03
第三話 水浸しの部屋
「えっ、困りますね……。わかりました。よろしくお願いします」
CEO室で仕事をするようになって、一週間が経った。
慣れたとは言い難い。けれど、気づいたものは記録し、権限のある相手へ渡し、その先の完了まで確認すること。部屋を出る時は行き先を告げること。食事を七分で終わらせないこと。そのあたりが現在ツキに求められている業務らしい、ということはわかってきた。
午前十時過ぎ、私用のスマートフォンへ知らない番号から着信があった。
無視するべきか迷い、社長を見る。彼は電話の相手と話しながら、中央の画面へ届いた資料に目を通していた。ツキの視線に気づくと、スマートフォンを一度見てから、目だけで出ろと促した。
通話の相手は、住んでいる集合住宅の管理会社だった。
上階の一室から出火した。火はツキの部屋まで入っていないが、消火活動に使用した水が天井裏と壁内へ回り、室内も広範囲に濡れている。照明回路を含む電気設備の安全が確認できないため、部屋の主幹ブレーカーは落としてある。点検が終わるまで宿泊は禁止。本日午後一時から、管理会社の立会いで荷物の搬出だけはできる。
説明を聞いて、ツキは冒頭の返事をした。
電話を切る。
「何が困った」
社長は画面から目を離していなかった。
「上の階で火災があったそうです。わたしの部屋は何も燃えていませんが、消火のお水で水浸しになっていると」
「今日の午後から半休にするか」
「え? いや、別にそこまでではありませんが……」
そこで初めて、社長がツキを見た。
「住居が水浸しで、そこまでではありません? お前の基準だと何が半休を取る『そこまで』に該当する?」
「……」
「咎めても揶揄ってもいない。突然のことで判断を誤るというのはよくあることだ。半休にしろ」
「はい……」
「ついでに、私にも珍しく余裕がある。火災というのは昔から私の関心の中心にある事柄だ。もし差し支えがなければ、見学に行きたいと考えている。私は制度面の知識もある上に、荷物を運び出すことについても役に立つ」
「社長をそんな便利グッズみたいな扱いをするのは、平社員にはちょっと難易度が高いです」
「それは差し支える理由には該当しないな」
「特に、あの……はい。問題はございません」
社長は返事の代わりに内線を取り、午後の予定をいくつか移動させた。本当に余裕があったのかは、わからない。そもそも、研究者としても並外れた人間が社長業務までこなしていること自体、どうかしていると噂されている。ツキは実験棟へそれほど出入りしないが、彼に心酔する研究職の話は、それでも耳へ入ってくる。
「半休の申請を出せ。理由欄は住居被災」
「通常の有給休暇でよろしいでしょうか」
「よくない。災害時の特別休暇に該当する。規程第十九条を見ろ」
言われた箇所を開くと、火災、水損その他の事故により、本人が居住する住居の確認、家財の搬出、仮住居への移動が必要な場合、とあった。
「半日分のお給料までいただくほどでは……」
「制度を利用しないことが会社への利益になるとでも思っているのか?」
「支出は減ります」
「その程度の支出を惜しみ、被災した社員を通常勤務させる会社だという実績を作る方が高くつく。人事の集計も狂う。正しい分類を使え」
「承知しました」
申請すると、一分も経たず承認された。
昼食後、ツキは必要な連絡だけを済ませた。午後零時四十分、社長とともに会社を出る。
車の後部座席でも、彼は仕事を続けていた。片手の端末には先ほどとは違う資料が表示され、イヤホンから入る報告へ短く指示を返している。研究所からの電話だけは、返答にどこか熱が入る。ツキはこの一週間で、その違いがわかるようになっていた。車内でも、その処理精度は普段の社長室と変わらない。見学へ行く人というより、仕事場が移動しているだけに見えた。
ツキの住む集合住宅は、会社から車で三十分ほどの場所にある。
六階建ての、築年数としてはやや古い建物だった。周囲には消防車こそ残っていないが、入口の一部が規制され、濡れた煤の匂いがまだ漂っている。
車を降りた社長は、建物を下から上まで見た。
五階の窓が一つ、黒く抜けている。その真下がツキの部屋だった。
「火元の住人は」
「避難済みで、負傷者はいないと聞いております」
管理会社の担当者が答える。
「そうか」
