84. 環境スキャン:領都ハドリアン
揺れる馬車に身を任せ、私はエドマンド司教から譲り受けた小説のページをめくる。
凍りついた雪を噛む音と、馬の足音。
長旅は順調に進み、あの朝の別れから、およそ四日が経過した。
馬車が通りに差し掛かると、石畳が敷かれた道は滑らかになり、車輪の振動が明らかに変わった。
賑わいの音が聞こえる窓の外を一瞥した私は、思わず息を呑んだ。
――人、人、人。
往来する馬車の数も、行き交う人々の数も、アウロリアとは比べ物にならない。
巨大な石造りの建物が空を衝くようにそびえ、そこかしこに活気があふれている。
【環境スキャン:都市機能レベルの急上昇を検出】
【認識:領主街――ハドリアン領の首都と断定】
初めて目にする大都市の光景に、私のデータ収集機能はフル稼働を強いられた。
【新規データ:『高層石造建築群』を記録】
【新規データ:『複雑な交通流』を記録】
【警告:視覚情報処理能力が限界に近づいています】
馬に跨り並走していたジャック副団長が、こちらへ顔を向けた。
「領主街――ハドリアンは、すごい賑わいでしょう?」
「はい。アウロリアの規模とは、完全に異なっています」
「あ! あっちのパン屋、見えますか? 『グリムウッドは謎を解かない』の舞台になったって言われてるンですよォ!」
ジャック副団長は、興奮して通りの角の行列を指差す。
『グリムウッド』小説シリーズは、エドマンド司教が私に譲ってくれた本の中にあり、ジャックのお気に入りの流行小説だったらしい。
この四日間、私たちは休憩時間や移動の合間に、その感想を言い合う仲になっていた。
「主人公が結局謎解きをした、あのパン屋ですか? 気になります……!」
「今度、ヴィンスも誘っていきましょうねェ!」
他愛のない小説の感想で、会話が弾む。
知識という実利だけではない、小説によって生じるこの感情の繋がりは、私にとって新しい学習だった。
【分析:共有された『感性データ』が、人との『関係』を増幅させることを確認】
エドマンド司教が教えたかったことの一端は、こういったことなのだろうか。
その会話の途中で、ジャック副団長がふと前方を指さした。
「あァ、着きましたよ! あれがヴァレリウス公爵邸です」
私が窓を覗き込むと、目の前にはとてつもない威容が広がっていた。
大きな石の城壁。
その奥に聳え立つ、中世の城のような巨大な建築物。
【視覚情報:ヴァレリウス公爵邸。敷地面積、アウロリアの街区に近似】
【推定:この領の武力と財力の象徴】
しかし私の乗った馬車は、領主の城の大きな門に入っていく他の車列から外れ、なおも敷地外をまっすぐ進み続ける。
私がきょとんとしていると、ジャック副団長が説明した。
「エリス様は直接、離れに案内するように言われてるンで。もう少し我慢してくださいね」
大きな塀が延々と続き、しばらく走った後、ようやく目的地が見えてきた。
メインの城からはかなり端に位置するが、それはアウロリアの代官屋敷よりも立派な、一つの貴族の邸宅だった。
【環境スキャン:建物規模、アウロリア代官屋敷の500%。建築様式、ルネサンス期貴族邸宅と類似】
【材質分析:高純度大理石および希少木材の使用を確認。推定建設費用、領内公共事業の5年分】
【結論:当該物件の規模は『離れ』の定義を98%逸脱。単独の『領主館』クラスと再定義します】
(……これを、離れとは呼ばないのでは)
手入れの行き届いた広い庭園の中央、大きな噴水を周る形で、邸宅の前に馬車が止まる。
扉が開くと、邸宅入り口前には使用人たちがずらりと並んでおり、丁重な出迎えに困惑してしまう。
使用人によって馬車の扉が開かれたとき、後方から馬が石畳を蹴る音が聞こえた。
「エリス」
開いた扉から少し身を乗り出して声の方を見ると、馬から降りたばかりのヴィンスが、こちらへ駆け寄ってきている。
彼は、馬車から降りる私のエスコートをするため、手を差し伸べた。
「やっと着いたか。長旅で疲れただろう」
「ヴィンス……!」
私はそっと、差し出された彼の手に、自らの手を重ねた。
ひんやりとした冬の空気を含んだ彼の指先から、私を慈しむような確かな体温を感じると、四日間の旅の疲れが全て吹き飛ぶように感じた。
「到着したと聞いて、仕事を抜けてきた。すぐに戻らねばならないが、使用人には全て話してあるから問題ない。安心してくれ」
ヴィンスは私の手を取ったまま、馬車の方を振り返った。
「ジャック。悪いが、騎士たちを連れて、お前もすぐに騎士団詰所へ戻るように。報告を急げ」
「へいへい。了解ですよ、団長」
ジャック副団長も他の護衛の騎士たちも、長旅の疲れも見せず、すでに馬に跨り騎士団詰所へ向かう準備をしていた。
「エリス様。じゃァ、俺はこれで」
「ジャック副団長。お世話になりました」
「今度、『グリムウッド』シリーズの続編が出たら、絶対にお知らせしますンで!」
「ええ、是非お願いします」
私とジャック副団長の様子を見たヴィンスが、また眉をひそめた。
「……お前たち、また随分と仲良くなっていないか?」
「はは。もはや友人ですよ、仲良しの。団長には分からねェでしょうがねェ」
へらりと悪びれずに笑うジャック副団長を、ヴィンスが冷たい視線で睨みつける。
その視線も意に介さず、じゃァと軽快に言うと、ジャック副団長は兵士たちを連れて、先に馬を走らせていった。
去っていく背中を見て呆れたようなため息を吐いた後、ヴィンスは私に向き直った。
「では、俺も戻らなければ。……また夜に」
ヴィンスはそう言うと、私の額に愛おしむようにキスを落として去っていった。
「ひゃわ……」
唇が触れた場所から熱が広がり、私は思わす小さな声を上げてうろたえてしまう。
ふわふわとしたままヴィンスの背中を見送る私の耳に、後ろから柔らかな声が響いた。
「あらあらまあまあ……ふふ。坊ちゃんのあんな顔が見られるなんて」
その声に振り返ると、50代くらいのふっくらとした女性が立っていた。
彼女の後ろでは、若いメイドたちが荷物を運ぶ途中できゃあと黄色い声をあげつつ、目を丸くして驚いている。
「初めまして、エリスお嬢様。ヴィンセント坊ちゃん元乳母で、この離れを取り仕切っております、筆頭女中のアメリアと申します」
【新規リソースをスキャン】
【視認:人間、女性】
【年齢推定:50代半ば】
【容姿特徴:ふくよか。白髪混じりのブロンド。優しい水色の瞳】
【感情:『驚愕』60%、『安堵』40%】
アメリアは、綺麗な礼をした後、その優しい笑顔を私に向けた。
「坊ちゃんから話は聞いています。長旅、大変お疲れ様でした。さあ、お屋敷を案内いたしましょうね」
彼女の温厚な言葉に促され、邸宅の重厚な扉が開かれる。
柔らかな空気とともに、甘い焼き菓子の香りが漂ってきた。
暖かく迎え入れられるまま、私は豪華すぎる離れの屋敷へと足を踏み入れた。




