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81. 婚約者とは

 

 重厚な門をくぐり、代官屋敷の敷地を一歩出る。

 途端に、隣を歩いていたエドマンド司教が、肺の底から空気を吐き出すような、深いため息をついた。


「……ふぅ。あの男といると、息が詰まる」


 厳格で知られる彼が、珍しく弱音を吐いている。

 それほどまでに領主、ハーガン・ヴァレリウス公爵の威圧感は異常だったということだろう。

 エドマンド司教は眼鏡の位置を直し、私に向き直った。


「エリス殿……すまない。私が大聖堂へ戻っている間に、事態が思った以上に複雑化してしまった。公爵が出てくるとはな」


「複雑化、ですか?」


「ああ、教会がすぐに正式な聖女認定が出来ればよかったのだが……私の報告を受け、教皇聖下が、貴女を直接見たいと言い出してな。認可のスピードが鈍化しているのだ」


 教皇――教会の頂点に立つ存在だ。

 どうやら聖女という存在は、良くも悪くも教会の注目を集めすぎているらしい。


「誘拐騒ぎと保護の件でまだ先になると思うが……いずれ教皇聖下からの呼び出しがあるだろう。覚えておいてくれ」


 司教は杖を一度だけ、雪の積もるタイルにコツンと鳴らした。


「さて。私は先に戻って、シスター・ベロニカや子供たちに事情を説明しておこう。……急な別れになる。皆の動揺も大きいだろう」


「あ……」


 ――…別れ。

 その単語が出た瞬間、胸の奥がきゅっと音を立てて痛んだ。

 明日には、私はここを発たなければならない。

 あんなに頑張って作った畑も、鶏たちも、やっと軌道に乗った孤児院も……子供たちも、すべてを置いて。


「貴女は、騎士団長殿とゆっくり来るがいい」


 司教は私の表情を読み取ったのか、あえていたずらに、口の端を吊り上げた。


「――しかし。私のいない間に、婚約者とはな。……まったく、貴女はいつも予想外で、非常に面白い」


 司教は愉快そうに肩を震わせると、杖を鳴らしてひとり、教会への道を歩き去っていった。

 沈黙が落ちる。

 一ヶ月半という空白の期間。

 今日の急な再会、領主である公爵家の息子という事実。

 そして――婚約者。

 処理すべき情報が多すぎて、私の思考回路はオーバーヒートしそうだった。


「あの……」


「すまなかった」


 私が口を開くのと同時に、ヴィンスが深く頭を下げた。


「えっ」


 氷の騎士と恐れられる彼が、道端で深々と頭を下げている。

 私は慌てて、彼に顔を上げるよう促した。


「あ、頭を上げてください! なぜ謝罪を?」


「来週会いに来ると言っておきながら、手紙ひとつも送れずに……君を待たせてしまった」


 顔を上げた彼の表情は、悲痛なものだった。

 伏せたその瞳には、一ヶ月半の後悔と、私への申し訳なさが滲んでいる。


「……領主街は大変な騒ぎだと、ジャック副団長から聞きました」


「ああ……。君の誘拐に、隣国――メルカンテ連合国が関わっていたことで、国の上層部から末端まで大騒ぎでな。エドマンド司教が聖女について説いて回った後だったというのもあって、一層混乱が酷く……身動きが取れなかった」