社長はそれ以上、感想を言わなかった。発火原因、消防の放水経路、共用配線への影響、給排水設備、天井材の点検予定、復旧までの暫定日数。質問が次々に出てくる。担当者は途中から手元の資料を両手で持ち、確認しながら答えるようになった。
出火原因はまだ調査中。共用部の電気は点検済みだが、ツキの部屋を含む三戸は個別点検が終わるまで通電禁止。天井材の一部に膨れがあり、乾燥後に交換が必要になる可能性が高い。宿泊を許可できる時期は未定だった。
「今日は必要な家財だけお願いします。床もまだ濡れていますので、十分お気をつけください」
四階まで階段を上がると、部屋の前で手袋と靴を覆うカバーを渡された。三人とも身につけ、管理会社の鍵で扉が開けられる。
社長は暗い玄関の奥を見た。
「見られて困るものがあれば、先に片付けろ」
「いや、そういうものは特にありませんが……」
「私が入った後で思い出しても知らんぞ。先に行け。歩幅は小さくしろ。濡れた床では滑る」
「はい」
玄関から続く短い廊下は、照明がついていないせいもあって暗い。天井には濃い染みが広がり、照明器具の縁から、まだ時折水滴が落ちている。床には吸水シートが並べられていた。
ツキは一歩目を慎重に置いた。
二歩目で滑った。
「あっ」
傾いた身体を、社長が肘の上から掴んで引く。
「足元を見ろ」
「見ていたつもりでした。大変申し訳ございません」
「私への謝罪より、自分が転倒しかけたことを問題にしろ」
「はい……」
社長もそのまま玄関へ入り、ツキのすぐ後ろに立った。
「お前を一人で先行させた私の判断が悪かった。安全はプライバシーより優先される。ここからは離れるな」
「見られて困るものは本当にありません」
「それは結構。後で泣かれても困る」
掴まれた腕が離される。
指の熱が残った気がしたが、袖の上からなので、おそらく気のせいだった。
部屋は、一人暮らしとしても殺風景だった。
居室にあるのは、折り畳みの低い机、衣類を入れたプラスチックの引き出し、薄い布団、小さな冷蔵庫。壁際に段ボールが二箱置かれている。飾るための物は一つもない。
水は天井から壁を伝い、床へ広がったらしい。低い机の脚と布団は完全に濡れていた。プラスチックの引き出しは外側だけで済んでいるようだ。段ボールの置き場所は運よく濡れていないように見えた。
「これくらいなら、そのまま住めそうですね」
室内を見回し、ツキは言った。
社長と管理会社の担当者が同時にこちらを見た。
「布団は洗濯機に入れて干せばよさそうです。これ、すぐ乾くので」
「……」
「電気は点検が終わるまで使えないそうですけど、一晩くらいならスマホの明かりもありますし」
「……」
「あっ、洗濯機も使えないのか。では、コインランドリーに――」
「そういう問題ではない」
社長の声が、妙に低くなった。細くなった目が見下ろしている。あまり気づいてはいけない感情だが、ツキはこの顔がかなり好きだなと思った。封をして横に置く。
「お前は今、濡れた屋内配線、落下の可能性がある天井材、使用を禁止された電気設備の下で、布団の乾燥速度を根拠に宿泊できると判断したのか?」
「乾けば寝られるかなと」
「寝具だけが住居の安全性を決定するわけではない」
「でも、何も燃えてはいませんし……」
「今のところは、だ。危険は炎だけではない」
「はい?」
「管理会社から宿泊を禁止された部屋へ戻り、漏電か天井の落下で死んだ場合には、今のところ何も燃えていないという事実は何の役にも立たない」
ツキは天井を見た。やや色が変わっているようにも思える。
「これ、落ちるんですか?」
「可能性があるから点検するんだ。なぜ今初めて聞いたような顔をする?」
「電話では、点検が必要としか……」
「宿泊できないとも言われていただろう」
「念のためという意味かなと」
「お前は他人の警告まで、極めて安全な方向に解釈するのか……」
「あれ? じゃあ今立っているのもどうなんですか?」
「最初から長時間の滞在は予定されていない。なるべく早く引き上げるべきだろう」
社長はしばらくツキを見ていた。
怒っているというより、珍しい生物の危険な生態を目撃した顔だった。
「ホテルを手配する」
「そこまでしていただかなくても、ネットカフェなどで――」
「今、選択肢をさらに悪化させたな?」
「会社の近くにあります」
「立地の話はしていない」
社長が端末を取り出す。指先が滑らかに動く。
