嫁ない娘
3,000クルは、大金だ。
この金があれば、1年は遊んで暮らせる。腹いっぱい飯を食って、まともな寝床で寝られる。
ふつうの平民なら、そうする。
でも、俺はしなかった。
3,000クルを、飯に変えたら、そこで終わりだ。3クルが3,000になった、あの奇跡が、もう起きない。
この眼がある限り、金は増やせる。だったら、増やす。
俺は、商業区のさらに奥。大市場へ、足を向けた。
◆
大市場は、人と、物と、金の、渦だった。
露店が、通りの端から端まで並んでいる。香辛料、宝石、織物、魔道具。世界中の品が、ここに集まっている。
俺の眼には、その全部に、数字が浮かんでいた。
〈香辛料:市場180・真価60〉──ぼったくり。
〈古い指輪:市場5・真価900〉──掘り出し物。
〈魔石:市場2,000・真価2,000〉──良心的。珍しい。
値札と真価。二つの数字の海の中を、俺は泳ぐように歩いた。
人にも、数字がある。
商人にも、客にも、掏摸にも。真価と、感情の色。この人混みの、誰の腹の中も、俺には透けて見える。
世界が、まるで、値札だらけの一枚の帳簿みたいだった。
全部、読める。
──そのはずだった。
◆
最初は、故障かと思った。
人混みの中に、一つだけ、空白があった。
数字が、ない。感情の色も、ない。
まるで、そこだけ、世界からくり抜かれたみたいに。
俺は、その空白を、目で追った。
空白は、動いていた。人の形をして、歩いていた。
女の子だった。
俺と、同じくらいの年。旅装の外套を羽織って、市場を、まっすぐ見て歩いている。
俺は、思わず、まじまじと見た。
もう一度、眼をこらす。
やっぱり、出ない。
〈真価:ERROR〉
文字化けた記号が、彼女の上で、ちらついているだけだった。
この眼が開いてから、初めてだ。
鉄くずの真価も、店主の嘘も、掏摸の悪意も。何でも見えたこの眼が、彼女だけ、読めない。
気づくと、俺は、彼女の前に立っていた。
「あんた」
声が、勝手に出ていた。
女の子が、足を止めた。俺を見る。
「……なに?」
その顔に、感情の色は、出ない。眉一つ、動かない。
怒っているのか。警戒しているのか。それとも、なんとも思っていないのか。
分からない。
人の腹の中が全部見える俺が、この子の考えだけが、まったく分からなかった。
背筋が、ぞくりとした。
……なんだ、これは。
「用がないなら、どいて」
彼女は、それだけ言って、俺の横をすり抜けようとした。
「待った」
俺は、とっさに言った。
「あんた、名前は」
女の子が、ちらりと、振り返る。
「知って、どうするの」
「……いや」
どうもしない。
ただ、読めなかった。それだけだ。それだけのことが、こんなに、気になっている。
彼女は、小さく、鼻を鳴らした。
「変な人」
そして、人混みに、消えていった。
空白が、遠ざかっていく。数字の海の中を、一点の空白だけが、揺れて、見えなくなった。
◆
俺は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
手のひらを、開いてみる。
〈真価:??????〉
自分の真価は、見えない。
顔を上げて、彼女の消えた方を、見る。
あの子の真価も、見えない。
世界中の値段が見える眼に、二つだけ、穴があった。
自分と、あの娘。
……偶然、だろうか。
俺は、首を振った。今は、分からない。
でも、一つだけ、はっきりしたことがある。
あの空白を、俺はもう一度、見たい。
3,000クルを増やすより先に、それが、気になって仕方なかった。
才能なしの平民は、生まれて初めて、金より気になるものを見つけた。




