90. 不整合な家族パラメータ
「――ヴィンセント様、エリス様、ご到着です」
重厚なオークの扉が、執事の手によって音もなく左右に開かれた。
一歩足を踏み入れた瞬間、重たい緊張がのしかかる。
【環境分析:大広間】
【室温:18.5度。湿度:45%】
【音響:20デシベル以下。極めて高い静粛性を維持】
【結論:この空間全体が、侵入者に対する『圧力』として機能しています】
天井まで届く大きな窓の向こうには、月明かりを浴びて青白く光る雪原が広がっており、豪華なシャンデリアの輝きを冷たく跳ね返していた。
「失礼いたします」
大広間の奥には、すでに四名の男女が席についていた。
白いテーブルクロスと金縁の食器が並び、壁際に彫像のように控えている使用人たちの視線が一斉にこちらへ向き、礼をとった。
ヴィンスは私をエスコートしたまま、淀みのない足取りで進む。
ハーガン公爵を中央に据える位置でぴたりと足を止め、一礼した。
私もその動きに遅れぬよう、シスター・ベロニカに教えられた通り、静かに膝を折りカーテシーをした。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
ヴィンスの挨拶に、上座の男――ハーガン公爵は、目を合わせることもなく、書類を見るような目で短く返した。
「ああ」
【対象スキャン:ハーガン・ヴァレリウス】
【現在ステータス:『威圧』】
「貴女が、噂の聖女様ね」
次に投げかけられたのは、黒い扇子を広げて口元を隠したまま、値踏みするような女性の視線だった。
「はじめまして、エリスと申します。この度は、お招きいただき光栄です」
私が再び礼を尽くすと、彼女はふうんと興味なさげに瞳を細めた。
「わたくしはベアトリス・ヴァレリウス。ハーガンの妻です。……孤児院育ちの娘がどのようなものかと思えば、見かけだけは整えたようね」
「母上、言葉は選んでいただきたい」
ヴィンスの冷ややかな声が室温をさらに数度下げたように感じられた。
ベアトリス公爵夫人は、ふいと顔をそらして、更に隠すように口元に深く扇子を構えた。
【新規リソースをスキャン】
【視認:人間、女性。年齢推定:40代】
【容姿特徴:艶やかな黒髪、理知的な青い瞳、扇で口元を隠す所作、赤いドレス】
【感情:『検出不能』】
ベアトリス公爵夫人は、なおも冷たく、感情の読めない瞳を私に向けている。
続いて、公爵夫人の向かい側に座っていた若い男性が立ち上がった。
「やあ、ヴィンセント。……久しぶりだね」
「兄上、お久しぶりです」
ヴィンスが兄上と呼んだ彼は、柔らかい笑みを浮かべようとしているが、その表情には隠しきれないぎこちなさが混じっていた。
「エリス様も、会えるのを楽しみにしていました。公爵家嫡男の、アレクシオス・ヴァレリウスです。とても……聡明な聖女様であると、父上から聞いています」
【新規リソースをスキャン】
【視認:人間、男性。年齢推定:20代後半】
【容姿特徴:青みがかった黒髪、柔和なブルーグレーの瞳、線の細い優男】
【感情:『罪悪感』『陰り』『弱気』――ヴィンスに対し、なんらかの引け目を感じていると推察】
私に向き直った彼が、ヴァレリウス公爵家長男であり、跡取りのようだ。
その隣で、一緒に立ち上がった女性も、綺麗な礼とともに自己紹介をした。
「は、はじめまして……。アレクシオスの妻の、リリアンです」
【新規リソースをスキャン】
【視認:人間、女性。年齢推定:20代半ば】
【容姿特徴:明るい茶色の髪、温かみのある桃色の瞳、家着に近い緩やかなドレス】
【感情:『緊張』『恐怖』】
軽い礼をし、顔をあげた彼女は、ヴィンスの方を見ると、ビクリと肩を震わせ、無意識に夫の背中に隠れるような仕草を見せた。
ヴィンスに怯えているのだろうか。
「……」
ヴィンスは何も言わず、ただ静かに視線を落とした。
その沈黙は、彼女の反応に慣れきっているように見えた。
再び、気まずい沈黙が流れる。
「紹介が終わったのなら、早く席につけ」
領主の低い声が、その場の空気を断ち切った。
使用人が無言で進み出ると、ベアトリス公爵夫人の隣にある椅子を、ヴィンスと私のために静かに引く。
ほどなくして、控えていた給仕たちが静かに動きはじめる。
銀の蓋が次々と開かれ、この場にふさわしくない温かな香りがふわりと漂った。
「エリス殿は、アウロリアでは聖女として、実利的な奇跡を振りまいていたそうだ。揚水ポンプ、万年筆、石鹸……」
食事が運ばれる最中、ハーガン公爵が不意に私へと話題を投げる。
いや、私にというよりも、この場にいる公爵家の面々、そして使用人にも認識を共有させようとしているような口ぶりだ。
しかしその目は、やはり優秀な資産を査定するかのような、管理者のそれだった。
「メルカンテ連合がその知識を欲して動いたがゆえ、正式に教会が聖女の認定を下すまでは、公爵家の保護下で、ヴィンセントの婚約者として扱う」
「はい、よろしくお願いいたします」
カチャ、と食器の触れる微かな音だけが、重たい沈黙の中に落ちていく。
誰も口を開かないまま、給仕たちは淡々と最初の皿――前菜のスープをテーブルへ置いていく。
「……いただこう」
公爵の低い声が合図となり、家族がゆっくりとナイフとフォークを取る。
ヴィンスが静かにカトラリーを取り、私にだけ見える角度で、ちらりと横目で私に頷いてみせる。
大丈夫だ――。
そう告げるような、わずかな仕草に促され、緊張に震える指先をようやく銀の匙へと手を伸ばした。




