77. 予期せぬ友人の定義
「これでは、孤児院の者たちに怒られてしまうな」
ヴィンスは苦笑しながら、懐からハンカチを取り出すと、私の目元を優しく拭った。
その言葉に、私はハッとする。
お風呂に、ドレスに、お化粧――皆が総出で、私のために準備をしてくれた光景が蘇る。
「す、すみません……! 崩れるから泣くなと言われていたのに……!」
私が慌てて手で顔を覆おうとすると、ヴィンスがその手を優しくのけた。
「君は、泣いていても綺麗だ」
「え……?」
ふと、彼の顔が近づく。
月明かりと蝋燭の火、その両方を映した彼の瞳が、至近距離で私を捕らえて逃がさない。
長い睫毛が触れそうな距離で、彼が目を細め――。
ちゅ、と。
涙で濡れた私の目元に、微かな音を立てて口づけを落とした。
「へゃ……!?」
喉から、聞いたことのない変な音声が飛び出した。
触れた場所から、電流のような痺れが全身へと駆け巡る。
私が硬直していると、ヴィンスは悪戯っぽく笑い、私の顔を覗き込んだ。
「ああ、ほら。涙が止まったな」
「あ、う……っ!?」
からかわれている。
そう理解しても、羞恥のパラメータが暴走して止まらない。
熱くなった目元を両手で覆い、私はパニックに陥った。
(……目元に、キス、なんて……!)
――いえ、待ってください。
思い至った可能性に、ぴたりと私は動きを止めた。
私たちは先ほど、契約――交際を前提とした関係を結んだはずだ。
ならば、このようなスキンシップは、恋人として標準の範囲内……?
【シミュレーション開始:今後の接触頻度と部位】
【予測結果:頬、手、抱擁、そして……】
(……無理です!!!!!)
髪や、目元でこれだ。
もし今後、頬や、……く、唇などに接触が発生した場合、私のシステムは間違いなくハードウェアごと爆発四散する。
「ううぅ……っ!」
「……くくっ」
私が顔を覆って身悶えしていると、頭上から楽しそうに漏れる笑い声が降ってきた。
「君が俺に翻弄されている様を見るのは……なかなか、気分がいいな」
「なっ……! 意地悪です……!」
「そうかもしれないな」
私が抗議のために顔を上げると、ヴィンスは満足そうに目を細め、私の腰を引き寄せた。
そして、今度は額に、愛おしむように長くキスを落とす。
「ようやく君に触れる権利を得たんだ。多少の意地悪くらい、許されるべきだろう?」
「ひゃわ……」
「ほら。行くぞ、エリス」
彼は至極楽しそうに、真っ赤になった私の手を取り、エスコートするように歩き出した。
蝋燭の飾られた塔から出て、広場の喧噪に混ざろうとしたところで――
「あ! 聖女様ー! ヴィンスー!」
奉納用の蝋燭を手に、少し遠くから手を振っているのは、ジェシカだ。
彼女は私を見つけるなり、血相を変えて駆け寄ってきた。
「聞いたわよ! 誘拐されたって!? 大変だったじゃない! 怪我はない!? もう、ロキたちから聞いて肝が冷えたわよ……って、」
勢いよく私の肩を掴んで安否を確認していたジェシカの言葉が、唐突に止まる。
彼女は、至近距離にある私とヴィンスの顔を見比べ、そして、エスコートにと繋がれた手を見て、にんまりと口元を押さえた。
「あれ? もしかして……」
ふたりの間に流れる空気の甘さを、察知されたようだ。
私は、気まずさと申し訳なさで、ヴィンスの手を握る力を少し緩めてしまう。
(……ジェシカは、ヴィンスの幼馴染で……私よりも、ずっと彼のことを知っていて、お似合いで、でも……)
「よかったじゃない、ヴィンス!!」
「ぐ……っ」
私の葛藤をよそに、ジェシカはヴィンスの背中をバシンと思い切りに叩いた。
豪快な音が響き、ヴィンスが前のめりになる。
そして、私の方に向き直ると、心底ほっとしたように胸を撫で下ろす。
「心配してたんだよー! この堅物お坊ちゃんが、ちゃんと想いを伝えられるかどうかって!」
「え……?」
「聖女様も! うまくいってよかったねー!」
屈託のない笑顔。
そこには、嫉妬や悲しみといった負の感情は、一切検出されない。
あまりの不思議さに、私は思わず口に出していた。
「あの……ジェシカは、ヴィンスを……その、好きなのでは、ないのですか?」
「「は?」」
ヴィンスが不快そうに眉を寄せ、ジェシカは驚いて目を丸くする。
そしてジェシカは、あー……と少し困ったように頬をかいた。
「それは――…」
「ママー!」
その時、人混みの中から、幼い男の子の声が響いた。
テトテトと走ってきた小さな男の子が、ジェシカの足に抱き着く。
「もー、ジェシカ。先にいくなって……あれ、聖女様? お久しぶりです」
その後ろから、苦笑いしながら現れたのは――ポンプ設置の際にいた、工房の若い職人見習いの男性だった。
彼は手には子供用の菓子を持ち、慣れた様子でジェシカの隣に並んだ。
「え?」
私が呆けていると、ジェシカは満面の笑みで、ぺろりと舌を出した。
「実は、私もう結婚してるから! ヴィンスなんて、眼中にないの!」
「……けっこん?」
【データ照合:工房の若い職人=ジェシカの夫】
【データ照合:幼児=ジェシカの遺伝子情報を継ぐ個体】
「ほら、高い高いー!」
ジェシカは足元の息子を片腕だけで軽々と持ち上げた。
キャッキャと喜ぶ、彼女たちの子供。
その腕の筋肉の動きと、慣れて安定した重心。
(ジェシカの腕力は、育児による筋力増強の結果だったのですか……!?)
