121. 死亡フラグ即時破棄
ヴィンスにエスコートされるまま馬車に乗り込むと、車輪がゆっくりと石畳を叩き始めた。
離れの敷地を出た馬車は、見慣れた本邸の方角ではなく、今まで向かったことのない街の中心部へと走っていくようだ。
流れていく未知の景色を追いながら、私は隣に座るヴィンスへと視線を向けた。
「どこに――」
向かうのですか、と。
隣に座るヴィンスに問いかけようと振り向いた瞬間、視界が彼の広い胸板で覆われた。
強引に引き寄せられ、大きな体躯にすっぽりと抱き込められる。
「……え」
急な出来事に、私の心拍数は一気に跳ね上がった。
戸惑う私の背中に回された腕は、逃がさないと言わんばかりの強さでさらに力を増していく。
「あ、あの、ヴィンス――」
「明日、戦地に発つ」
彼の低い声が、私の耳元で重く響いた。
その言葉を聞いた途端、先ほどまで感じていた胸の痛みがぶり返し、私は思わず俯きかけた。
【生体スキャン:ヴィンセント・ヴァレリウス】
【分析:呼吸の深度および筋肉の緊張から、高度なストレス状態を検知】
【推論:明日への重圧、および分離への強い葛藤。いかに強靭な精神を持つ騎士といえど、心理的負荷は最大値に近いと推察】
抱きしめられているせいで、彼の表情を窺い知ることはできない。
けれど、この強く回された腕が、どこか縋っているようにも思えて。
私は行き場を失っていた自分の腕を、自然と彼の背中へと回していた。
「無事に帰ってきてください、ヴィンス。……待っています」
かつての私であれば、この状況における「正しい返答」や「最適な応対」を検索し、言葉を選んで口にしていたはずだった。
けれど今は、まるで祈るような言葉が、演算を通さず自然にこぼれ落ちていた。
自分でも驚くほど、それは真っ直ぐな本心だった。
「……エリス」
不意にヴィンスの腕の力が緩んだ。
二人の間に出来た隙間の中で顔を上げると、至近距離にヴィンスの瞳があった。
それは、灯火祭の夜と同じ、至近距離で私を射抜くような真剣な眼差しだった。
「戦地から無事に戻ったら……正式に婚約をしよう」
【分析:発言内容の類似性を確認】
【警告:特定の物語構造における『死亡フラグ』を検出】
「だっ、ダメです!」
「ダメ……とは?」
あまりに唐突な私の拒絶に、ヴィンスは虚を突かれたように瞬きをした。
私は慌てたまま、全力で首を振った。
「そのセリフは、私の知識体系において一般的に『死亡フラグ』と呼ばれているものです……! ヴィンスが戦地から無事に帰還する生存確率を、概念的ではありますが著しく低下させます!」
「……フラグ?」
私の必死な説明に、ヴィンスは一瞬だけきょとんとした。
けれど、ふむと視線を斜め上に向ける。
「ああ、そういえば……確かに、兵たちの間でそのようなジンクスを聞いたことがあるな。『この戦いが終わったら結婚する』と言った奴ほど、帰ってこないと」
「ジンクスというと非科学的ではありますが、無意識に成し遂げた後の安心を先取りしてしまうことで、戦場での生存本能に悪影響を及ぼさないとは言い切れませんし、心理的な慢心や、過度な運命論への傾倒を招き――」
私が熱を込めて説明を続けると、呆然としていたヴィンスが、やがてくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
「君がそのようなジンクスを信じるとは意外だな。合理的でないものには興味がないと思っていたが」
「確かに、明確なデータはありませんが……」
AIらしくない不確実な懸念だと分かっていても、彼の生存に関することだけはデータの例外として処理せざるを得ない。
「ではなんと言えばいいんだ。そのジンクスとやらに抵触せずに、どう言えば伝えられる」
「そうですね……」
まだ半分ヴィンスの腕の中に閉じ込められたまま、私は顎に手をやり真剣に考え込み始めた。
そんな私を、ヴィンスは瞳を細めて愛おしげに見守っている。
【検索:死亡フラグを回避する代替行動】
【分析:言語による未来の約束はすべて『フラグ』となり得るリスクあり】
【結論:言語ではない非言語コミュニケーションが最適解である。つまり――】
「――キスをする、などいかがでしょうか」
導き出された結論にぱっと顔を上げて、私はいつも通り最適解として提示する。
しかし、それを聞いた瞬間、ヴィンスは驚いたように数度瞬き、すぐに顔を横に背けた。
「……君は本当に、俺を驚かせるのが得意だな」
「え?」
横向いたまま、しばらくしてこちらに視線だけを戻した彼の目元は僅かに赤く、微かな熱を孕んでいる。
そこでようやく、私は自分が何を言ったのかを自覚した。
(あ、ああああああ……!?)
これではまるで、私がテクニカルに、かつ論理を盾にしてキスをねだったようではないか。
そう理解した瞬間、この狭い馬車の中で暴れ出しそうなほどの羞恥が、一気に全身を駆け抜けた。
「ち、違うんです、ヴィンス! その、論理的な結論として……! あの、でも、拒否をしているわけではなく! いえ、ねだったわけでもなくて……! ああああ、違うんですが、違うので……!」
喋れば喋るほど墓穴を掘り、顔面がオーバーヒートを起こす。
真っ赤になって混乱する私を見て、ヴィンスは耐えかねたように肩を揺らして低く笑った。
「いや、分かっている。君のそういう、予想外なところも愉快で……愛おしく思う。だからここは――」
緩く私の肩を掴んでいた彼の手のひらに、ぐっと力がこもった。
軽く引き寄せられて赤い顔を上げると、目の前には今まで見たことがないほど、優しく口元を緩ませたヴィンスの顔があった。
「聖女様の神託に従うことにしようか」
ゆっくりと近づいてくる逃げ場のない距離に、私は堪らずきゅっと目を閉じた。
ふっと低く笑うような吐息が頬を撫で、緊張に引き結んだ私の震える唇に、彼の優しい温度が重なった。




