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118. 倫理を超えた拒絶

 

 リリアンの震える手から離れた長剣が、空を切って落下する。

 鈍い衝撃音と共に、白大理石の床に鮮血が飛び散り、広間は一瞬にして凍りついたような静寂に包まれた。


「そ、そんな……っ」


 リリアンの悲鳴のような掠れ声。

 しかし、その視線の先で血を流していたのは、彼女の夫ではなかった。


「どうして、父上――!?」


 アレクシオスの腕を掴み、乱暴ながらも床へと引き倒して庇ったのは、他ならぬヴァレリウス家の当主――ハーガン公爵だった。

 机の上を跳ねるように駆け、一瞬の判断で息子を救った彼は、膝をついて自らの腕を強く押さえている。


「あ、あなた……!」


 大理石に広がり始めた血溜まりを跳ね上げ駆け寄ったベアトリス公爵夫人が、ドレスが汚れることも厭わずに、夫の身体を支えた。


【生体スキャン:ハーガン・ヴァレリウス】

【損傷部位:左肩から二の腕にかけての深い裂傷。動脈損傷の可能性あり】

【判定:出血量過多。ただちに応急処置および止血が必要】


 周囲を見渡すが、止血に適した布が近くにない。

 装飾用の硬いテーブルクロスや絨毯では、傷口を汚染するリスクが高い。

 周囲をスキャンするように彷徨わせていた視界に、私自身のドレスが目に入り、レースを抱えてヴィンスへと駆け寄った。


「ヴィンス、私のドレスを破ってください!」


「は……、っ、ああ、分かった!」


 彼は一瞬だけ息を呑んだが、私の瞳にある決意を読み取ると、迷いを捨てた。

 逞しい指先が私のドレスの裾を掴み、躊躇のない手つきで一気に大きく引き裂くと、その布を止血帯としてハーガンの元へ駆け寄る。


「父上、応急処置をします。兄上はすぐに医者の手配を!」


「あ、ああ……!」


 床に倒れたまま固まっていたアレクシオスは、ヴィンスの言葉で弾かれたように立ち上がり、扉の方へと走り去った。

 その走る背中を見送り、息子に怪我がないことを確認したハーガン公爵は、噛み殺していた苦しげな息を長く漏らした。

 ベアトリス公爵夫人が支える中、ヴィンスが手慣れた手つきで私のドレスの布をハーガン公爵の腕にきつく巻き付けていく。


「わ、私……こんなつもりじゃ……」


 その場にへたり込み、先ほどまでの狂気は消え失せたリリアンが子供のように震えていた。

 とめどなく溢れる涙が彼女のドレスを濡らし、ひきつった呼吸が広間に虚しく響く。


「……妊娠中という、極めて不安定な時期だ。咎めはせん」


 痛みに耐えながら、とぎれとぎれに紡がれたハーガン公爵の声は、いつもの威厳ある低音ではなく、掠れた、ひどく脆いものだった。


「愚息が、悪いことをしたな……。身重の妻をここまで不安にさせるとは……」


「……身重だったからこそですわ。万が一、開発に失敗すればアレクシオスは跡継ぎから外される。そうなればリリアンとお腹の子の行く末がどうなるか……それを危惧して、あえて隠していたのです。でも、ごめんなさいリリアン。少しは貴女にも、説明するべきだったわ……」


 ベアトリス公爵夫人は夫の腕を支えながら、溢れる涙を堪えていた。

 ヴィンスが処置を続ける傍らで、ハーガン公爵は自嘲気味に口角を上げた。


「あそこまで大きなことを成しておいて、自信がなさすぎるのも考えものだな。……継がせた後も、私の仕事は多そうだ」


「あ、あなた……アレクシオスに家督を……?」


「先ほどそう、伝えようとしたのだがな。……途中で、あいつが遮ったのだ。結果が出てから決めて欲しいと。黙っていれば決まったことを……。そういったところが、あいつはまだまだなのだ」


