79. 静寂を破る震動
アウロリアの街は、冬の静寂に包まれていた。
断続的に降り続いた雪は、街の家々の屋根を厚く覆い、石畳の凹凸を滑らかな白銀のベールで隠している。
窓の外は張り詰めた冷たさに覆われているが、大きく老朽化した部分だけでもと補修を進めた孤児院の中は、なんとか暖かさを保っていた。
暖炉の薪が爆ぜる音と、子供たちが読む絵本をめくる音だけが響く、穏やかな午後。
午前中にシスター・ベロニカの所作指導を受け終えた私は、完成したばかりの万年筆の検品を行っていた。
【構造スキャン:軸の歪み、検出されず】
【精密分析:ペン先の研磨精度、良好】
【機能チェック:インクフロー、正常を確認】
先日ジェシカが、邪魔だから孤児院の方にも置いて! と笑いながら大量に持ち込んできた完成品の万年筆。
工房の職人たちが手掛けたそれらは、どれも均一で、素晴らしい仕上がりだった。
本来なら、達成感のパラメータが上昇するはずの場面、なのだが……。
「…………はぁ」
しかし、私の口からは、深く、重たいため息が漏れた。
あの灯火祭の日から数えて、一ヶ月半ほどが経過していた。
――ヴィンセント騎士団長からの連絡は、ない。
熱を出した時や、石鹸を配っていた時のように、突然彼がまた現れるのではないか。
扉が開く音がするたびに、私のシステムはそんな非論理的な期待をして、そのたびに違うという現実に落胆するという処理を繰り返していた。
(……手紙を出すべきか、何度も検討しましたが――)
しかし、必ず会いに行くと言った彼の言葉を信じるならば、彼は今、こちらに向かっている最中かもしれない。
手紙が届くのにも日数を要するこの世界で、もし手紙を出して、行き違いになってしまったら。
多忙な彼に、余計な手間や混乱を招くのは非効率的だ。
そう結論付けた私は今日も、書こうと取り出した便箋を、机の引き出しにしまっていた。
「……エリス。また、お外見てるの?」
心配そうな声に振り返ると、メルが私の顔を覗き込んでいた。
勉強の手を止めたロキや他の子供たちも、ちらちらと気遣わしげな視線を向けてくる。
「……私は万年筆の検品をしていました。外を見ていたわけではありません」
「嘘だあ。心ここにあらずって顔してたよ」
メルは苦笑すると、私の隣の椅子に、ぴょんと腰掛けた。
安心させるかのような笑顔で、私の手元にある万年筆の山を覗き込む。
「大丈夫だよ。万年筆も石鹸も、シスターがいっぱい準備してくれてるもん。司教様が戻ってきたら、すぐにでも売りに出せるよ」
「……そうですね」
アンが管理してくれている食事事情も、劇的に改善した。
鶏は順調に卵を産み、先日孵化したひよこたちは、子供たちに可愛がられて、すくすくと育っている。
畑で収穫した芋も、少なく小ぶりではあるものの、教会の地下室に十分に備蓄され、子供たちがこの冬を越すには十分な量が確保されていた。
(……この孤児院は、もう機能不全ではありません)
それは、管理者として喜ぶべき成果だ。
子供たちの笑顔。温かい部屋。安定したリソース。
すべてが穏やかで、すべてがうまくいっている。
――あなたがいない、それ以外は。
遠くから聞こえる、スコールのような音に気が付き、窓の外に目を向ける。
局地的な大雨でも発生したのかと、遠くの空を眺めていたが……。
――ドッドッドッ……。
けれど、その地響きのような音は次第にリズムを帯びて大きくなり、薄い窓ガラスを微かに震わせ始めた。
異様な振動と音に、子供たちと一緒に窓へ駆け寄り、街を見下ろした私は、その光景に演算処理を一瞬停止させた。
「……なんですか、あれは」
真っ白に塗りつぶされた大通りを踏みにじり、アウロリアの街全体を揺らすかのように現れたのは、黒一色で統一された、威圧的な馬車列だった。
かつてエドマンド司教が来た時の宗教的な厳かさとは違う。
先頭を行く重装騎士たちが帯びているのは、明確な武力と権力の匂いだ。
掲げられた旗には、吠える銀狼の紋章が描かれている。
直後、ドタドタと荒い足音が響き、ひとりの男性が息をきらして教会へ駆け込んできた。
「失礼します! 代官様の使いの者です! 聖女様! 聖女、エリス様はいらっしゃいますか!」
悲鳴に近い大声に、シスター・ベロニカが眉を寄せて応対に出る。
しかし、使いの男は礼儀など構っていられない様子で、顔面を蒼白にして叫んだ。
「至急……! 至急、代官様の屋敷までお越しください!」
「落ち着きなさい。一体なにが――」
「領主様です!!」
「……え?」
「このハドリアン領の主、ヴァレリウス公爵様、ご本人が……たった今、このアウロリアの街に到着されたのです!!」
――領主。
このハドリアン領を統べる、絶対的な最高権力者で公爵。
その言葉の意味を理解した瞬間、シスター・ベロニカが息を呑み、私の腕を掴んでいたメルの手が震えた。
なぜ、領主が直接、こんな辺境の小さな街へ?
隣国の動きについてか――、聖女の話か――。
予測されるシナリオは無数にあるが、どれも芳しいものではないことだけは確かだ。
私は、代官の屋敷前に並ぶ、黒い馬車の列を見下ろした。
その威容は、降り続く雪の中に浮かび上がる、私たちを逃がさない檻のようにも見えていた。