 彼は拳を握りしめ、悔しげに眉を寄せた。


「保護の件もだ。君が孤児院を離れたくないだろうことは分かっていたが……俺の力不足だ。君の居場所を守ってやれなくて、すまない」


【状況分析:領主の命令=絶対】

【戦力比:孤児院の管理者権限 < 領主の統治権】

【結論:抵抗によるリスク――孤児院の閉鎖などを考慮すれば、従うことが論理的最適解】


「……いいえ、ヴィンス。わかっています」


 私は首を横に振った。


「領主様の決定は絶対でしょう。それに、隣国の脅威がある以上、聖女の身柄を安全な場所に移すというのは、リスク管理の観点からも合理的です」


 もちろん、私の感情パラメータは、ここから離れたくないと警告音を鳴らしている。

 けれど、そんなどうしようもない感情をヴィンスにぶつけても、彼を苦しめるだけだ。


「……そう言ってくれると、助かる」


 ヴィンスは少しだけ安堵したように息を吐いた。

 私たちは並んで、教会への道を歩き出した。

 サク、サク、と雪を踏みしめる乾いた音が、静かな道に規則正しく響く。

 冬の乾いた風が吹く中、彼との距離が以前よりも少しだけ近いことに、胸が高鳴る。

 私は、気になっていたことを問いかけた。


「ヴィンスは、領主様の息子……公爵家の方だったのですね」


 ――公爵家。

 それは王族に次ぐ、この国で最も高い貴族階級だ。

 騎士団長の権限を超越した、機密レベルAのデータへのアクセス権。

 身なりやふるまいの上品さ。

 すべてがこの事実に整合する。


「次に会った時、君にきちんと話そうと思っていたのだが……まさか、こんな流れで知られることになるとはな」


 苦々しげに言う彼の横顔を見て、取るに足らない家だと形容していたヴィンスの言葉を思い出した。

 あの威圧的な父親だ、なにか、色々と口にしづらい事情があるのだろう。


【結論:深掘りは推奨されません】


 私はそれ以上聞くのをやめ、話題を変えた。

 一番の、疑問について。


「そ、それに、あの……婚約者、とは……」


「ああ、それも……すまない」


 ヴィンスはまた、バツが悪そうに視線を逸らした。


「父上に、君との関係を追及されてな。結婚を前提に交際をしていると言ったら、あっという間に婚約者として処理されてしまった」


 苦々しげに言う彼は、まるで不本意な任務を私に押し付けたかのように、眉を下げている。

 強引な父への反発と、私を守るための妥協案との間で、板挟みになっていたのが、痛いほど伝わってきた。


「正式な書面や婚約者としての発表は後々になると思うが……まあ、聖女を保護する理由として、父上には便利だったんだろう。……我慢してくれるか?」


「それは、はい。……光栄、です」


 彼が、私を窺うように見てくる。

 我慢など、とんでもない。

 私は頬が熱くなるのを感じながら、こくりと頷くと、隣を歩くヴィンスが足を止めた。


「俺は……嬉しかった」


「え?」


「家に反対されることなく、君と婚約者になれて、……正直に言えば、嬉しかった」


 彼は真っ直ぐに私を見つめ、そして少し不安そうに眉を下げた。


「……君は、嫌じゃないか?」


 その瞳が揺れている。

 長い期間放置してしまった罪悪感。

 強引な領主である父親、そして政治に巻き込んでしまった申し訳なさ。

 私がこの状況を嫌がっているのではないかと、彼は、怖がっているのだろう。


「――そんな顔を、しないでください」


(私は、あなたが無事で、また会えただけで、こんなにバグが出るほど嬉しいのに)



 私は、彼を背にして、少し先を歩いて前に出た。

 そして、教会がほど近い道で、彼にもらった白いブーツの踵を鳴らし、くるりと軽やかに回ってみせた。

 ふわりと、白いスカートと髪が舞う。


「私だって、とても嬉しかったですよ」


 振り返り、嬉しいと言う気持ちのままに、満面の笑みで彼に告げる。

 ヴィンスが、眩しいものを見るように目を細め、一瞬見惚れたように固まった。


「あっ」


 ――が。

 調子に乗って回転したせいで、遠心力制御に失敗した。


【――警告:ハードウェアの運動制御が不正確】

【エラー:遠心力制御に失敗。雪の下の氷により、摩擦係数が低下。バランスを喪失します】


 バランスを崩し、滑った足が宙を舞う。


「わっ!?」


【――警告:ハードウェアの安定性が限界値】

【エラー:転倒します!】


 そう覚悟して目を閉じたが、私の身体は彼の温かい腕の中に収まった。


「本当に……君は、まったく」


 目を開けると、呆れたように、けれど愛おしそうに笑うヴィンスの顔が至近距離にあった。

 冷え切った冬の空気とは対照的な、彼の胸の温もりが厚い外套越しに伝わってくる。


「俺の屋敷での生活でも、怪我をしないように気をつけてやらないとな」


 彼は私を抱き起こしながら、自然な口調で言った。

 その言葉が、私の音声処理回路を通過し、意味解析に到達する。


 ――俺の屋敷。

 領主の命令は、ヴィンセントの住む離れを使え。


「……え?」


 はっとして、私は彼の顔を見上げた。


「そ、そうです……住むって……」


【環境設定:ヴィンセントの居住区画】

【検索結果:男女が一つ屋根の下で暮らすこと……『同棲』】


「ヴィンスと……一緒に、住むんですか!?」


 叫んだ私の声が、澄み切った冬の空にこだました。

 ヴィンスは今更かと笑い、私の手を取って歩き出した。

 その繋いだ手の熱さに、これからの波乱の新生活を予感して、私のシステム温度は急上昇を始めたのだった。



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