眼の外側
その夜、俺は、店の帳簿を、何度も、見返していた。
3,950クルの、損失。痛手ではあったが、店の資金が、傾くほどではない。
問題は、金額じゃなかった。
「眼が、欺かれた」
その事実だけが、頭の中を、ぐるぐると、回っていた。
これまで、俺の眼は、絶対だった。市場価格に、惑わされない。人の嘘にも、惑わされない。それだけが、俺の、唯一の武器だった。
その武器が、欠けるかもしれない。
その恐怖が、思ったより、深く、刺さっていた。
◆
「まだ、帳簿、睨んでるの」
閉店後、掃除を終えたアイリスが、カウンター越しに、声をかけてきた。
「もう、遅いよ」
「……眠れそうにない」
俺は、正直に、言った。
アイリスは、少し、迷ってから、俺の向かいの椅子に、腰を下ろした。
「ノアの眼が、外れたの、今回が、初めて?」
「ああ」
「そっか」
アイリスは、しばらく、黙っていた。
それから、静かに、言った。
「わたしね。ずっと、自分が、ノアの眼にも、映らないことが、怖かった」
「……」
「でも、今日、分かった。ノアの眼も、完璧じゃない。……なんだか、少し、安心した」
「安心、するところか、そこ」
俺は、思わず、苦笑した。
「だって」と、アイリスが、続けた。「完璧な眼を持った人が、隣にいたら。わたしは、いつまでも、“見えない何か”のままだった。……でも、眼にも、外側があるなら」
アイリスは、俺を、まっすぐ、見た。
「いつか、その外側から、わたしのことも、分かる日が、来るかもしれない」
妙な、慰め方だった。
でも、不思議と、胸の奥が、軽くなった。
「あんた、たまに、鋭いこと言うよな」
「たまに、じゃない。いつもだよ」
アイリスが、初めて、少し、得意げな顔を、した。
◆
翌日、俺は、気を取り直して、あの箱を、改めて、調べることにした。
ゴダじいさんに、蓋の裏の、見慣れない紋様を、見せる。
じいさんは、老眼鏡越しに、じっと、それを、見つめた。
やがて、表情が、こわばった。
「……この紋様、見覚えがある」
「本当か」
「ああ。……あのペンダントの、刻印と。彫り方の、癖が、似てる」
心臓が、跳ねた。
「アイリスのペンダントと、この箱、同じ職人が、作ったってことか」
「職人とまでは、言い切れん。だが……同じ、“技法”が、使われてる。人の目や、鑑定を、欺くための、特殊な、彫り込み方だ」
じいさんは、続けた。
「昔、噂で聞いたことがある。王都の、裏の工房で、そういう細工を、専門に、請け負ってる連中がいるって。……貴族の、隠し財産や、賄賂の証拠隠しに、使われてたらしい」
「貴族の、隠し財産」
俺は、繰り返した。
シャルダン伯爵家。13年前の、謀反の疑い。
もし、その裏に、こういう細工が、絡んでいたなら。
「……繋がってる気がする」
俺は、呟いた。
「アイリスの、正体と。この箱を、俺に売った女と。シャルダン家の、13年前と」
「気が早いぞ」
じいさんが、釘を刺した。
「今の段階じゃ、まだ、点と点だ。線には、なってない」
「分かってる」
俺は、頷いた。
それでも、点が、増えていくたびに、確信は、強くなっていた。
誰かが、この街の、あるいは、もっと大きな場所で。
真価を、意図的に、操っている。
その誰かを、見つけ出すまで。
俺の眼は、まだ、道半ばだった。