「最寄りで警備と食事に問題のないホテルを一室。ひとまず一週間、延長可能な予約にしろ。火災保険には加入していると先ほど確認した。宿泊費用はそちらで出るだろう。会社の被災支援制度では衣類のクリーニングと必要物品の購入も対象だ」
「一週間!?」
「電気設備と天井の点検日程すら決まっていないのに、なぜすぐに戻れると思った?」
「なんとなく……」
「二度と住居の安全性をなんとなくで判定するな」
通話を終えると、社長は管理会社の担当者へ、搬出してよい物と残す物の区分を確認した。濡れた家財は現状の写真を残し、保険会社の確認が済むまで勝手に処分しない方がいいらしい。
ツキはまず、布団を浴室へ持っていこうと考えた。こういったものを濡れたまま床に放置しておくと、戻れるようになった時に困る。
端を掴んで持ち上げる。薄い布団なので、普段なら片手でも運べる。だが、水を吸った今日は、見た目よりずっと重かった。
「待て。それを一人で持ち上げるな」
「大丈夫です。持てま――わっ」
重みに引かれて足が滑った。
今度は背後から腰へ腕が回った。背中が厚い胸元へぶつかり、足が床を離れかけたまま、身体だけが止まる。
「……」
「……」
社長の顔が、すぐ横にあった。
低い呼吸が耳へかかるほど近い。腰へ回った腕は、ツキが自分で立つよりも確実に身体を支えている。
「……ハラスメントと通報されても、今回は安全のためだったと証言していただけるだろうから、私は裁判を恐れる必要がなさそうだ」
「いや、これは多分、わたしがお金を払うべきやつだったりするんじゃないですかね」
「……」
「……」
腰へ回った腕が外れないまま、妙な沈黙だけが伸びた。
近い。声が耳元にある。背中には厚い胸元が触れ、腰は片腕だけで支えられている。自分が何を言ったのかを遅れて考え、ツキの頬が熱くなった。
「あの……怪我から救っていただいたお礼に……?」
「疑問形にしても、今の発言は改善されないな」
「大変申し訳ございません……」
「お前は私に謝る前に、救助へ妙な料金体系を持ち込むな。安全を確保しただけだ」
腕が外れる。
少し惜しいような気がしてしまったが、分類してはいけない感情だと思った。すでに手遅れな気もする。
「そこから動くな」
「でも、荷物を――」
「二度滑った人間に歩行の自由があると思うな。必要なものを指示しろ。私が運ぶ。……いや、家電や寝具以外の私物が段ボール数箱に収まるなら、運転手も上げてすべて持ち出した方が早い」
「本当に便利グッズのような扱いになってしまいます」
「まあ、安全のために使われる方が性に合っている」
「ひい……」
「何だ?」
「なんでもありません……」
ツキは廊下の比較的乾いた場所へ立たされた。
そこから、必要な物を指示する。
衣類は引き出し二段分。仕事用のスーツを除けば、ほとんどが身体より大きい。社長は畳んだ服を一枚持ち上げ、ツキと見比べた。
「これはお前のものか?」
「はい」
「誰かから譲られたのではなく?」
「自分で買いました」
「なぜサイズを合わせない」
「着られますので」
「布が身体へ引っかかれば着られる、という判定か?」
「そこまでは……」
「お前のそこまでには何の信用もない」
衣類は大きな袋一つに収まった。
冷蔵庫は停電しているため、中身を出す。ミネラルウォーター、小分けの調味料、開封済みのチョコレート。以上だった。
「今日、買い物へ行く予定でした」
「聞いていない」
「はい」
浴室には、開封された固形石鹸が一つと、同じ包装の未開封品が四つ置かれていた。
「これは手洗い用では?」
「身体も髪も洗えます」
「洗えることと、用途として適切なことを同一視するな。シャンプーは」
「ちょうど切らしていて」
「いつから」
「……」
「お前が黙るほどの期間だということはわかった」
社長は石鹸を持っていかなかった。
必要物品として新しく買わせるつもりらしい。
最後に、壁際の段ボール箱を持ち上げる。底が少し濡れているため、別の箱へ中身を移す必要があると社長は言った。ツキには問題になるほど濡れているように見えなかったが、特に抵抗する理由もないので頷いた。
「個人的な書類です。わたしがやります」
「そこから動くなと言った」
「でも」
「中身は見ない。お前は指示しろ」
社長は乾いた場所へ新しい箱を置き、箱の中から、封筒やファイルを一つずつ移した。卒業アルバム、契約書、税金関係の書類。どれも最初からまとめて入れられていたらしい。
