同じ空白
オルグが訪ねてきてから、アイリスの様子が、少し変わった。
もともと、表情の少ない子だった。それでも、あの日を境に、笑うことが、さらに減った。
「大丈夫か」
俺が聞くと、アイリスは、いつも同じ答えを返した。
「平気」
それ以上は、聞かせない。声の硬さが、そう物語っていた。
◆
3日ほど経った、ある朝。
いつも大市場のどこかにいるはずのアイリスが、どこにも見当たらなかった。
昼を過ぎても、夕方になっても、姿がない。
「アイリスを見なかったか」
俺は、顔見知りの店主たちに、片端から聞いて回った。
「そういえば、今朝、市場の外れの方に、歩いていくのを見たな」
露店の一人が、そう教えてくれた。
市場の外れ。人通りの少ない、街の端の方だ。
俺は、その足で、向かった。
◆
街外れには、古い墓地と、崩れかけた礼拝堂があった。
訪れる人も少なく、静まり返っている。
その片隅に、アイリスが、一人で、座り込んでいた。
手に、小さな、古びたペンダントを、握りしめている。
俺は、声をかけようとして、止めた。
彼女の背中が、ひどく、小さく見えた。
しばらく、離れたところで、様子を見ていた。
やがて、アイリスが、こちらに気づいた。
「……ノア」
「悪い。心配で、探した」
アイリスは、少し驚いた顔をして、それから、諦めたように、小さく息を吐いた。
「見られた、か」
「何も、聞かない。嫌なら」
「……ううん」
アイリスは、首を振った。
「もう、いい」
彼女は、手のひらの、ペンダントを、俺に見せた。
古い、銀細工のペンダントだった。中央に、小さな石が、はめ込まれている。
「これ、だけ、持ってた。……昔のこと、全然、覚えてないの。気づいたら、この街の外れに、倒れてて」
「記憶が、ないのか」
「うん」
アイリスは、頷いた。
「名前だけは、なぜか、覚えてた。アイリスって。……それだけ」
俺は、驚きを、顔に出さないよう、努めた。
だから、彼女は、自分の正体を、聞かれても「知らない」としか、答えられなかったのか。
嘘を、ついていたわけじゃない。
本当に、知らなかったのだ。
俺は、そっと、眼を、ペンダントに向けた。
〈真価:ERROR〉。
息を、呑んだ。
彼女自身だけじゃない。彼女が持つ、この、たった一つの手がかりにさえ、俺の眼は、届かない。
「……このペンダントも、読めない」
俺は、正直に、言った。
「あんたと、同じだ」
アイリスが、目を、見開いた。
「わたしと……同じ?」
「ああ」
俺は、頷いた。
偶然とは、思えなかった。
彼女自身と、彼女が握りしめてきた、たった一つの遺品。その両方が、俺の眼から、隠されている。
誰かが、意図的に、彼女の何もかもを、覆い隠している。
そう、考える方が、自然だった。
「オルグが、あんたに、見覚えがあるって、言った」
俺は、ゆっくりと、続けた。
「あんたの記憶がない理由と、それが、繋がってる気がする」
アイリスは、ペンダントを、両手で、包み込んだ。
「怖い」
ぽつりと、彼女が、こぼした。
「思い出すのが、怖い。……知ったら、今のままじゃ、いられない気がして」
初めて聞く、彼女の、本音だった。
俺は、少し迷って、それから、彼女の隣に、座った。
「無理に、思い出さなくていい」
俺は、言った。
「ただ、あんたが、思い出したいと思った時。俺が、力になる」
この眼で、あんたの真価が読める日が来るまで。
それまでは、隣にいる。
アイリスは、しばらく、黙っていた。
それから、小さく、頷いた。
「……ありがとう」
初めて見る、柔らかい表情だった。
街外れの、古い礼拝堂に、静かな風が、吹き抜けていった。




