アイリス
「──アイリス」
娘は、そう言った。
「アイリス」
俺は、繰り返した。
名前を口にした瞬間、何かが変わるかと思った。眼が、何か読み取るかと思った。
でも、変わらない。〈真価:ERROR〉のまま、そこにある。
名前が分かっても、この子の中身は、相変わらず見えなかった。
「……で?」と、アイリスが言った。「名前を聞いて、満足した?」
「いや」
俺は、正直に言った。
「もっと知りたくなった」
アイリスが、初めて、ほんの少し目を見開いた。それから、また表情を消した。
「変な人」
三回目だ。
「あんたの名前は」
「ノア」
「……ノア」
アイリスは、口の中で確かめるように、俺の名前をなぞった。
それだけで、なぜか、少し落ち着かない気分になった。
◆
その日から、アイリスとは、たまに顔を合わせるようになった。
示し合わせたわけじゃない。大市場の同じ通りを、二人とも、うろついていただけだ。
「また、値踏みしてる」
ある日、アイリスが、呆れたように言った。
「あんた、暇さえあれば、店を見て回ってるよね」
「これが仕事だ」
「仕事……」アイリスが、首を傾げた。「商人には、見えないけど」
鋭いところを突かれた。
商人には、見えない。その通りだ。俺には、まだ、店もなければ、看板もない。
あの短剣を売ってから、俺は、同じことを繰り返していた。安く眠っている真価を見つけて、買って、正しい値で売る。それだけで、懐は、少しずつ、膨らんでいた。
でも、そこで、頭打ちになっていることに、俺は気づいていた。
◆
「一人でやるには、限界がある」
俺は、ゴダじいさんの店で、ぽつりとこぼした。
「そりゃそうだ」と、じいさんが、鼻で笑った。「お前、いくら稼いだ」
「合わせて、10,000は超えた」
じいさんが、片眉を上げた。
「たった数日で、たいしたもんだ。……で、何に詰まってる」
「大きい取引がしたい。でも、俺は、まだ、ただの平民のガキだ」
貧民街の子どもが、いくら金を持っていても、大口の商談に呼ばれることはない。相手にされない。信用がない。
「商業ギルドに、登録すればいい」と、じいさんが言った。
「登録すれば、何が変わる」
「商人としての、身分が付く。ギルド証があれば、大商会とも取引できるし、店も持てる。今のお前は、ただ金を持ってるだけの子どもだが、ギルド証があれば、商人だ」
俺は、身を乗り出した。
「どうすれば、なれる」
「鑑定試験を受ける。ギルドの目利きの前で、品物の真価を言い当てる」
じいさんが、にやりと笑った。
「お前になら、造作もないだろう」
俺は、拳を握った。
金は、稼げるようになった。次に必要なのは、この世界で、まっとうに商売をするための、身分だ。
この眼があれば、鑑定試験は、怖くない。
問題は、別にあった。
「ただし」と、じいさんが、付け加えた。「受験するには、後ろ盾がいる。誰か、お前を保証してくれる商人が」
俺の顔が、曇った。
貧民街の孤児に、保証人になってくれる商人など、心当たりがない。
その時、扉が開いた。
「なんの話?」
アイリスが、立っていた。
いつの間について来ていたのか、俺には、気づかなかった。
じいさんが、興味深そうに、アイリスを見た。
「知り合いか、ノア」
「……まあ」
アイリスは、俺とじいさんを、交互に見た。
「保証人がいる、って聞こえたけど」
「あんたには、関係ない」
「関係、あるかもよ」
アイリスが、口の端を、わずかに上げた。
初めて見る、表情らしい表情だった。
「わたし、ちょうど、暇してたところ」
俺は、眼を、彼女に向けた。
いつも通り、〈真価:ERROR〉。
この子が、何者なのか。なぜ、保証人になれるようなことを、匂わせるのか。
分からないことばかりだ。
それでも、俺は、頷いていた。
「──頼む」