「やけにまとまっているな。辞めるつもりか?」
「そんなつもりはありませんが……」
「ではなぜ、お前の荷物はすぐにでも発送できる状態なんだ?」
「収納へ入れても取り出さない物を、わざわざ広げる理由がないかなと」
「日常的に使うものは」
「服と布団と、スマートフォンくらいです」
「お前は生活を撤収作業だと思っているのか?」
「思ってはいません」
否定したものの、部屋を見ると説得力はなかった。
社長は書類の表題へ目を落とした。一枚一枚の内容は見なかったが、同じ種類の封筒が何通もあることには気づいたらしい。
「寄付金の受領証か」
「はい」
「どこへ」
「以前お世話になった施設と、関連する養育機関などです」
「毎月?」
「はい」
「いくら」
ツキは答えた。
社長の目が細くなる。
「年末調整とは別に、寄附金控除の確定申告はしているか」
「していません。控除を受けるために寄付しているわけではないので」
「動機の話はしていない。控除を捨てても、寄付先に一円増えるわけではない。還付された分を再び寄付すれば、同じ負担でより多く渡せるだろう」
「……!」
「今初めて気づいた顔をするな。控除の対象になるかは寄付先によって異なるが、過去分も還付申告できる可能性がある。受領証は捨てるな。該当先と証明書を確認し、必要なら会社の相談窓口を使え」
「はい。確認します」
「給与から生活費と最低限の貯蓄を引き、ほとんどを寄付している、と」
「ガチャ……ええと、ゲームにも少し使います」
「寄付とゲームの課金が同じ家計分類に並ぶ人間を初めて見た」
「娯楽費です」
「冗談で言っているのか?」
社長は部屋を見回した。
「この生活水準は、収入が足りないからではなく、意図的に自分へ金を使っていない結果か」
「必要なものはあります」
「濡れた部屋で寝ようとし、石鹸一つで全身を洗い、冷蔵庫に水しか入れていない人間の必要判定を、今後も尊重してもらえると思うなよ」
「チョコレートもあります」
「訂正に値しない」
管理会社の担当者が、会話を聞かないようにしている顔で、天井の写真を撮っていた。
搬出する荷物は、衣類の袋、詰め替えた書類箱、手をつけなかったもう一箱、仕事用の鞄だけだった。
社長が衣類の袋と仕事用の鞄を片手にまとめ、書類箱は管理会社の担当者、もう一箱は呼び寄せられた運転手が持った。ツキは手ぶらのまま、その横を歩かされる。空いた手を腰へ添えられているため、三度目は滑りようもない。
「本当にこれだけか?」
「はい。社長が便利グッズとして高性能だったので、一往復で終わりました」
「お前の神経の太さは特筆に値する」
建物の外へ出ると、ツキはようやく自分で歩くことを許された。
車には、ホテル名と予約内容がすでに届いていた。一週間分。朝食と夕食を部屋へ運ぶこともでき、ランドリーサービスがある。
「本当に、ここまでしていただかなくても……。というか、このグレードが本当に保険で出るのですか……?」
「出なければ私が払ってもいい」
「ネットカフェなら、もっと安く――」
「その言葉をもう一度口にすれば、ホテルで一人にしておく判断まで撤回する」
「……研究棟にはシャワー室があると聞いたことがあります」
「寝言を口走るほど疲れているとは気づかなかった。やはり、もっと厳重なプランに変更する必要があるようだな」
何に変更されるのかは、聞かない方がいい気がした。
しっかりと立つ。なんとなく敬礼をしてみた。
「ホテルに宿泊いたします」
「最初からそう言え」
ホテルへ着くと、社長は荷物を部屋の前まで運んだ。
部屋はツキの家より広かった。大きなベッド、机、ソファ、浴室。明日になれば必要な衣類と日用品も届くという。
「落ち着きませんね……」
「一週間もあれば慣れる」
「部屋の点検が早く終わるかもしれません」
「管理会社と電気工事業者の許可が出るまで戻るな。許可が出た場合も、私が確認する」
「社長がですか?」
「お前が乾いた布団だけを根拠に安全判定をする以上、仕方がない」
反論できなかった。
「今夜はここで寝ろ。明日、住居について別の提案をする」
「社宅でしょうか」
「いや。会社との契約では足りない」
「……?」
「もう少し個人的な契約にする」
質問する前に、社長は腕時計を確認した。
