱えられた時よりも近い。胸元へ額が触れ、脚の間へ社長の膝が入る。体格の厚みと体温に、四方を塞がれたようだった。


 ベッドへ沈む重みが違う。濡れた床では、落ちないよう支えられた一瞬だけだった。今は背中の腕が外れる理由もなく、ツキの身体が社長の胸と布団の間へ完全に収まっている。


 彼は百八十三センチある。百六十五センチのツキも女性として極端に小さいわけではないが、身体に厚みがない分、腕の中へ入ると差が大きくなった。胸元は広く、曲げられた脚にも逃げ道を塞ぐほどの重量がある。


 怖いというより、自分の輪郭が急に小さくなったようだった。


 シャツ越しにも体温が伝わる。昼間に何度も聞いた声が、空気を通さず胸から直接響く。息をするたび、その胸がわずかに上下し、ツキの額も一緒に動いた。


「苦しいか?」

「いいえ」

「怖いか?」

「いいえ」

「お前は本当に、警戒というものがないな」

「先ほど、武器をいただきましたので」

「あれは、武器があれば無条件に接近していいという説明ではない」

「社長は、わたしを害しますか?」

「その質問へ、私がいいえと答えることに何の価値がある?」

「わたしにはあります」


 社長はしばらく黙った。


 質問として脆いことは、ツキにもわかっていた。害する人間が正直に答えるとは限らない。肩書も契約も、未来の行動を完全には保証しない。


 それでも、社長は正確な答えを求める人だった。その人が、二人きりの暗い部屋で何を約束するかを聞きたかった。


「……害さない」

「では、大丈夫です」

「やはり教育が必要だな」


 呆れた声が、頭のすぐ上から響いた。


 答えは短かった。余計な条件も、緊急時を除くという例外もつかなかった。


 ツキはそれを、そのまま受け取った。


「三十分後に起こせ。眠っていなければ、そのまま戻っていい」

「はい」


 ツキは目を閉じた。


 社長の腕は重い。けれど、押さえつけられているというより、身体の輪郭を決めてもらっているようで落ち着いた。耳を澄ますと、胸の奥から一定の心音が聞こえる。


 眠れなかったはずなのに、今度は目を閉じていることが苦にならなかった。自分の部屋では、社長が壁の向こうにいると考えるたび意識が浮いた。ここでは考える必要がない。腕も心音も、近くにいることを途切れず教えてくれる。


 社長の手が一度だけ背中を動き、ツキが苦しくない位置を探すように止まった。それからは、何もされない。眠らせる側だったはずが、寝床として整えられているのはツキの方に思えた。


 最初の数分は、呼吸が少し速かった。


 社長の呼吸だった。


 眠ろうとしているのに、身体だけがまだ仕事の速度を保っている。胸の上下は浅く、閉じた目の奥でも何かを読んでいるのではないかと思うほど、時折瞼が動く。


 ツキは息をできるだけ静かにした。腕の中で動けば、せっかく閉じた目を開かせてしまう。眠る人のそばにいる方法を知らないため、荷物を扱う時より慎重に身体を置いた。


 やがて、腕から力が抜ける。完全に離れるのではなく、ツキを抱えた形のまま重みだけが増した。規則正しかった指先の動きも止まる。


 眠ったらしい。


 社長が眠るところを、ツキは初めて見た。


 当然だった。知り合ってまだ一週間と少しで、昨日まで住む場所も違った。それでも、昼も夜も何かを動かし続ける人が、本当に何もしなくなる瞬間は、珍しい現象を見つけたように感じられた。


 起きている時には眉間にごく薄く残っていた力が消え、呼吸が深くなる。ツキを抱いている腕だけは外れない。眠りに落ちても、手元へ置いたものの位置は変えないらしい。


 起こす役目があるため、ツキは眠らないようにした。


 暗い室内で三十分を数える。枕元の時計を何度か見た。二十九分を過ぎ、三十分になる。


 三十分は、起きて待つには長く、社長の睡眠としては短かった。


 このまま声をかけなければ、もう少し眠るのではないか。けれど、約束を破って仕事を遅らせるのもよくない。ツキは時計と、眠った顔を交互に見た。


 結局、三十秒だけ余分に待った。


「社長……? あの、寝てからもう、三十分……経っています」

「……」

「社長」

「……うるさいな」


 眠ったままの声だった。


「……お前は、三十分しか寝ないのか?」

「わたしは、四時間は寝たいです」

「では、七時まで……だ」

「……はい」


 社長の腕が、逃がさないように少しだけ縮まった。


 七時までなら、四時間よりずっと長い。自分が望んだ分を越えている。けれど、訂正する気にはならなかった。


 起こす役目は、今の返事で解除されたらしい。眠らないよう張っていた意識を緩めると、急に瞼が重くなった。


「おやすみなさい」

「ああ……寝ろよ……」


 返事の終わりは、もうほとんど息だった。


 ツキは胸元へ額を戻した。


 今夜だけの寝かしつけなのか、明日も頼まれるのかはわからない。けれど、同じ場所で目を閉じることを許されたのは、やはり、とてもいいことだった。


 自分の居室には、使われていない新しいベッドがある。契約書には専用の空間が保障され、この寝室へ来る義務はどこにもない。戻ろうと思えば戻れた。


 それでもツキは、社長の腕の中で眠る方を選んだ。


 胸の奥の音を聞いているうちに、壁も窓も、広すぎた建物も意識から消えた。最後に残ったのは、社長が確かに眠っているという事実だけだった。


 朝七時まで、社長は一度も目を開けなかった。

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