人間失格
王都まで、あと4日。
追手の影に、怯えていても、仕方がなかった。俺たちは、荷運び人足として、隊商に紛れている。一番の防御は、人足らしく、働くことだ。
伯爵の帳簿写しは、油紙にくるんで、胴巻きの裏に、縫い込んである。肌身離さず、だ。
問題は、一つだけあった。
「ノア、お前、また止まってる!」
隊商の頭の、怒声が飛んできた。
俺は、荷袋を担いだまま、道端の露店の前で、固まっていた。
いや、違う。固まってたんじゃない。
見ていたのだ。
〈干し杏:市場8クル・真価25クル〉
「頭! この宿場の干し杏、安すぎます! 仕入れて王都で売れば3倍に──」
「人足が、仕入れの話をするな!」
「でも、荷馬車の隅、あと樽2つ分は空きが」
「積み荷の空きまで、値踏みするな!」
頭に、げんこつを、落とされた。
◆
「ノアって、力仕事、だめだね」
休憩中、アイリスが、干し肉をかじりながら、言った。
「さっきも、袋一つで、よろよろしてた」
「……悪かったな」
悔しいが、事実だった。9歳から、がらくた屋で働いたが、やってたのは、値踏みと帳簿だ。力仕事は、からきしだった。
周りの人足たちは、俺の倍の荷を、軽々と担ぐ。
「その点、アイリスは、すごいよな」
俺は、素直に、言った。
アイリスは、荷運びが、妙に上手かった。細身のくせに、重心の取り方がいいのか、大の男と同じ量を、涼しい顔で、運ぶ。
「うん。ノアより、役に立ってる」
「……もうちょっと、包んで言えないのか」
「包むと、伝わらないから」
無表情のまま、堂々と、言い切られた。
この娘、記憶を失くす前は、絶対、貴族の令嬢なんかじゃなかったと思う。
◆
その日の午後、頭が、俺を呼んだ。
「おいノア。お前、力はないが、目と口だけは、達者らしいな」
「褒めてます?」
「半分な。……夕方の市で、隊商の食料の買い出しをしてこい。予算は、これだ」
渡されたのは、300クル。
「人数分の、パンと干し肉と豆。あと、油を一瓶。ぎりぎりの予算だ。足が出たら、お前の飯を抜く」
「任せてください」
俺は、生まれて初めて、人足の仕事に、やる気を出した。
◆
夕市は、俺の戦場だった。
〈パン:市場4クル・真価3クル〉──ふっかけてる。値切る。
〈干し肉:市場30クル・真価28クル〉──良心的。まとめ買いで、さらに値切る。
〈豆:市場15クル・真価8クル〉──論外。隣の店へ。
「おやじさん、この豆、袋の底の方、去年のが混ざってるでしょう」
「な、なんで分かる」
「顔に書いてあります。全部今年のに、袋を詰め替えてくれるなら、2袋買います」
半刻後。
俺は、頼まれた食料一式と、おまけの干し杏まで抱えて、戻った。
「予算300のところ、支払い221クル。お釣り79クルです」
頭が、目を、丸くした。
「……お前、市場で、何をした」
「値切っただけです。あと、豆屋と、干し肉屋と、パン屋で、それぞれ相場の裏を、少々」
「お前は、人足には向いてないが」
頭は、釣り銭を、しまいながら、言った。
「商人には、化け物みたいに、向いてるな」
周りの人足たちが、どっと、笑った。
悪い気は、しなかった。
◆
その夜、野営の準備で、荷馬車の積み荷を、降ろしていた時だった。
俺の眼が、ふと、ある樽の上で、止まった。
〈灯り油:市場400クル・真価400クル〉
〈灯り油:市場400クル・真価400クル〉
〈灯り油:市場400クル・真価9,000クル〉
「……ん?」
二度見した。
同じ形、同じ焼き印の、油樽が3つ。そのうち一つだけ、真価が、桁違いだった。
400クルの油樽に、真価9,000クル。
油の値段じゃ、ありえない。
つまり、この樽の中身は──油じゃない。
俺は、そっと、周りを、見回した。
人足たちは、夕食の支度で、忙しい。誰も、こちらを、見ていない。
バルト商会の、正規の隊商の中に。
正体不明の、何かが、紛れ込んでいる。




