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80. 強制移転命令

 

 急かされるままに到着した代官の屋敷は、アウロリアの街でも一際大きく、洗練された貴族の館だった。

 大きな門の奥、美しく整えられた前庭に、豪奢な石造りの外観。

 一見すれば優雅な屋敷だが、今のそこには、人を拒絶するような冷たい静寂が張り詰めていた。


(なぜ、わざわざ領主が直接、アウロリアの街へ……?)


 代官宅の使用人に案内された屋敷の内部は、恐ろしいほどに静まり返っていた。

 磨き上げられた大理石の廊下を行き交う使用人たちは、皆、影のように気配を消している。

 すれ違いざまに深く頭を下げるその所作は、洗練されているというよりは、なにかを恐れ、神経を張り詰めているかのように見えた。


【環境スキャン:私語、雑音、生活音……すべて検出されず】

【印象:極めて統率された組織。あるいは――恐怖による支配】


 暖房が効いているはずなのに、廊下を進むごとに、背筋が凍るような寒気が増していく。

 窓の外で絶え間なく舞い落ちる雪片が、まるでこの屋敷の時間を凍りつかせているようだった。


 そして、応接室に通されると、そこには呼吸すら躊躇われるほどの、重苦しい空気が澱んでいた。

 豪奢な暖炉が燃えているはずなのに、肌を刺すような冷気を感じる。


【環境分析:気圧低下を検知。……いえ、これは物理的な気圧ではなく、心理的な『重圧』です】


 部屋の中央、上座の革張りの椅子に、一人の男が座っていた。

 初老に見えるが、筋肉の衰えを感じさせない大きく屈強な体躯、なにより、全身から放たれる圧倒的な覇気が、彼こそがこの極寒のハドリアン領を統べる絶対的な統治者であることを雄弁に物語っていた。


 その男は、私の姿を認めるなり、重々しく口を開いた。


「よく来た。私がこのハドリアン領を治める領主、ハーガン・ヴァレリウスだ」


【新規リソースをスキャン】

【視認:人間、男性】

【年齢推定:50代後半】

【容姿特徴:銀髪交じりの濃紺の髪、灰色の鋭い眼光。威圧的な軍服風の外套】

【印象:『支配』『冷徹』『絶対権力』】

【警告:脅威レベル判定不能。不用意な発言は推奨されません】


 その声は低く、腹の底に響くような威圧感を持っていた。

 彼の傍らには、小さくなっているアウロリアの代官らしき人物と、領主と共に街へ帰還したらしいエドマンド司教。


 そして――。

 窓際に、ヴィンセント騎士団長が立っていた。


 一ヶ月半ぶりの再会。

 話しかけたい、駆け寄りたい衝動に駆られるが、彼の様子がそれを許さなかった。

 彼は直立不動の姿勢を崩さず、まさに氷の騎士といった無表情で、けれど痛いほどの視線を私に向けている。


(……ヴィンス?)


 私は動揺を押し殺し、領主――ハーガン・ヴァレリウス公爵に向かって、カーテシーを行った。

 この一ヶ月半の間でシスター・ベロニカに習った、貴族の前でも恥ずかしくないものだ。


「お初にお目にかかります。孤児院の管理補助を務めております、エリスと申します」



 ヴァレリウス公爵は、私を値踏みするようにじろりと見下ろした。

 まるで、市場で商品を見定めるような、あるいは戦場で敵の戦力を測るような、冷徹な目だ。


「……ふむ。聞いていた通りだな」


 低い腹に響く声と、射抜くような鋭い眼光。

 冷ややかで、計算高い理性的な光を宿した灰色の瞳。

 ――初めて会ったはずなのに、なぜか既視感を覚える。

 この冷徹な威圧感は、私のメモリにある誰かと酷似しているような気がした。


「単刀直入に言おう。エリス殿、そなたを本日をもって、我が居城――領主街の屋敷にて保護する」


「保護……ですか?」


「そうだ。隣国メルカンテ連合との緊張が高まっている。奴らはそなたの持つ知識と技術の価値を狙っているようだ」


 領主は、隣にいるエドマンド司教に視線を流した。

 彼はため息交じりに、眼鏡を押さえながら頷いて見せる。


「教会側は、まだ貴女の……聖女の正式認定に踏み込めていないのだが、聖女候補をこのような無防備な辺境に置いておくわけにはいかんと、誘拐の報告を受けて一変してな。……教会と国、双方の利害が一致した」


