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86. 上書きされた過去ログ

 

 窓の外では、月明かりを孕んだ雪が音もなく降り積もり、夜の静寂を深めている。

 広すぎる浴室での、数人のメイドに囲まれた洗浄――入浴を終え、私は宛がわれた客室のソファの端に、ちょこんと座っていた。


 纏っているのは、アメリアが用意してくれた、純白のルームドレスだ。

 上質なシルク生地に、繊細なレースがふんだんにあしらわれている。

 豪奢な天蓋付きベッドや、この部屋の雰囲気に完璧に調和する美しい服だが、中身の私だけが、どこか借り物のように落ち着かない。


(……汚してしまわないでしょうか)


 そんな懸念を抱きつつ、静まり返った部屋でルームドレスの袖口を見つめていると、不意に、重厚な扉がノックされた。


「……エリス?」


 返事をする間もなく入ってきたのは、まだ騎士団の制服を着たままの、凛々しいヴィンセント騎士団長――ヴィンスだった。

 私の姿を認めると、彼の張り詰めていた表情が、ふわりと緩む。

 その顔を見て、私はソファから立ち上がると、孤児院で子供たちにそうしていたように、反射的に言葉を紡いだ。


「――おかえりなさい、ヴィンス」


 部屋に、一拍の沈黙が落ちた。


(……あっ)


 ハッとして、私は口元を押さえる。

 保護されている身で、公爵家の令息に対してかける言葉として、これはあまりに無作法で、馴れ馴れしかったのではないか。


【検索:帰宅時の挨拶、貴族、礼儀】

【候補:『お疲れ様です』『お邪魔しております』『ご機嫌よう』……】


 私が脳内で正解データを検索していると、ヴィンスがゆっくりとソファまで歩み寄ってきた。

 そして、私の目の前で足を止め、どこか噛み締めるように、けれど嬉しそうに呟いた。


「……ああ、戻った」


 見上げると、彼の口元は隠しきれないほど緩んでいた。

 どうやら無作法での沈黙ではなかったようだ。

 ヴィンスは、ほっとしたように息を吐くと、私の姿を見るように少し下がった。


「サイズは、合っただろうか。急いで用意させたものだが」


「はい。ぴったりです。……ですが私には、少し勿体ないくらいで――」


「そんなことはない、よく似合っている。……やはり君は、白が似合うな」


 満足げに頷く彼を見て、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。

 すべて彼が用意をしてくれたのだと思うと、高価なレースの重みが、心地よい温もりに変わっていくようだった。


「そういえば、アメリアから氷の騎士のお話を聞きました」


「……変な話じゃないだろうな」


「あなたの活躍や栄光のお話ですから、変な話ではありません」


 先ほどアメリアのスクラップブックの中で、挿絵のヴィンスを見たからか、いつもの騎士姿のヴィンスを新鮮に感じてしまう。

 なおも疑うような視線を向けてくる彼に、言葉を続けた。


「あと、女性から人気があるのだと」


「やはり変な話じゃないか」


「女性に人気があることは、変な話ではないのでは……」


 苦々しげに眉を寄せたヴィンスのその顔からは、女性人気が嬉しいなどといった感情は一切ないように見える。

 氷の騎士という呼称が女性から主に言わるようになって、呼ばれるのが嫌になったというのは、本当のようだ。


「釣書も山のように送られてくるのだと、ジャック副団長が以前言っていましたね」


「母上が勝手に、詰所にもこの離れにも大量に送り付けてくるだけだ。……それにもう、送られてくることはない」


「そうなのですか?」


「当たり前だろう。俺にはもう婚約者がいる」


 婚約者…――つまりは私だと、繋がるまで、少しだけ時間を要した。

 そして時間を要した後、なんと言えばよいか分からず、私は少し赤くなってしまった顔を俯けた。


「なんだ、忘れていたか?」


「い、いえ、そんなことは……ただ実感がまだ伴っていないだけで……」


 少し意地悪に私の顔を覗き込んでくるヴィンスから、目をそらしてしまう。

 すると彼はふっと表情を緩めて背を正し、少し考えるように顎に手を当てた。


「実感か……それは俺も同じかもしれない。君が本当に俺の隣にいてくれるのかと、ふと不安になる」


「ヴィンスが、不安に……? これから共に生活を重ねていけば、その不安は解消されるものなのでしょうか……?」


 私の問いに、ヴィンスは再び口角を上げ、また少し意地悪な笑みを浮かべた。


「生活を重ねる、か。……少し悠長すぎるな。もっと確かなことがいい」


 そう言って、彼は音もなく一歩、私との距離を詰めてきた。

 逃げ場を奪うような騎士特有の威圧感と、それを上書きするような甘い雰囲気が混ざり合う。


「……より婚約者らしいことを、してもいいか?」


「それは、もちろんです。私たちは、婚約者ですから」


 真意が分からないながらも私がそう答えるのと、ヴィンスの瞳に熱が灯るのは同時だった。

 頷く私を見て、吸い寄せられるような流れる動きで、彼は私の頬へ愛おしそうに手を伸ばす。

 細められた瞳に、私が映っているのが見えるほど顔が近づき、その熱を帯びた手に誘われ――…



「坊ちゃん!!!」



 背後から飛んできた鋭い声が、ヴィンスの手を止めた。

 ――アメリアだ。

 彼女は開いたままの扉から早足で現れると、腰に手を当ててぷりぷりと怒った。


「着替えもなさらずに、泥だらけのままエリスお嬢様のお部屋に入らないでください! いくら婚約者でも、節度というものが……」


「……ああ、すまん」


 ヴィンスはアメリアの方を振り返ったまま、私の頬に触れていた手を、名残惜しそうに下ろした。

 そして、気を取り直すように私に向き直る。


「エリス。夕食はまだか?」


「? はい」


「ならば、……一緒にどうだ」


(……一緒に、食事)


 私のメモリから、あの時のログが呼び出される。

 アウロリアの街で、初めて彼に食事に誘われた時のこと――あの時は、食べるのが下手だからと思い断ってしまい、すれ違ってしまった。

 けれど今は、違う。


「……ええ。よろこんで」


 私が微笑むと、ヴィンスもまた、嬉しそうに目を細めた。

 ヴィンスはアメリアに押し出されるようにして、名残惜しそうに一度こちらを振り返り、すぐに戻ると言って、私の部屋を出ていった。


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