取引の申し出
紋章の話から、数日が経った。
アイリスは、表向き、いつも通りに、振る舞っていた。だが、時折、ぼんやりと、考え込んでいる姿を、見かけるようになった。
俺は、あえて、その話には、触れなかった。
彼女が、話したくなるまで、待つ。それが、今の、俺にできることだった。
◆
真価堂に、再び、オルグが、姿を見せたのは、そんな折だった。
「繁盛してるようだな」
オルグは、店の中を、見回しながら、言った。
「今日は、何の用ですか」
俺は、警戒を、隠さずに、聞いた。
オルグは、懐から、一枚の書類を、取り出した。
「取引の、申し出だ」
「取引?」
「バルト商会は、この街だけでなく、近隣の3つの町にも、流通網を持っている。お前の鑑定眼を、正式に、うちの取引に、使わせてほしい」
俺は、書類に、目を通した。
鑑定士として、バルト商会の大口取引に、定期的に、立ち会う。破格の報酬が、記されていた。
「悪くない、話に見えますが」
「見えるが、乗らないだろう」
オルグが、先回りするように、言った。
「お前は、独立心の強い人間だ。うちに、囲われるのを、嫌がる」
「よく、分かってますね」
「見りゃ分かる」
オルグは、小さく、笑った。
「だから、こうも言っておく。断ってもいい。ただし、その場合、うちは、お前を、商売敵として、扱うことになる」
「脅しですか」
「事実の、確認だ」
オルグの声に、感情は、こもっていなかった。
「お前の眼は、これから先、この街の商売を、大きく変えていく。うちと組むか、うちに、対抗するか。その、どちらかしかない」
俺は、しばらく、考えた。
目先の報酬は、確かに、魅力的だった。だが、バルト商会に、深く組み込まれれば、この眼を、自由に使えなくなる。彼らの都合で、鑑定結果を、曲げさせられる日が、来るかもしれない。
「断ります」
俺は、はっきりと、言った。
「俺の眼は、俺のものです。誰かの、都合のいい道具には、しません」
オルグは、じっと、俺を、見つめた。
それから、ふっと、息を、吐いた。
「……そう、言うと思ったよ」
意外にも、その声に、怒りは、なかった。
「分かった。今日のところは、これで、退く」
オルグは、書類を、懐に、しまった。
帰り際、彼は、ふと、足を止めた。
「一つ、忠告しておく」
「なんですか」
「シャルダン伯爵家のことを、調べているそうだな」
心臓が、跳ねた。
なぜ、それを、知っている。
「街の噂は、案外、早く、耳に入るものでな」
オルグは、静かに、続けた。
「あの家が、なぜ、取り潰されたか。表向きの理由と、本当の理由は、違う。もし、深追いするなら、覚悟しておけ。この街には、あの一件を、蒸し返されたくない人間が、まだ、いる」
「……それは、誰のことですか」
「今は、言えん」
オルグは、それだけ言うと、踵を返した。
「気が向いたら、また来る。取引の話も、忘れずにな」
彼の姿が、通りの向こうに、消えていく。
俺は、しばらく、その場に、立ち尽くしていた。
◆
店の奥で、アイリスが、青ざめた顔で、立っていた。
オルグの話を、聞いていたのだろう。
「……本当の理由って」
アイリスの声が、震えていた。
「わたしの家族に、何が、あったの」
俺は、彼女の隣に、立った。
答えは、まだ、俺にも、見えない。
でも、一つだけ、確かなことがあった。
この街の、表に出ない何かが、アイリスの過去に、繋がっている。
そして、それを、隠したがっている人間が、確かに、いる。
「調べよう」
俺は、静かに、言った。
「一緒に」
アイリスが、俺を、見た。
その目に、恐れと、それでも、微かな、希望が、揺れていた。
真価堂の窓の外、夕暮れの街は、何も知らないまま、いつも通りの、喧騒に、包まれていた。