「私は戻る。食事は宿泊手続きとともに手配済みで、十八時半に届く」
「大変お手数をおかけいたしました……」
「そう、大変手間だった。これは貸しにする」
「社長、言い方が怖い時がかなり多いですけど、基本的に優しいのはかなりわかったので、怖がらないでおきます」
「牽制のつもりか? まあいい。では、また」
社長はツキを一人残し、仕事へ戻っていった。
*
会社へ戻る車内で、ナザリは、自分がひどく機嫌をよくしていることに気づいた。
火災を喜んでいるわけではない。負傷者はなく、ツキ自身にもけがはない。今夜の安全な寝床も確保した。だからこそ、後に残った問題を純粋に眺める余裕ができた。
問題がある。原因がある。手を入れれば、改善する余地がある。
そして当人は、手を入れられることをさほど嫌がっていない。
ホテルの延長。通常の社宅。別の賃貸住宅。
どれも住む場所としては足りる。あの女をまともに暮らさせる方法としては足りない。社宅は現在満室だが、空いていたとしても同じことだった。
火災も消火水も、単なるきっかけに過ぎない。あの部屋は被災する前から、生活の形をしていなかった。薄い布団と、大きすぎる服と、手洗い用の石鹸。人生を収めた段ボール箱。給与を受け取る端から外へ流し、自分には壊れるまで何も補充しない。
昼食を監視したところで、休日や朝晩に何を食べるかまでは捕捉できない。住居だけを取り替えても、ツキは新しい部屋に同じ生活を作るだろう。
必要なのは部屋ではない。
見て、判断し、必要な時に手を出す人間だ。
その条件を最も確実に満たせる場所を、ナザリは一つ知っている。
防火設備、警備、立地に問題はない。食事と清掃はすでに外部へ委託している。会社へ通うにも、今の住居より便利になる。
合理性だけなら、検討するまでもなかった。
そして、もう一つ。
二度触れても、ツキは拒まなかった。
一度目は腕。二度目は腰。どちらも転倒を防ぐために必要な接触だった。驚きはしたが、身を固くすることも、離れようとすることもなかった。二度目など、自分が金を払うべきだと口走り、腕を外した時には、むしろわずかに惜しむような顔さえした。
人間の相性は、共に食事をすればある程度わかる。距離を置くべき相手か、多少踏み込んでも負担にならない相手か。ツキは少なくとも後者だった。昼食時には、雇用主と被雇用者としてはいささか踏み込みすぎたやり取りもあったが、負担には感じていないようだった。相性がいいのではなく、彼女が極度に神経の太い人間である可能性も否めないが。
その中身がなんであれ、ナザリが近くにいることを嫌っていない。その判断には十分だ。
目的があり、方法があるなら、利用しない理由はない。
弟にはいくつかの懸案事項が残っているが、今は介入をすれば恨まれるだけだということは把握している。
これまでナザリは、空いた時間を仕事へ戻してきた。
暇がないのではない。暇ができるたびに、やるべきことを探して埋めていたに過ぎない。
一人くらい、成果のためでも義務でもなく、ただ自分が手をかけたいから手をかける相手がいてもいいのではないか。
食事を与えれば食べる。帰宅を命じれば帰る。記録させれば、見えなかった働きが次々に現れる。少し褒めれば嬉しそうにし、意地の悪いことを言っても、なぜかますます機嫌をよくする。
手を入れる箇所は、いくらでもある。
食事。睡眠。住居。衣類。資産。税金。健康。自分の労力を正しく評価するための教育。
どれだけ改善するのか。どこまで手をかければ、自分自身を保護するという発想を覚えるのか。
新しい趣味としては、申し分がない。
ナザリは、自分がツキを手元へ置きたいのだと認めた。
認めたところで、その欲求を退けるべき合理的理由も道義的理由も見当たらなかった。むしろ、やるべき理由ならいくらでも思いつく。
もちろん、会社における上下関係はある。断れば査定へ響くと思わせる形は好ましくない。雇用契約とは切り離し、費用負担、生活空間、解除条件、外部相談先、退去を希望した場合の住居保障まで明記する。コンプライアンス部門にも開示すればいい。
拒否できる仕組みは、完全に整える。
その上で、拒否する理由を一つずつ取り除けばいい。
ナザリは端末を開いた。
新規文書の表題へ、まずこう入力する。
『居住および生活支援に関する個人契約書』
第一条には、ツキがいつでも拒否および解除できることを置いた。