 その時、アレクシオスが使用人たちを連れて広間へ戻ってきた。

 血塗られた凄惨な光景に、使用人たちが小さく悲鳴を上げ、多くの使用人が二の足を踏む。


「失礼します!」


 ためらう使用人の間を縫うようにして、一人の使用人が慌てた様子で、広間へと滑り込んできた。

 彼も他の使用人と同様に惨事を見て一瞬ひるむが、すぐに顔を上げて書状を掲げる。


「国境にて戦端が開かれました! 王家より動員令が下っております!」


 広間の空気が一変し、戦慄が走る。

 応急処置をしていたヴィンスの手が一瞬止まるのを見ると、布を巻く彼の手に、私はそっと手を重ねた。


「ヴィンス、行ってください。あとは私が」


「……ああ、頼んだ」


 ヴィンスは短く応じると、次の一瞬で騎士団長としての顔つきになり血に染まった礼装のまま、広間から飛び出していった。

 引き継いだ手当を全うするため、割いたドレスの布を強い力で引っ張る。


【スキャン:患部の止血状態】

【分析:左腋窩動脈、および上腕動脈の損傷】

【解析:止血最適点の特定。鎖骨下動脈の圧迫、および上腕二頭筋内側への加圧を推奨】

【実行:ドレスの布による圧迫固定。血管の完全閉塞により出血を95%抑制】


 ハーガン公爵はなおも痛みに顔を歪めながらも、アレクシオスを見据え、公爵としての威圧を込めた低い声を響かせた。


「――アレクシオス」


「は、はい!」


「本日この時より、お前を領主代行に任ずる。……行け、ヴァレリウスの名を汚すな」


「え……」


 アレクシオスは、一瞬だけ目を見開いた後、覚悟を決めたように拳を握りしめ、真っ直ぐに立ち上がった。


「お任せください」


 そう言って踵を返した彼の背中は、先ほどまでとは別人のように頼もしく見えた。

 廊下へでて使用人への指示を始めたアレクシオスと入れ替わるように、医療品の荷物を抱えた医者が到着し、広間が戦場のような慌ただしさに包まれる。

 ようやく一息つけるかと思った、その時だった。


「う、あぁぁ……!!」


 リリアンが下腹部を押さえ、苦悶の声を上げた。

 へたり込んでいた身体を丸めてうずくまり、耐えるようなうめき声の合間に漏れるその呼吸は荒い。


「リリアン……!?」

「まさか、まだ予定日は先のはずでは……」


【生体スキャン:リリアン・ヴァレリウス】

【事象:陣痛、破水を確認】

【推論:激しい動作、および精神的ショックによる急激な腹圧上昇。早産の可能性が高い】


 ハーガン公爵の傍から離れられない医者とベアトリス公爵夫人は、動揺を露わにケガ人と妊婦両者の間で視線を彷徨わせている。


「私はもう大丈夫だ。リリアンを……妊婦を優先しろ」


 ハーガン公爵の断固たる命令に、医者が慌てて助産婦の手配を指示しリリアンの元へ駆け寄る。

 ベアトリス公爵夫人は、傷ついた夫と、早産になりそうな嫁の間で、不安げに惑い視線を往復させていた。


「リリアン様の付き添いには、私が――」


 ベアトリス公爵夫人の迷いをくみ取って、私が一歩踏み出した瞬間。


「やめて!!」


 リリアンの、怒気の含んだ拒絶が広間に響いた。

 痛みに耐える呻きの合間に、彼女は腹部を抱えながら鋭く私を拒む。


「全部、私の勘違いだったとしても……アレクと私の子が生まれるところに、貴女なんていて欲しくない……!!」


【分析:対象の言動における矛盾を検知】

【事実:誤解は解消済み。敵対理由の消失】

【現状:依然として強い拒絶反応を継続】


「そんな場合では――」


「貴女に立ち会われるくらいなら、私、この子と死んだ方がマシよ……!!」


 初めて経験する明確な拒絶に、何故という気持ちと、極めて人間的な反応であるという理解が同時に湧き起こる。

 感情とは、論理的な正誤だけでは処理できない未知の変数なのだと、私は再認識しつつも、言いようのない、もやりとした不快感が胸の内に広がっていく。


「私がいくわ。安心しなさい、リリアン」


 ベアトリス公爵夫人は私に頷いて見せつつ横目に視線を残すと、痛みと怒りで興奮するリリアンの背を撫で宥めながら、使用人が引き上げた担架に付き添って医者と共に広間を出て行く。

 広間に残されたのは、血に染まった床と、私、そして負傷した腕の処置が終わったハーガン公爵だけだった。


「……ふ、滅茶苦茶だな」


 公爵が、不意に短く笑った。

 確かに滅茶苦茶な一日だ。

 缶詰が認められ、妊婦の乱入があり、公爵の流血があり、隣国との開戦が決まり、領主代理が立ち、命が生まれようとしている。


 呆れ混じりながらも半ば愉快そうにハーガン公爵が立ち上がろうとするのを、私は即座に制した。


「ハーガン公爵、無理はしないでください」


「思いの外、大丈夫だ。……ヴィンセントの応急処置が的確だったからな」


 私の支える腕にわずかによろめいたハーガン公爵は、ヴィンスが破った私の短くボロボロになったドレスの裾へと視線を落とした。


「……お前たちは、ちゃんと理解し合っていたな。少ない言葉で、互いの成すべきことが分かっていた」


 その視線に誘われるように、自らの地に汚れて切り裂かれたドレスを見下ろす。

 ドレスを破ってと言って、即座に理解し、実行してくれるのは、きっとヴィンスだけだろう。

 私は、彼のそういうところが――。


 この場にふさわしくない不必要な思考を、顔を横に振って振り払うと、私の様子を見たハーガン公爵が喉の奥でくつくつと低く笑った。

 その笑みは、驚くほどヴィンスとよく似ていた。


 ぼんやりとその笑みを見てしまっていると次の瞬間、再び広間に使用人が駆け込んできた。


「失礼します!!」


「今度は何だ。開戦のことなら領主代行を命じたアレクシオスに――」


「いいえ、こちらです……!」


 差し出された震える銀の盆の上には、重厚な封蝋が押された書状が載っていた。

 見覚えのある、教会の印。

 これは――


「エリス様へ、教皇聖下からの親書です……!」


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