 つまり、私はこのアウロリアから引き剥がされ、公爵邸に保護されるということだ。


「――お断りします」


 私は、はっきりと告げた。

 その瞬間、室内の空気が凍り付く。

 ヴィンスが息を呑み、一歩踏み出そうとする気配がしたが、ヴァレリウス公爵の視線だけで縫い留められる。


「私は孤児院の管理者です。子供たちやシスターを置いて、私だけが安全な場所へ行くことは、管理者としての責務放棄にあたります。非効率かつ、容認できない提案です」


「ほう?」


 ヴァレリウス公爵が眉を片方だけ上げた。

 怒鳴られるかとも思ったが、その声色は変わらず、むしろ面白がるような響きすら含んでいた。


「ただの孤児かと思ったが、多少は肝が据わっているようだな。……だが、勘違いをするな」


 ヴァレリウス公爵は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 巨岩が動き出したかのような威圧感に、私の身体は無意識に後ずさりそうになる。


「これは提案ではない。決定事項だ。……それに、そなたにとっても悪い話ではないはずだ」


「なにがでしょう」


「そなたは、我が公爵家の次男――ヴィンセント・ヴァレリウスの婚約者でもあるというではないか」


「………………はい?」


 思考回路が、完全にフリーズした。

 ヴァレリウス公爵は、今なんと――?


「……公爵家の、次男?」


 私は呆然と、ヴァレリウス公爵を見つめ返した。

 言われてみれば、その鋭い瞳や、整いすぎた冷ややかな顔立ちは、誰かとよく似ている。

 私は、窓際に立つヴィンスへと視線をスライドさせた。


【画像認識:一致率78%】

【結論:ヴィンセントとの遺伝的繋がりを確認】


 この威圧的なハーガン・ヴァレリウス公爵は、ヴィンスの父親だったのだ。

 そして、遅れて言葉の意味が脳に到達し、処理落ちを起こす。

 たしかにヴィンスとは、結婚を前提としたお付き合いという契約を結んだ。

 だが、それがいつの間に、公爵公認の婚約者というステータスに昇格したのか。


「あ、あの……」


 私が助けを求めてヴィンスを見ると、彼は苦虫を嚙み潰したような顔で、しかし否定はしなかった。


「父上、」


「くどい」


 公爵の一言だけで、ヴィンスの言葉が断ち切られる。

 親子というよりも、上官と部下、あるいは王と騎士のような関係性が見て取れた。


「教会とも、正当な聖女の保護としてではなく、公爵家の婚約者として屋敷に滞在するならば、未認定でも文句はないと、話はまとまっている。ヴィンセントの住む離れを使えばよい」


「え、あの……」


「出発は明日だ。すぐに支度をせよ」


「明日など、論理的に不可能です。引継ぎも、荷造りも……」


「荷物など最低限で構わん。必要なものは向こうで用意させる。ヴィンセントに任せよ」


 ハーガン公爵はそれ以上、私の言葉を聞く気はないようだった。

 彼は立ち上がり、後を付いていくアウロリアの代官を引き連れ、退出していった。

 嵐のような、決定事項だけを残して。


「……送っていこう」


 呆然とする私の背中に、ヴィンスの疲れを感じる声がかかった。

 振り返ると、彼と、そしてエドマンド司教が、私を導くように扉の前で待っていた。


 私は混乱した頭のまま、よろよろと歩き出した。

 ――婚約者。同居。……明日出発?

 処理しきれない情報の濁流に、私はただ、流されることしかできなかった。



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