120. 痛みを打ち消す蹄の音
リリアンからの拒絶という、論理的思考だけでは処理しきれない、重い泥のような感情を抱えたまま、私は本邸の庭園を抜けて離れまでを歩いていた。
冬の日の光が落ちていく庭園を、重たい気持ちを抱えたまま一人で歩く。
それがなんだかひどく寂しくて、なぜか今すぐに孤児院に帰ってみんなに会いたいという、不合理な衝動に駆られた。
ぼんやりと進んでいると、見えてきた離れの玄関先から、私に気が付いたアメリアが慌てた様子で駆け寄ってくるのが見えた。
「エ、エリスお嬢様……!」
「アメリア、どうしましたか?」
まだ離れの庭園を抜けたばかりの私の前まで来ると、アメリアは膝に手をついて激しく肩を上下させる。
その呼吸が整うのも待たず、彼女は掠れた声で告げた。
「さ、先ほど、騎士団から知らせが参りました……! 出発が、明日の朝に決定したとのことで……!」
「そう、ですか……」
明日の朝。
もう夕方に差し掛かった今日から考えれば、もうあと半日後。
寝て起きてとするだけで、ヴィンスと再び遠く離れてしまう。
出立はすぐであると予期していたことではあったが、いざその時が明日であると突きつけられると、胸の奥にあるノイズが不快な振動を強める。
ずっと一緒にいたいと思うのが恋であると、私はかつて孤児院で定義づけた。
ならば、その恋の裏側にあるこの痛みは何だろうか。
一緒にいたいのに、一緒にはいられない、そう突きつけられた瞬間に生じるこの胸の痛みは、あまりに不自由で、ひどく鋭い。
【心理ステータス:分離不安、および胸部の圧迫感を検知】
【分析:物理的距離の拡大予測に対し、不快指数が閾値を突破。――これが、定義の対偶としての『恋』の痛みであると認定】
声の沈んだ私とは対照的に、アメリアはなおも焦りを含んだ声で続けた。
「それで、その――」
アメリアの言葉を遮るように、その時、鋭い馬の嘶きが響き渡った。
離れの方へと顔を上げると、見慣れた青鹿毛の馬が、煉瓦に蹄の音を高く響かせて屋敷前の車寄せへと滑り込んできたところだった。
騎士団のマントを翻し、まだ止まりきっていない馬の背から鮮やかに飛び降りたのは――。
「――ヴィンス?」
昨日、ハーガン公爵の手当の途中で騎士団へと駆けていった背中を最後にしていたその姿を見て、私は思わず離れの玄関先まで駆け寄っていた。
「戻った。……なんだ、まだ準備はできていないのか?」
「準備……ですか?」
目の前に立つヴィンスは、明日戦地へ向かうはずの騎士団長の顔ではなく、どこか急いたような、けれど柔らかな瞳を私に向けていた。
――忘れ物だろうか、それとも何か別の用事があって戻ったのだろうか。
何の準備だろうかと私が首を傾げていると、遅れて私の隣まで駆け付けたアメリアが、息を切らしながらヴィンスを叱り飛ばした。
「坊ちゃん! エリスお嬢様は公爵閣下のお見舞いにいっていらっしゃって、たった今戻られたところなんですよ!!連絡を送るならもっと早くと前にも……!」
「そうだったのか。……では、このまま行くか」
「何を仰るんですか! 女性に準備の時間も取らせないなんて……!!」
取り留めなく続くアメリアの小言を背中で受け流しながら、ヴィンスは外したばかりのマントと甲冑をアメリアへと手渡した。
少しラフな姿に、灯火祭の時を思い出し、先ほどまでの不快感や痛みを押し出すかのように、胸の奥が甘くぎゅっと締め付けられる。
「――ああ、馬車の準備はできているようだな」
「荷造りを中断して、大急ぎで支度を頼みましたから!」
アメリアの叱る声に重なるように、離れの前に一台の公爵家の馬車がゆっくりと止まったのを見て、ヴィンスは馬を駆けつけた別の使用人へと引き渡した。
「まったく……本当なら、着替えやお化粧直しに2時間はいただきたかったですわ! せっかくの機会ですのに!!」
「エリスはこのままでも十分だろう」
「そういう問題ではございません!!」
ふてくされるアメリアと、急いでいる様子で揺るがないヴィンス。
交互に二人を見やるが、私だけが未だにこの状況を理解しきれていなかった。
「あの……ヴィンス?」
きょとんとする私の手を取り、ヴィンスは急ぐように少し強引に馬車の方へと引くと、私を振り返り、口角を僅かに上げて、悪戯っぽく、けれどこの上なく真剣な眼差しで告げた。
「デートに行くぞ、エリス」




