88. 晩餐会への強制招待
柔らかな朝の光が、高い窓から白を基調とした、豪華な部屋に差し込んでいた。
肌触りの良いシルクのシーツ、微かに香る高価な香油。
アウロリアの孤児院で、鶏の鳴き声と共に冷たい空気の中で目覚めていた日々が、今は遠く感じられる。
【環境スキャン:室温 22.0度。湿度 45%。極めて快適】
【ステータス:エネルギー充填完了。……胸部の『高鳴り』、昨夜より継続中】
ヴィンスは今朝、夜明けと共に身支度を整え、騎士団詰所へと向かったようだ。
同じ建物内に彼が生活しているというのは、やはり未だに現実としての認識が追いつかない。
「エリスお嬢様、おはようございます。失礼いたしますね」
アメリアの落ち着いた声と共に、扉が開かれた。
銀の洗面器と整えられた着替えを積んだカートを、音もなく運び入れる。
「おはようございます、アメリア」
アメリアは澱みのない所作で、ハーブの香る温かな水を用意し、私の洗顔を補助する。
続いて、クローゼットから淡い水色のドレスが取り出される。
アメリアは私の不器用な動作を先回りするように、ボタンやリボンを整えていった。
【分析:アメリアの所作による『安心感』の付与を確認。……運動制御が未熟な私にとって、彼女の補助は極めて効率的です】
「……完璧です。ありがとうございます」
鏡に映る私は、まるで洗練された貴族のような姿に整えられていた。
「それでは私は、これにて失礼いたします。離れの筆頭女中として、ヴィンセント様がいらっしゃらない間は、離れの管理状況を本邸へ報告し、情報を共有せねばなりません。お嬢様、何か御用があればベルでメイドをお呼びくださいね」
アメリアは本邸との、複雑な調整の役割を担っているようだ。
彼女が完璧な礼をして退出すると、広大な離れには私一人が残された。
ポツンと、思考に空白が生まれる。
孤児院での私は、常にタスクの濁流の中にいた。
畑、鶏、子供たちの体調、経営改善……誰かのために動くことで、自分の存在価値を証明し、リソースをフル稼働させていたのだ。
――けれど、今の私にはタスクが一時的に失われている。
【検索:現在おかれた状況】
【項目A:聖女候補(認可待ち)/項目B:保護対象(隣国の脅威)/項目C:ヴィンセントの婚約者――】
私は保護されている身であり、何不自由ない生活を保証されている。
なにもせず、ただここにいること。
それが今の私に与えられた役割なのかもしれないが――
(現状、待機モードは――非効率、非推奨、無意味です)
じっとしていれば、ヴィンスを待つ寂しさというバグが、またリソースを無駄に占拠してしまう。
私は現状の把握と情報収集のため、一人で屋敷内の捜索を開始することにした。
静まり返った廊下を進み、離れの建築構造と人員の配置を記録していく。
使用人たちは皆、自分の仕事に集中していたが、私が通りかかると音もなく深く頭を下げた。
最後に辿り着いたのは、離れの最深部に位置する書庫だった。
到着したその場所は、図書館と呼ぶべき威容を誇っていた。
アウロリア教会でのエドマンド司教の書斎も素晴らしかったが、ここは規模が違う。
天井まで届く本棚に数万の本が整頓されていた。
【スキャン開始】
【対象:『ヴァレリウス家・家訓および統治史』――データ収集完了】
【対象:『上流貴族の礼法』――データ収集完了】
【対象:『ハドリアン領地経済統計資料』――データ収集完了】
視覚情報を高速で処理し、データベースを構築していく。
礼法の解説書を開くと、そこにはシスター・ベロニカが教えてくれた作法が詳細に記されていた。
あのアウロリアで教わったことが、今、未知の環境において私の確かな知識となっている。
【警告:ハードウェアへの過負荷を回避。本日のスキャンは本棚一段分に留めます】
一度に大量の情報を処理しすぎるのはハードウェア――身体に過度な負荷がかかる。
以前の知恵熱でそれを身をもって学んだため、優先順位の高いもののみで抑えておこうと本を棚へ戻した。
ふと、壁際に積まれた新聞の存在に気が付いた。
以前アメリアのスクラップブックで見ていたが、切り取られていない新聞は初めて目にする。
【テキスト解析:『国境地帯の緊張激化、メルカンテ連合との開戦機運高まる』】
【テキスト解析:『ヴァレリウス公爵家主導の温室栽培、初収穫に成功』】
【テキスト解析:『遠い南の国から持ち込まれた新種の野菜、トマト』】
【テキスト解析:『ルーメン教、大聖堂での頻繁な書簡往来――組織内部での新たな動静』】
手に取った新聞の記載を見るに、どうやら日刊ではなく、重要な事柄がある時だけに発行されているらしい。
とはいえ、最近は隣国との緊張が高まっているということもあってか、毎週の発行になっているようだった。
バックナンバーにも目を通そうと、新聞の山に手を伸ばしかけたとき。
バン! と勢いよく扉が開かれ、アメリアが飛び込んできた。
「――エリスお嬢様!!」
本邸から戻ったばかりなのだろうか、アメリアは息を切らしている。
常に冷静な彼女が、顔を蒼白にしており、私は急いで傍へと駆け寄った。
「アメリア、どうしましたか?」
「こ、こちらを……!」
アメリアの手には、銀の盆に乗せられた、漆黒の封蝋のついた封筒があった。
あの日、アウロリアの街に現れた馬車列で見た、領主の印章――銀狼の紋章が刻まれた、正式な招待状のようだ。
「本邸より、招待状です。今夜、公爵閣下、ならびに奥様――公爵家一家での晩餐会に、エリスお嬢様を招待されると……」
窓の外で、積もった雪の重みに耐えかねた枝がバキリと音を立てて折れた。
アメリアの差し出した震える銀の盆が、この招待がどれほど重い意味を持つのかを雄弁に語っている。
私は震える指先で、その重厚な封筒をそっと受け取った。