点と点が繋がり、私の勝手な勘違いという事実だけが残る。
ヴィンスが、じとりとした視線をジェシカに向けた。
「……ジェシカ。貴様、エリスになにを吹き込んだ」
「あははー……」
ジェシカは夫と子供に苦笑いされながら、白状した。
「だって! 聖女様がヴィンスのこと好きすぎて悩んでるのが可愛くて! ヴィンスなんてもう、聖女様のことすきなの丸わかりなのに! ちょっと焚きつけちゃおうかなって!」
「……わ、私の悩みも、嫉妬も、無駄だったのですか…!?」
「それは無駄なんかじゃないわよ!」
私がショックを受けてふらつくと、ジェシカは私の肩を叩いた。
彼女らしい明るい笑顔で、私にウインクをして見せる。
「いっぱい考えて、自覚して、嫉妬して……そうやって話して、やっと恋人になれたんでしょ?」
ジェシカは、会話の途中でヴィンスを指さす。
「それに見てよ。嫉妬したって聞いて、そいつ、顔逸らしてニヤけてる」
見ると、ヴィンスは顔を向こうにそらしているが、その耳は赤く、口元は隠しきれないほどに崩れていた。
私の嫉妬という感情すらも、彼にとっては好意の証として嬉しかったのだと理解し、さらに顔が熱くなる。
「嘘を言うな」
「なによー! 図星でしょ!」
気安いやり取りをする二人。
けれど、今の私の胸には、もうあの黒いノイズ――嫉妬は発生しなかった。
ジェシカの言う通り、あの嫉妬があったからこそ、私は自分の気持ちを自覚し、彼に伝えることができたのだ。
(必要な、プロセスだったのですね)
「……ジェシカ」
「ん?」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、ジェシカは太陽のように笑った。
「いいのよ! 友達じゃない!」
「友達……」
【検索:友達】
【定義:互いに心を許し合って、対等に交わっている人】
「……なのですか?」
「ええーっ!? 友達でしょ!? インクだって一緒に作ったし、恋バナだってしたじゃん!」
ジェシカががっくりと肩を落とす。
孤児院のみんなは家族。
そして彼女は、この世界で初めてできた、対等な友達……なのだろうか。
「ママ、はやくろうそくー」
「あ、そうね。行こ!」
息子に服を引っ張られ、ジェシカは夫と顔を見合わせて笑う。
「じゃあまたね! ヴィンスがなんかしたら、いつでも相談してよね! じいちゃんも、また待ってるって!」
ジェシカはそう言い残し、旦那さんと息子と共に、幸せそうな背中を見せて人混みへと消えていった。
「本当に、嵐のような方ですね」
「まったくだ」
呆れたような、でもどこか安心したような声で、ヴィンスが同意する。
私は、彼を見上げて、いたずらっぽく笑った。
「でも……ジェシカに、あなたの小さい頃の話を伺ってみるのは、いいかもしれませんね?」
「……勘弁してくれ」
ヴィンスが、参ったという表情で額を押さえる。
その顔が見られただけで、私は満足だった。
「おーい! 団長ォー!」
人混みの向こう、遠くから、ジャック副団長の声が響いた。
そろそろ、別れの時間のようだ。




