感情のない女
「一人で来い、って書いてあった」
「行く」
「話、聞いてたか。一人で、って」
「聞いてた。でも、行く」
アイリスは、一歩も、引かなかった。
「罠だったら、ノア一人じゃ、危ない。それに──化粧師の話なら、わたしの話でも、あるから」
正論だった。俺は、ため息をついて、折れた。
「……離れるなよ」
「ノアこそ、数字に酔って、倒れないでね」
「あれは、もう克服した」
◆
日暮れの、東の第三倉庫街は、人気がなかった。
倉庫の谷間を、抜けていくと、確かに、あった。青い扉の、小さな店。看板は、出ていない。
扉を、押す。
鈴の音が、鳴った。
店内は、薄暗く、棚には、雑多な古道具が、並んでいた。一見、どこにでもある、古物商だ。
だが、俺の眼には、見えていた。
棚の品の、半分以上が、真価と、市場の値が、噛み合っていない。偽装の、気配。ここは、化粧師に、連なる店だ。
「──来たのね」
店の奥から、声がした。
現れた人影を見て、俺は、息を、呑んだ。
地味な旅装の、女。伏し目がちの、顔。
忘れるはずが、なかった。
「あんた……あの時の」
俺の店に、偽装箱を、売りつけた女だった。
俺の眼を、初めて、欺いた相手。
とっさに、アイリスを、背に、庇った。
「そう、警戒しないで」
女は、両手を、軽く上げた。
「今日は、売りつける箱は、持ってきてないから」
「4,000クル、返してもらおうか」
「開口一番、それ?」
女が、初めて、ふっと、笑った。
「……いいわ。それも含めて、話しましょう」
◆
女は、カウンター越しに、向かい合った。
俺は、改めて、眼を、向けた。
〈真価:ERROR〉
驚いた。前に会った時は、90クルの、平坦な数字だった。今は、アイリスと同じ、完全な、空白。
「前と、表示が、違う」
俺が言うと、女は、目を、細めた。
「やっぱり。あなた、“視えて”るのね。……あの時は、安物の”化粧”で、行商人の値に、偽装してたの。今日は、素。素だと、あなたの眼には、そう見えるはずよ」
女は、自分の胸元を、指した。
「わたしには、生まれつきじゃない、“覆い”がかけられてる。その子と──同じようにね」
アイリスの肩が、跳ねた。
「あなた、何を、知ってるの」
「順番に、話すわ」
女は、静かに、言った。
「わたしは、ミラ。元、化粧師の、工房の人間。……正確には、工房で、育てられた、道具」
「道具?」
「化粧師はね、腕のいい細工職人の集団、なんてものじゃない。物の価値を、偽装する。それだけじゃなく、人も、偽装する。経歴を、身分を、顔すらも。……わたしみたいに、感情の”色”を消す訓練を、受けた人間を、諜報や、取引の駒に、使う」
あの、偽装箱の時の、不気味なほど、平坦な色。あれは、消されていたんじゃない。消す訓練の、成果だった。
「じゃあ、あの箱は」
「試したの。あなたの眼が、本物かどうか」
ミラは、悪びれずに、言った。
「地方の街に、物の真価を言い当てる子どもがいる。その噂は、去年あたりから、王都の裏にも、届いてた。……本物なら、いずれ、化粧師と、ぶつかる。その前に、確かめておきたかった」
「確かめて、どうする気だった」
「本物なら──あなたに、賭けようと、思ってた」
ミラの声から、ふざけた調子が、消えた。
「わたしは、工房から、逃げた人間なの。化粧師を、潰したい。でも、わたし一人じゃ、どうにもならない。奴らの偽装を、見破れる眼が、必要だった」
◆
「一つ、聞かせて」
それまで黙っていた、アイリスが、口を開いた。
「わたしに、かけられてる”覆い”。……誰が、かけたか、分かる?」
ミラは、アイリスを、じっと、見た。
「あなた、名前は」
「アイリス。……本当の名前は、分からない」
「その覆い、間近で見せて」
ミラは、アイリスの前に立ち、目を、凝らした。長い、長い、沈黙だった。
やがて、ミラが、掠れた声で、言った。
「……この技、見覚えがある。層の重ね方、ほつれ一つない縫い目。工房で、教材として、語り草になってた手際。……できるのは、一人しか、いない」
「誰」
「13年前まで、化粧師の頭領だった男。工房で、最高の腕を持ってた人。……13年前のある夜、突然、工房から、消えた」
ミラは、アイリスから、目を、離さなかった。
「小さな、女の子を、一人、連れて」
店の中の、空気が、止まった。
「わたしを、逃したのが……」
アイリスの声が、震えていた。
「化粧師の、頭領?」
「今の話と、あなたの覆いを見る限り、そうとしか、思えない」
俺は、頭の中で、線を、繋いでいた。
13年前。シャルダン家が、偽の証拠で、潰された。その偽装をやったのは、化粧師。
その化粧師の、頭領本人が。同じ夜、幼いリディアを、連れて、消えた。
家を、潰す側にいたはずの男が。娘、一人だけを、救って、姿を消した。
「……なんで」
俺は、呟いていた。
「なんで、頭領が、アイリスを」
「それは、わたしにも、分からない」
ミラは、首を、振った。
「でも、一つだけ、言える。頭領が消えてから、化粧師は、変わった。今の頭領は、二代目。……先代より、ずっと、危険よ」
窓の外は、もう、すっかり、夜だった。
答えに、一歩、近づいた。
そして、その答えは、俺たちの想像より、ずっと、深い場所に、埋まっているらしかった。




